譲れない女1

「大正恋物語」といえば、漫画ファンの間でその名を知らない者はいないだろう。その名の通り、大正時代を舞台に、若い男女の恋愛を描いた少女漫画で、その緻密なストーリーと美麗な絵は数々の漫画ファンを魅了し、累計発行部数は瞬く間に一千万部を突破。その勢いはなおも止まらず伸び続けている。現在は全十七巻が発売されており、最新十八巻は、この春に発売予定である。


 ただ、この漫画のタイトルは知っていても、ストーリーを考えている原作者と、絵を描いている漫画家とが別々の人間であることを知っている者は多くないだろう。そういった形式を取っている作品は、今時珍しくない。そして、この「大正恋物語」の作者である石橋うさぎもまた、ある二人の女性のペンネームである。脚本家は橋本直子、絵を描いているのは石田川あゆみ。ずっと一緒に作品を作り上げて来たこの二人の間に亀裂が入った原因は、やはりあゆみの方にあるだろう。しかし、ここまでの悲劇になるとは、誰も想像していなかったに違いない。






 その日、あゆみは大学時代の友人たちとテニスをして遊んでいた。彼女はかつてテニスサークルに所属しており、当時のサークル仲間とは、大学を卒業して五年が経った今でも連絡を取り合い、こうしてたまに会ってテニスをしたり、飲み会を開いたりして遊んでいる。


 サークルメンバーは、あゆみの他に男三人、女二人。メンバー同士で付き合ったり別れたりということが大学時代には幾度かあったが、あゆみはそういった色恋沙汰には一切縁が無かった。それは決してあゆみの容姿が人より劣っていたからではない。むしろあゆみは、サークルメンバーの中で、いや、世間一般の目から見ても、美人の部類に入る女性だった。無論、サークルメンバーの男たちはもちろん、他のコミュニティの男たちからも、あゆみは引く手あまただった。しかし、あゆみはその誰とも付き合うことはしなかった。あゆみは、人と接することは好きだったが、恋愛に関しては興味を示すことが無かったのだ。それよりも、あゆみは絵を描くことの方が好きだった。恋や愛などという形の無い不確実なものよりも、自分の描いた絵という形のある、確実で、他者から相対的評価を貰えるものに価値を置いていたのだった。そういったあゆみの態度は、一方では反感を買うこともあったが、他方ではむしろ魅力的に思われることも多々あった。今こうして一緒にテニスをやっている仲間たちは、その後者にあたる。


 ゲームが一段落つくと、あゆみはコート横のベンチに腰掛けた。汗で少し化粧が落ちているものの、その姿はやはり美しく、むしろばっちり化粧をしているときよりも魅力的に見えた。あゆみが汗をタオルで拭っていると、隣にさっきまであゆみと対戦していた健司が座って来た。


「お疲れ。大学のときより上手くなってんじゃない?」


「そんな訳ないでしょ。健司が運動不足なだけ」


「確かに。就職してから全然できてないもんな」


 健司は大学時代、あゆみのことが好きで、何度も告白をしたが、そのたびこっぴどく振られていた。それでも今、こうして普通に友人として接することができているのは、ひとえにあゆみの人の良さが為せる業だろう。健司の方も、今はかつての恋心はすっかり消え失せ、現在では新しい恋人と結婚を前提に付き合っているという。


「仕事はどんな感じ?」


 あゆみは、久しぶりに会った旧友にする最もありふれた質問を投げかけた。


「まあぼちぼちって感じかな。そっちは…って、聞くまでもないか」


「やめてよ」


「だって今や大人気漫画家だろ? いやらしい話、収入だって俺たちの比じゃないだろう? なあ、ぶっちゃけ今いくらもらってんだよ?」


「いいの? 聞いて。働くの嫌になっちゃうかもよ?」


「ごめんなさい。もう聞きません」


 二人は笑い合った。健司の見た目も決して悪くない。世間的にはイケメンに入る部類だ。端から見れば、楽しそうに会話をするあゆみと健司は美男美女のお似合いのカップルに見えることだろう。


「今日は仕事はいいの?」


「うん。今月分の絵はもう全部描き終わってるから。しばらく暇なの」


「へえ、すごいな。そんなに暇なら、あゆみに何か仕事頼んじゃおうかな。今をときめく人気漫画家が絵を描いたCMなんて作れたら、話題性は抜群だしね」


 健司は広告代理店に勤めている。


「全然いいよ。何でも言って。本業の邪魔にならない程度ならいくらでも描くよ」


「本当に!? 冗談で言ったつもりだったんだけどな。俺、マジで依頼しちゃうよ?」


「だから別にいいって。私も暇でいるぐらいなら絵を描いてる方が楽しいもん。しかもそれがお金になるなら尚更」


 二人はまた笑い合った。


「オッケー。じゃあ企画書出してみて、もし通ったらあゆみにお願いするよ」


「了解」


 そのとき、テニスをして遊んでいたサークルメンバーの女の一人が、健司の名前を大きな声で呼んだ。


「健司! 今度は私とやろうよ!」


「おう! すぐ行く!」


 健司は女に快く返事をし、ベンチから立ち上がった。


「じゃあ行って来るよ」


「うん」


 健司はあゆみに微笑みかけ、コートへと戻って行った。


 あゆみは、テニスを楽しむ仲間たちを眺めながら、少し心が温まるのを感じた。こうして自分の好きな仲間たちと一緒に過ごしている時間が、あゆみは好きだった。絵を描くという自分の好きなことを仕事にし、休みの日は仲間と過ごす。こんな日々が永遠に続けばと思っていた。


 しかし、あゆみのその願いが叶うことはなかった。そしてそれをしたのは、他でもない、あゆみ自身であった。


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