負けられない女14

 翌日の朝十時過ぎ。練習場の前にめぐりは一人で立っていた。スキニージーンズに長袖のシャツというシンプルな装いは、めぐりのスレンダーな体の曲線をくっきりと見せるものだった。さんさんと照り付ける太陽は、めぐりの体を焼いていた。めぐりは、日焼け止めを持って来なかったことを内心後悔していた。


 そうしているうちに、間もなく向こうの方から山崎が急ぎ足でやって来た。相変わらず真っ黒なスーツを着ている。


「すいません! 少し遅れてしまいました!」


「自分から呼び出していて遅刻ですか? デートなら即帰ってるところです」


「本当に申し訳ありません。昨日遅くまで『百人一首』の勉強をしてまして…」


「山崎さん。そんなんじゃ私の御機嫌は取れませんよ?」


 そうは言いながら、めぐりの顔は緩んでいた。その顔を見ながら、山崎はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。


「しかし、最近暑いですね。残暑というやつでしょうか」


「暑いならそのスーツを脱いだらよろしいのに」


「いえ。これが一番落ち着きますから」


「でも、確かに暑いのには同感です。さっさと中に入りましょう」


「そうですね。では、こちらへどうぞ。ご案内します」


 山崎はめぐりの前に立ち、彼女をリードするように練習場の中へ入って行った。めぐりはそれに応ずるようにして、山崎に付いて行った。その様子は、さながら大企業のお嬢様とお付きの執事のようでもあった。






 練習場の中はがらんとしていた。競技かるたの大会は昨日で既に終わっている。今日からは通常通り練習が行われているはずだが、なぜか人がいる気配が全くない。めぐりが不思議に思っていると、それを察したのか、めぐりの前を歩く山崎が前を向いたまま説明を始めた。


「今日はここを貸し切らせてもらいました。かなり無理を言って」


「貸し切り? どうしてそこまで…」


 山崎は一度立ち止まり、めぐりの方を振り返って答えた。


「だって、私と日野さんの大事な話ですから。他の人に邪魔されたくはないでしょう?」


「その言葉、状況が状況なら勘違いされちゃいますよ?」


 山崎は何も言わずに笑みを返し、再び歩き始め、また前を向いたまま話を始めた。


「大川さんはやはり事故で亡くなったのではありません。何者かに殺されたんです」


 めぐりは一瞬言葉に詰まった。


「…いきなり本題に入りましたね」


「軽く世間話から入った方がよかったですか? それとも『百人一首』の話でも?」


「いいえ。構いません。続きをどうぞ」


「恐縮です。それで、大川さんを殺した犯人なんですが…」


 山崎は再び立ち止まってめぐりの方を見た。


「日野さん。あなたですね」


 めぐりは山崎の言葉に笑みを返した。


「いいえ。違います。…と言いたいところですけど、もう少し聞いてみることにします」


「ありがとうございます。日野さん。あなたは大川さんとの最後の練習を終えた後、大川さんとホテルの一階にあるレストランで食事をしました。その後、自分の部屋の水道を止め忘れたかもしれないという嘘をついて先に部屋へお戻りになりました」


「なるほど。嘘ですか」


「そしてここで重要なのは、例のエレベーターの件です。あのとき全ての階のボタンを押してエレベーターが来るのを遅らせたのは、やはり日野さんですね? あなたは、そうすれば大川さんが非常階段を使って上がって来ると確信していた。そして、大川さんが上がって来たところを突き落とした。おそらく動機は、大川さんが生きていては自分は一生かるたのクイーンにはなれないと思ったから」


「その証拠は?」


「残念ながらありません。エレベーターの防犯カメラを見てみましたが、ボタンの部分はちょうど死角になっていて、日野さんがどのボタンを押したのかは確認できませんでした」


 めぐりは思わず笑みがこぼれた。


「それは残念でしたね」


 もちろん、防犯カメラの死角に関しても、めぐりの計画通りだった。


「それで? お話はこれで終わりですか? なら、私はもう帰らせてもらいますが―」


「いえ。話はこれからです」


「どういうことですか?」


「例のダイイングメッセージ、覚えておられますか?」


 忘れるはずはない。あれから何度も考えていたことだ。


「確か、裕香のピアスが外されていたとか…」


「そうです」


「それの意味が分かったんですか?」


「はい」


「それは是非教えていただきたいですね」


 山崎は得意げな顔をして、めぐりに向き直った。


「まずあのメッセージで大事なことは、外されていたピアスが大川さんの左耳に付いていたということです」


 めぐりは黙って聞いている。


「大川さんは亡くなったとき、うつ伏せで、右側を向いていました。つまり、左耳は地面に付いていたんです。おかしいとは思いませんか? 普通その体勢なら、上を向いている右耳の方がピアスを外しやすいはずです。左耳を外そうとすれば、わざわざ顔を持ち上げなければならない」


「確かに」


 山崎による大きな身振り手振りでの説明は、非常に分かりやすかった。


「ではなぜ、右耳ではなく、左耳だったのか。もっと言えば、なぜ左耳でなければいけなかったのか。答えは簡単です。大川さんが付けていたピアスは、右と左でデザインが違うんですよ」


 めぐりはこのとき、あの日裕香が付けていたピアスを必死に思い出そうとしたが、結局思い出すことはできず、山崎の説明を待つことにした。


「大川さんのピアスは、右が星、そして左が月の形をしていたんです」


 言われて、めぐりの記憶が蘇った。確かにあの日、裕香はそんなピアスを付けていた。可愛いデザインだと思ったのをすっかり忘れていた。


「つまり、星ではなく、月であることに意味があったってことですか?」


「そういうことです」


「何だか面白くなってきましたね。それで?」


「あのダイイングメッセージにはもう一つ重要なポイントがあるんです。それは、ピアスの位置です」


「位置?」


「はい。耳から外された月の形のピアスは、大川さんの手の下に置かれていたんです。まるでそれを隠すかのように」


「月を…隠す…」


 そう呟いたとき、めぐりははっとした。山崎が何を言わんとしているか、全てを悟ったのである。


「そうです。確か『百人一首』にもそんな歌がありましたね。『雲隠れにし夜半の月かな』でしたね? 雲が月を隠してしまったという、紫式部の名歌です。この歌の上の句は何でしたっけ?」


 めぐりは何も答えなかったので、山崎が説明を続けた。


「『めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に』です。そして、日野さん。あなたの下のお名前も…めぐり―」


 めぐりは心臓を掴まれるような気になった。


「いやあ実に競技かるたの選手らしいダイイングメッセージですね。我々がすぐには気付けない訳です。昨日『百人一首』を勉強していてやっと分かりました」


「だから何だっていうんですか!? それが証拠!? そんなの、単なる憶測に過ぎないじゃないですか! 裕香が意図的にそのメッセージを残したっていう証拠はないじゃないですか!」


 めぐりは思わず声を荒げた。これでは自分が犯人だと言っているようなものだ。落ち着こう。まだ核心を突かれてはいない。


「日野さんの言う通り、これはあくまで私の推測です。証拠にはならない」


「だったら―」


「ご安心ください。まだ話は終わってませんから」


 そう言って、山崎はニヤリと笑った。二人はいつの間にか、ある部屋の前にたどり着いていた。そこは、山崎ら三人が原にビデオを見せてもらった部屋でもあった。


「こちらです。どうぞ」


 山崎は部屋へ誘導するようにめぐりを促した。めぐりは、その誘いに乗るのを一瞬ためらった。この部屋に入ってしまえば、自分はこの勝負に負けるような気がしたからだ。だが、ここまで来て今更引き下がれないのもまた事実だった。この先に何が待っていようと、私は進むしかない。どんな敵も打ち倒してやるという強い意思を持ち、山崎が開けた襖の向こうへと足を踏み入れた。


 中は見慣れた和室だった。ただそこには、ここ最近何度も見た顔があった。山崎の妹のカオルと、部下の東堂エリナだ。東堂は部屋の隅に、カオルは部屋の中央に立っている。そして、カオルの目の前には五十枚のかるたの札が、二十五枚ずつ、向かい合うようにして並べられていた。これが何を意味するのか、めぐりにはまだ分からなかった。固まっているめぐりに、後ろから山崎が声をかけた。


「日野さん。私とかるたをしませんか?」


「はい?」


「かるたですよ。前にも言ったじゃないですか。一度日野さんがかるたをしているところを見てみたいって」


「…」


「札は既に用意してあります。詠み手はカオルにお願いしました」


「今日の為にお家でいっぱい練習してきたんだよ!」


 カオルが自慢げに言う。さっきまで余裕を見せていためぐりの表情が曇る。


「山崎さん。私…かるたは…」


「駄目ですか? どうしても一度日野さんとかるたをやってみたいんですが。だって日野さんは明日には帰ってしまいますから。もしかしたら、こんな機会は二度とないかもしれません。なので是非」


「でも…私、今はかるたができるような精神状態じゃ…」


「お願いします。ちょっとだけでいいですから。私だけじゃなく、カオルや東堂さんも見たいと言ってるんです」


 めぐりはかなり悩んでいた。この申し出を受けるべきかどうか。何かしら考えがあることは間違いない。まさか本当に興味本位でこんなことを言っている訳ではないだろう。だが、もし断ったとして、その場合の策を何も用意していないとも考えにくい。申し出を受けた方が自分に有利に働くということも充分考えられる。それに、仮にこれを断って逃げおおせたとして、そんなのは自分の望む勝利ではない。自分が欲しいのは、完全なる勝利だけだ。そっちが何か策を講じるなら、乗ってやる。そのうえで自分は無罪だと証明してやる。めぐりは一瞬間にそれだけの考えを巡らし、山崎に言った。


「…分かりました。でも、本当にちょっとだけですからね」


 この言葉に、山崎はニヤリと笑った。


「ありがとうございます。さあ…」


 そう言って、山崎はめぐりをかるたの札の前に誘導した。めぐりが正座したのを確認すると、めぐりに向かい合うようにして、山崎も正座をした。二人の間には五十枚のかるたの札が並べられている。


「じゃあカオル。頼むよ」


 山崎は、自分とめぐりの中間に立っているカオルに言った。カオルは山崎の言葉に元気よく「うん!」と答え、朗々と歌を詠み始めた。


「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」


 山崎とめぐりは動かない。しかしこれは、詠まれた歌が場に無い「空札」だからという訳ではない。この「難波津の歌」は、平安時代、「手習ふ人のはじめにもしける」と言われ、子供たちが初めて書道を習うときに練習する歌で、この時代の人なら誰でも知っている歌である。そして、競技かるたの試合が始まるときの一首目、いわば試合が始まる合図の歌として、この歌が詠まれるのである。つまりこの歌は、『百人一首』には存在しない歌なのである。この歌が詠まれている間、ある選手はじっと目を瞑って集中力を高めたり、ある選手は一つ大きな声を出して気合いを入れるなど、様々な方法で自分を鼓舞する。ちなみにめぐりはというと、じっと並べられた五十枚の札を眺め、どの札がどの位置にあるのかを再度確認する時間に充てていた。今の場合も同様である。山崎もまた、札の位置を覚えよとしているのだが、めぐりとは違い、背中を丸めるようにして、一枚一枚丁寧に記憶しようとしていた。ぶつぶつと札に書かれている歌の下の句を読んでいる声も微かに聞こえる。


 カオルが「難波津の歌」を歌い終わった。


「お上手ね。随分練習したんじゃない?」


 めぐりは、思わずカオルにそう言っていた。本番の試合ならもちろん許されないことであるが、今はあくまで遊びのかるたである。少しの談笑ぐらいなら構わないと思った。


 そして事実、カオルの歌は上手かった。澄んだ声で声量もあり、その声は部屋中に響き渡った。昨日練習に付き合っていた山崎やエリナでさえ未だ感心しているのだから、まして初めて聴いためぐりは、実際驚きを隠せなかった。カオルのことを知らない人がこれを聞いたら、この声の主が十七歳の女子高生で、下品な言葉も平気で口にし、普段は実の兄に邪な感情を持ち、兄に近づく女は誰であっても排除しようとする少々危険な人物であることは、想像もつかないだろう。これまで幾多の名読手の歌を聴いて来ためぐりでさえ、カオルの歌には舌を巻いた。


「ありがとうございます!」


 めぐりの褒め言葉に、さっきまで真面目な顔で歌を詠んでいたカオルの顔が綻んだ。その笑顔は、十七歳の女子高生らしい、屈託のない笑顔だった。


 しかしカオルはすぐに真顔になり、左手に持った札の束から一枚取り出して、そこに書かれた歌の上の句を詠んだ。


「つくばねの―」


 カオルが最初の五文字を詠むと、山崎はさっきまで丸めていた背中を更に丸めて、札を一枚一枚凝視した。


「ええと…確かこの歌の下の句は…」


「恋ぞつもりて淵となりぬる」


 歌を思い出せない様子の山崎にめぐりが助け船を出した。


「ああ。そうでしたそうでした。ええと、どこにあるかな…」


「ここです」


 めぐりは山崎の目の前にある札を指差した。札には全てひらがなで「こひぞつもりてふちとなりぬる」と書かれてあった。


「ああ、本当だ。では、これは日野さんのですね」


 山崎はその札を取ってめぐりの方へ差し出した。しかしめぐりが受け取ろうとしなかったので、山崎は体を伸ばしてめぐりが座っている隣へ札を置いた。


「じゃあカオル。次を」


「うん!」


 カオルは二枚目の札を取り出し、次の歌を詠み始めた。


「ちぎりきな―」


「あ、これは覚えてますよ。下の句は確か、『末の松山波こさじとは』でしたね。ええと、これはどこにあったかな…」


「空札です」


「すごいですねえ。さっき見たばっかりなのに。さすがプロですね」


 山崎は素直に驚いた顔を見せた。


「カオル。次を―」


「ねえ、山崎さん」


「はい?」


「やっぱり、もうやめませんか?」


「そんなこと言わないでくださいよ。せっかく勉強したんです」


「私、やっぱり今はかるたは…」


「せめて私に一枚取らせてくれませんか? 将来のクイーン候補から一枚取ってみたいんです」


「…」


 めぐりは溜息を一つついた。これを了承ととった山崎は、カオルに目配せをして、次の札を詠むよう促した。カオルは三枚目の札を取り、次の歌を詠んだ。


「めぐりあひて―」


 めぐりは一瞬ドキッとした。「巡りあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」。「源氏物語」の作者でもある紫式部が詠んだ有名な和歌である。「久しぶりに会えたのに、それがあなただと分かる前に、あなたはもう行ってしまった。それはまるで、雲に隠れてしまった月のように」。一見恋の歌のようにも思えるが、実は紫式部のいとこの女の子が遊びに来ていたのに、すぐに帰ってしまった悲しさを詠んだ歌である。


 めぐりは、この歌が得意札だった。めぐりがこの札を最後に取られたのは、思い出せないほど昔のことである。この札だけは、裕香にさえ絶対に取らせなかった。自分の名前が入っているからだけではない。仲の良い女友達への想いを詠んだこの歌が、めぐりは好きだったのだ。この歌を見ると、めぐりは裕香のことを思い出した。これは自分と裕香を結び付ける歌なのだと、めぐりは思っていた。そして今、この歌によって追い込まれていることを、めぐりは実感していた。


「この歌はさすがに覚えてます。『雲隠れにし夜半の月かな』ですね。ええと…あ、ありました! はい」


 めぐりが様々に思いを巡らせていると、山崎がめぐりの陣の中央付近にあった札を取ってしまった。めぐりははっとした。この札を誰かに取られたのはいつ振りだろうか。おそらく競技かるたを始めたばかりの頃以来だ。山崎は取った札を自慢げにめぐりへ見せた。


「一枚。取れました」


「ええ。良かったですね。…もういいかしら?」


「はい。満足です」


「じゃあ、もう帰っても?」


「それは困ります。かるたは満足しましたが、大事な話は終わってませんから」


「冗談です」


「あまり面白くない冗談ですね」


「…」


 部屋中に沈黙が流れる。


「じゃあ、その大事な話とやらをさっさと始めてくれませんか? 時間を無駄にするのはやめてください」


 めぐりの声には苛立ちが含まれていた。しかし、山崎が動揺している様子はなかった。


「申し訳ありません。でも、無駄じゃないんです。ちゃんと意味があってかるたをしたんですよ?」


「意味? 何ですか、それ?」


 しかし、山崎はめぐりの質問には答えず、さっきからずっと部屋の隅で成り行きを見守っているエリナに声をかけた。


「東堂さん。例のものを」


「はい」


 エリナは返事をすると、そそくさと部屋を出て行った。


「山崎さん。質問に答えていただけませんか? 一体何をしたいんです? 例のものって何ですか?」


「まあまあ落ち着いてください。ゆっくりお話ししましょう」


「昨日言いませんでしたっけ? 私、今日の夕方には新幹線に乗って帰るんです。あと三時間ほどです」


「それだけあれば充分です。ところで日野さん。最近暑いとは思いませんか?」


「はい?」


「暦の上ではもう秋だというのに、まだ夏なんじゃないかと思えるような暑さです。私なんて昨日も今日も汗だくで―」


「山崎さん。いい加減にしてくれませんか? こうやって無駄話をして時間稼ぎをしようとなさってるんですか? もしそうなら、これは勝負を降りたと考えていいんですか? だったら早く負けを認めて、私を帰してくれませんか?」


 少しずつ声が荒くなるめぐりに、遂に山崎は本題に入ることを決めた。


「そろそろ限界ですかね。分かりました。お話しします。先程も言いましたが、最近はとても気温と湿度が高いですよね。これが残暑というものなのでしょうか」


「だからそれが何なんですか?」


「こんなに毎日暑いというのに、あなたは初めて私に会ったときからずっと長袖の服を着ていましたね? 事件のあった夜も、次の日にエレベーターのトリックをお話ししたときも、その次の日に『百人一首』の話をしたときも。…そして今も。なぜですか?」


「…そんなの、私の勝手でしょ?」


「…」


 二人が黙っていると、さっき部屋を出て行ったエリナの声が聞こえた。


「山崎さん! 準備できました!」


「お願いします!」


 山崎の声に応じて、エリナが部屋に入って来る。エリナは、薄型のテレビモニターとビデオカメラを持ってきていた。山崎たちが原に見せてもらったのと同じものである。


「これは?」


「テレビとビデオカメラです」


「それは見れば分かります。どうしてここにあるのかと聞いてるんです」


「ちょっと見ていただきたいものがありまして、原先生にお願いして貸していただきました」


 山崎はエリナの方を見て、「東堂さん」と名前を読んだ。するとエリナは「いつでも大丈夫です」と返事をした。


「では、お願いします」


 山崎がそう言うと、エリナはビデオカメラのスイッチを入れた。すると、テレビモニターに向かい合ってかるたを取っているめぐりと裕香が映し出された。山崎たちが以前見せてもらったのと全く同じ映像である。


「これは大川さんが亡くなった日の夕方頃、あなたと大川さんとの最後の練習風景です」


「そのようですね」


「このときは半袖の服を着てらっしゃいますね」


 映像の中のめぐりは半袖のTシャツを着ている。


「このときは練習中ですから当然です。汗をかきますから」


「ではなぜ今は長袖なんですか?」


「今は遊びでかるたをやってるだけでしょ? 本気じゃない」


「日野さんらしくない。あなたはたとえ遊びであっても絶対に負けたがらない性格のはずです」


「買い被りです。私はそこまで勝負に固執する性格じゃありません」


「本当にそうでしょうか? 何か別に訳があるんじゃないですか?」


「何ですか? その訳って?」


 しかし山崎はニヤッと笑うだけで、またもめぐりの質問には答えなかった。山崎はこうして相手を自分のペースに持ち込み、会話を有利に進めようとしているのだ。苛立ってはいけない。めぐりは冷静になろうと努めた。


 山崎は、映像の中のめぐりを指差した。


「日野さん。競技かるたというのは、片方の手しか使ってはいけないルールでしたね」


「はい」


「普通は利き手を使うとか」


「その通りです」


「日野さんは左利きですね」


 映像の中のめぐりは、終始左手をものすごいスピードで動かし、あちらこちらの札を弾き飛ばしていた。


「それが何か?」


「東堂さん。止めてください」


「はい」


 東堂が再びビデオカメラのスイッチを入れると、映像が一時停止の状態になった。


「この映像を初めて原先生に見せていただいたとき、どうも違和感を感じて仕方なかったんです」


「…違和感」


「そう、違和感です。その正体は何だろうとずっと考えてたんです。そして昨日、やっと分かりました」


「…何ですか?」


「事件のあった夜。我々が初めて日野さんの部屋に伺ったとき。うちの妹のカオルが日野さんから水を貰ったんです。覚えてらっしゃいますか?」


「さあ…。どうだったかしら」


「私ははっきり覚えてます。ペットボトルに入ってました。カオルも覚えてるね?」


「うん! 覚えてる! あのとき喉渇いてたから!」


「東堂さんは?」


「私も覚えてます」


「証人が二人もいます。やはりあのとき、カオルはあなたから水を貰いました」


「そうみたいですね。それで?」


「あのとき、カオルはペットボトルの蓋を日野さん、あなたに開けてもらうよう頼んだんです。それも覚えてませんか?」


「ええ」


「そうですか。カオルは覚えてるか?」


「うん! 覚えてるよ!」


「東堂さんは?」


「私も覚えてます!」


「二人とも覚えてるみたいです。あなたはあのときカオルに頼まれてペットボトルの蓋を開けたんです」


「だからそれが何か?」


「あのときあなたは、右手で蓋を開けてたんですよ」


「…」


「カオルも見たね?」


「うん!」


「東堂さんは?」


「私も―」


「それはもういいです! 山崎さん。結局何がおっしゃりたいの? もう種明かししてくれていいんじゃないですか?」


 そうは言ったものの、めぐりは既に、山崎が何を言いたいのか分かっていた。


「左利きであるはずのあなたが、なぜあのときは右手でペットボトルの蓋を開けたのか。それが違和感の正体だったんです。今思い返してみれば、随分開けにくそうにしてましたね。利き手じゃない方の手でペットボトルの蓋を開けるのはなかなか大変だったんじゃないですか?」


「…」


「そこで考えたんです。もしかして、あのときあなたは利き手である左手を使わなかったのではなく、使えなかったのではないかと。だからかるたの大会にも出場できなかった。違いますか?」


「…」


 山崎は、めぐりの方へ自分の右手をゆっくりと差し出した。それはまるで、英国紳士がどこかの国の姫君にダンスを申し込んでいるようでもあった。めぐりはそれに応じ、差し出された山崎の右手へ自身の左手をゆっくりと乗せた。めぐりは顔を伏せている。


 山崎は、自身の右手に乗せられためぐりの左手を、もう一方の手でそっと掴み、袖をゆっくりと捲って行った。徐々にめぐりの白い肌が露わになっていく。そして、遂にめぐりの袖が肘の上側まで捲られ、半袖のシャツのようになった。完全に露わになっためぐりの左腕には、大きな青緑色の痣があった。それは明らかに人間の手の形をしていた。


 山崎は、憐れむような目でめぐりの左腕に残された痣を眺め、さっきまでよりも声のトーンを落として言った。


「…大川さんは、女子相撲のチャンピオンになるほどの怪力の持ち主です。それも死に際での火事場の馬鹿力というやつで思い切り握られたんでしょう。こんな跡が残ってもおかしくはありません」


 めぐりはまだ顔を伏せたままである。


「映像の中ではまだ痣はありません。大川さんが亡くなった後には、あなたはもう長袖の服を着てそれを隠してましたから、痣が付いたのはこの練習の後から大川さんの亡くなる間ということになります。その時間にあなたにこの痣を付けることができるのは、唯一あなたと会っていた大川さんだけです」


 今のめぐりに、痣がついた経緯を捏造する術はなかった。


「…」


「自白していただけますか?」


 部屋中に一瞬の静寂が流れた。山崎もカオルもエリナも息を飲んでいた。


「…どうやら、この勝負は私の負けみたいですね」


 部屋中の張り詰めていた空気が、少し緩んだ。山崎は、めぐりの瞳がうっすらと潤んでいることを確認した。めぐりはその目に浮かんだ涙が自分の頬を伝うのを許さないように、必死にそれを堪えているように見えた。


「この痣が消える前に気付いて良かったですね」


「全くです。危うく証拠が無くなってしまうところでした。しかし、かなり痛むでしょう」


「今はそうでもありません。山崎さんたちが初めて私の部屋に来たときはすごく痛かったですけど」


「それは申し訳ありません」


「いいえ…。…正直ね、私、山崎さんがいつ私の左腕を掴んでくるだろうかって、ずっとビクビクしてたんです。でも、そんなことは一度も無かった。山崎さんってすごく紳士なんですもん」


「いえいえ」


「でもね、山崎さん。私、裕香が絶対に非常階段を使って昇って来るって確信は無かったんですよ。エレベーターを待つか、一般用の階段を使ってくる可能性だって充分にあると思ってました」


「では、そのときはどうするつもりだったんですか?」


「そのときは、殺さないつもりでした。私の中で、一種の賭けだったんです。裕香が非常階段を使って来れば殺す。そうでなければ殺さない。その賭けに勝てば、私はクイーンになれる。そして、私はその賭けに勝った。…でも、山崎さんが現れたのは想定外でした。あなたのせいで、私の夢は完全に終わりです。どうしてくれるんですか?」


 めぐりの顔は笑っている。山崎を本気で恨んでいる訳ではないことはすぐに分かった。


「夢が終わり? なぜですか?」


「だって、私はもうかるたは―」


「諦めることないじゃないですか。あなたの夢を阻む権利は、誰にもありません」


「だって、これから裁判があって、刑務所に何年も入って、その後またクイーンを目指すなんて―」


「日野さんならできます。誰よりも負けず嫌いで、誰よりもかるたが好きな日野さんなら」


「でも―」


「じゃあ、勝負をしましょうか。何年後でもいい。あなたがクイーンになれば、あなたの勝ち。なれなければ、私の勝ち。いかがですか?」


「…」


 めぐりは少し黙った後、にっこりと笑って山崎に言った。


「…今度は負けませんから」


 山崎もまた、にっこりと笑顔を見せた。


「望むところです」


 二人の間には、どこか暖かな空気が流れていた。二人は出会ってまだ三日ほどしか経っていなかったが、二人の間に流れる雰囲気は、まるで幼い頃から知っている旧友同士、はたまた愛情とは違う、それを超えた信頼関係で結ばれた夫婦のようでもあった。その様子をカオルが不服そうな顔で見ていたが、口を挟むことはしなかった。


「ところで山崎さん。昨日の話は覚えてます?」


「何でしたっけ?」


「山崎さんの一番好きな『百人一首』の歌を教えてもらう約束だったじゃないですか」


「ああ、そうでした。昨日たくさん勉強して、一つ好きな歌を見つけましたよ」


「是非教えて欲しいです」


「それは―」


 山崎は自分の前に並べられたたくさんの札を眺め、その中から一枚を手に取り、それをめぐりに見せた。その札には全てひらがなで「われてもすゑにあはむとぞおもふ」と書かれていた。


「『せをはやみ』ですか」


「はい。『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ』。意味は、『流れの速い川の水が、岩によって分かたれたとしても、その先でまた合流するように、今はあなたと別れてしまっても、いつかまた逢えると信じています』」


「私も大好きな歌です」


「この歌は、あなたに…」


 山崎は、手に持った札をめぐりの方へ差し出した。


「え?」


「いつか、もう一度かるたをしましょう。今度は遊びじゃなく、本気の勝負で」


 めぐりの顔から笑顔がこぼれる。


「相手になりませんよ?」


「そのときは、私もそこそこ強くなっているつもりです」


「私にかるたで勝負を挑むなんて、いい度胸ですね。将来のクイーンですよ?」


 そう言って、めぐりは差し出された札を受け取った。これは山崎からめぐりへのメッセージだった。


「いつかまた、ここで」


「ええ。ここで」


 お互いに笑顔を交わすと、めぐりが立ち上がった。


「さあ、行きましょう」


「そうですね」


 めぐりの呼びかけに応じて、山崎も立ち上がった。


「では、こちらへ」


 山崎は本物の執事のように、めぐりを部屋の出口の方へ誘導した。ずっと部屋の隅にいたエリナも、いつの間にか山崎の後ろにくっ付いている。


「そういえば山崎さん。一つ聞いておきたかったことがあるんです」


 扉の前まで行って、めぐりは山崎の方を振り返った。


「何でしょう?」


「私、山崎さんの下のお名前、まだ知らないんです。みんな『山崎さん』か『お兄ちゃん』としか呼ばないから。最後にそれだけ教えてもらえませんか?」


「私の名前ですか? 正直あんまり好きじゃないんですよね。自分の名前」


「名前は親が最初にくれたプレゼントですよ? そんなこと言うもんじゃないわ。さあ」


「そんな大したものでもないんですけどね。分かりました。お教えします。私の名前は―」


 山崎は、改めてめぐりに自己紹介をした。山崎のフルネームをこの場で知っていたのはカオルだけで、エリナもそれを知らなかったので、めぐりとエリナは素直に驚いた。


「変わった名前なんですね」


「だからあまり好きじゃないんです」


「私は結構好きですよ。山崎さんの名前」


「からかわないでください」


「からかってなんかいません。本心です」


「本当ですか?」


「ええ。…さ、これで何も悔いはありません。今度こそ本当に行きましょう」


「お連れします」


 山崎は部屋の扉を開け、レディーファーストと言わんばかりにめぐりを誘導した。めぐりはそれに応じ、部屋を出た。その所作は、優雅であり、美しくもあり、本当にどこかの姫か貴族のようで、凛々しく、美しかった。

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