負けられない女12
エリナが呼び出された喫茶店は、さっきまでいたカフェからそれほど遠くなく、徒歩で十分ほどだった。しかし、路地の入り組んだ先の方に位置していて、見つけるのに時間がかかり、結局たどり着くのに倍の二十分ほどかかってしまった。
たどり着いた場所にあったのは、人通りの少ない道路の脇にポツンと建っている、どこかノスタルジーを感じさせるような造りだった。まるでこの建物の周りだけ時間が止まり、時代に取り残されているような雰囲気を感じさせた。店の看板には、「喫茶コロンボ」と、少し懐かしい感じのする字体で書かれている。店名の由来はよく分からなかったが、山崎が呼び出した店はどうやらここで間違いないようなので、エリナはとりあえず入ってみることにした。
店に入ると、カランカランと木を叩く音が鳴り、「いらっしゃいませ!」という声と共に
ウェイトレスがエリナの元へやって来た。そのウェイトレスは、白と黒を基調とした制服を身に着けており、どちらかと言えばウェイトレスというよりメイド喫茶のメイドさんを彷彿とさせた。髪は金髪でツインテール。身長はかなり小さく、一五〇センチ前後かと思われた。そして何より、人形のように可愛かった。この店には悪いが、こんな大して流行ってもいなさそうな寂れた喫茶店に、こんな今時風の可愛い女の子が働いているのかと、エリナは意外に思った。
エリナが呆気に取られていると、奥から山崎の声がした。
「東堂さん! こちらです!」
声の方を見ると、店の一番奥の席に、山崎と、山崎のすぐ隣にいるカオルが見えた。エリナにとっては既に見慣れている光景だった。エリナは店の奥へと歩を進めて行き、山崎の向かいの席へと腰を下ろした。
「山崎さん。ここって…」
「僕の行きつけの喫茶店です。いつも考え事をするときにはここを使ってるんです」
「ここはいつもお客さんがいないから落ち着いて考え事ができるんだよね!」
カオルの無意識による元気のいい悪口に、カウンターでコップを拭いていた、この喫茶店のマスターらしき男性の眉が少し上がった。
「あ、マスター。今のは別に、この店が廃れてるって意味じゃ…」
「山崎さん。それ、墓穴掘ってますよ」
マスターは不快な顔を見せるかと思いきや、山崎たちに向かって無言の笑顔を見せるだけだった。マスターは、執事服のようなものを着ていて、髪は白髪交じり、口元には同じく白髪交じりの鬚をたくわえており、いかにも「ザ・喫茶店のマスター」というような容貌だった。
「山崎さん。あの人…」
「マスターはいつもあんな感じなんです。寡黙ですけど、とてもいい人です。私がいつもここで担当した事件についていろいろ考えるのも、マスターなら絶対にそのことを他言しないと信頼しているからなんです。
「そうなんですか…」
エリナが納得していると、さっきの可愛いウェイトレスが、エリナの側へやって来た。
「ご注文はお決まりでしょうか? ゴキブリメガネのお客様!」
「あ、はい。ええと…。ん? あの、今何て…?」
「はい! 『ゴキブリメガネのお客様』とお呼びしました!」
エリナは頭の中がパニックになった。『ゴキブリメガネのお客様』? エリナは、あまりにこれまで出会ったことのない言葉だったので、理解するのに少々の時間を要した。『ゴキブリメガネのお客様』とは一体何だ? この状況から鑑みるに、明らかに自分に対して言われている。なぜそんなことを言われなければならないのかも分からないし、加えてこんな可愛い女の子が無垢な笑顔で自分を特殊な言い方で罵倒してくることに関しても、エリナはまだ理解が追いついていなかった。
そんなエリナの心境を察したのか、山崎がすかさずウェイトレスに声をかけた。
「ちょっとミクさん。僕の部下をおかしな名前で呼ぶのはやめてください。すいません、東堂さん」
「あら。東堂さんとおっしゃるのね! 申し訳ありません。お名前が分からなかったもので見た目で勝手にあだ名を付けてしまいました」
ミクと呼ばれたウェイトレスは、エリナに一応謝ってはいるが、顔に張り付いたような笑顔といい、単調な声のトーンといい、とても謝罪の意が込められているとは、エリナはもちろん、その場にいた全員が感じられなかった。
「全く…。東堂さん。紹介します。この喫茶店で働いている、小林ミクさんです」
「はじめまして! 小林ミクです!」
ミクが元気よく自己紹介をするので、エリナも名乗ることにした。
「どうも…。東堂エリナです」
「東堂エリナさん…。いいお名前ですね! 私、一生忘れません! だって、私、山崎さんに近づく女の名前、忘れたことないんですよ?」
「は?」
混乱するエリナに、今度はカオルが説明した。
「この女、お兄ちゃんに気があるの。それも猟奇的なレベルでね」
「あら、カオルさんに言われたくないわ。妹の分際で山崎さんと結ばれようなんて思ってる図々しいバカ女と同じだと思われたくないもの」
「誰がバカ女よ! それに、『妹の分際で』ってどういう意味!? 『妹だから』結ばれたいって思うんでしょ!?」
ムキになって怒るカオルと、笑顔を崩さないミクとのやり取りを見て、エリナは全てを理解した。なるほど。そういうことか。つまり、また面倒くさい女が一人増えたのだ。ただ、口はカオルより悪いし愛想笑いは不気味だが、現場に付いて来ないだけカオルよりはマシに思えた。エリナは、二人の口喧嘩は無視することにして、山崎に話しかけた。
「で、山崎さん。ここへはどうして呼び出したんですか?」
「あ、それなんですがね、東堂さんにいろいろお尋ねしたいことがありまして…」
「尋ねたいことって、例の事故のことですか?」
「はい」
「私で分かることなら何でも聞いてください」
「ありがとうございます。では―」
「ちょっと待ってください」
口を挟んだのは、カオルと一時休戦したミクだった。
「お客様。お話の前に注文を」
「あ、そうでした。じゃあ、カプチーノを」
「かしこまりました!」
ミクは相変わらず笑顔を崩さないまま、カウンターへと姿を消した。
「山崎さんの周りの女性って、あんなのばっかりなんですか?」
「申し訳ありません」
「で、聞きたいことっていうのは?」
「はい。もし答えにくいのであれば、答えていただかなくても結構なんですが、東堂さんには、親友と呼べるような友人はいらっしゃいますか?」
「親友ですか? そうですね…。中学の頃からの友人で、今でもよく一緒にご飯に行ったりする友達がいます。彼女なら、親友って呼べるんじゃないでしょうか」
「そうですか。では…そのご友人を、殺したいと思ったことはありますか?」
エリナは、山崎が何を言いたいのか、瞬時に悟った。
「それって…」
「はい…」
「私は…そりゃあ喧嘩ぐらいなら何度もしたことがありますけど、殺したいとまで思ったことは…」
「例えば、その友人が東堂さんの恋人を奪ったとしたら?」
「そりゃあ大喧嘩にはなるでしょうけど、だからって殺そうとは思いません」
「例えば、その友人が東堂さんの家族を殺したとしたら?」
「そのときは、殺す殺さない以前に、彼女とはもう関わらないと思います」
「では…もしその友人が、東堂さん自身の存在を否定するようなことがあったら?」
「…どういうことですか?」
エリナは、山崎の言っていることの意味が分からなかった。しかし、山崎はじっとエリナの目を見つめたまま、答えを待っているようだった。
「…そうですね…。例えばその友人が、私のことを殺そうとしてきたりしたら、私もどうするか分かりません。あと、私の生き甲斐というか、生きる意味を奪われたようなときも、もしかしたら…」
「そうですか…」
山崎は遠くを見るような目をした。
「日野さんにとっての大川さんも、そういう存在だったのかもしれませんね…」
「それって…」
「大川さんを殺したのはあの人です」
エリナは一瞬言葉を失った。
「証拠はあるんですか?」
「それがまだ無いんです」
「じゃあ何でわかったんですか?」
「例のダイイングメッセージです」
「あれの意味分かったんですか!?」
「はい。ちょっと勉強しましたから」
「勉強? 教えてください。どういう意味だったんですか?」
しかし、山崎はエリナの質問には答えず、じっと考え込んでしまった。
「もう…」
エリナが呆れていると、ミクがカプチーノを持ってエリナの元へやって来た。
「お待たせいたしました、お客様。カプチーノです!」
ミクがエリナの前にカプチーノを置く。
「あ、ありがとうございます」
「ご注文はお揃いでしょうか?」
「はい」
「では、失礼いたします。ごゆっくりどうぞ!」
先程とは一変して、ウェイトレスとしての仕事を全うしているミクだったが、その笑顔には相変わらず感情がこもっていなかった。ミクは席を離れる前に、ずっと考え込んでいる様子の山崎の耳元へ自らの口を寄せ、小声で囁いた。
「山崎さん。私、あと一時間で上がりなんです。もしよかったら、この後食事でもどうですか?」
しかし、考え事に夢中な山崎はその声には無反応で、代わりに隣のカオルがミクの提案に答えた。
「ちょっとあんた。仕事中でしょ? こんなとこで油売ってないで、さっさと仕事に戻ったら?」
「カオルさんには関係ないでしょ? 重度のブラコンカナブン女はちょっと黙っててもらえます?」
エリナは、「このミクさんって方、人の悪口に虫の名前を入れる癖があるのかしら」と内心思っていた。
「それが客に対する態度? ちゃんと一から接客のノウハウを教えてもらった方がいいんじゃない? ていうか、それ以前にその捻じ曲がった根性叩き直した方がいいわね。私がいい少年院教えてあげましょうか? そして二度とシャバに出さないように頼んどいてあげる。その方が私とお兄ちゃんと世間の為だもの」
「あらあら。そう言うあなただって、その重度のブラコンを早く矯正なさった方がよろしいんじゃなくて? 私がいい精神科紹介して差し上げましょうか? そして一生入院させるように頼んどいてあげる。その方が私と山崎さんと全宇宙の為ですもの」
「何よ!」
「何か?」
「すいません。二人とも、ちょっと静かにしてもらえますか? 今ちょっと重要なことを考えてますので」
カオルとミクは同時に「ごめんなさい」と口を揃えて謝罪した。二人の言い争いを強制的に終わらせられるのは、山崎の鶴の一声だけだった。ミクは、いつの間にかそそくさと持ち場に戻っていた。山崎は相変わらず口元に手を当ててじっと考え込んでいる。
「そういえば山崎さん。日野さんたちって、確か明日には帰っちゃうんですよね」
「ええ」
「ていうことは、それまでに証拠を掴まないと…」
「そうなんですけど、どうもねえ…」
山崎とエリナがそんな会話をしているとき、カオルはコップの水を飲み干してしまい、喉が渇いたのか、再びミクを呼んで水を持って来させていた。今にも口喧嘩が始まりそうな雰囲気だったが、さっき山崎に怒られたこともあり、カオルはミクを睨み、ミクは笑顔を向けるだけに終わった。
ミクが持ってきた水をゴクゴクと飲んでいるカオルは、自分が着ているシャツをパタパタと仰ぎ、かなり暑そうにしている。確かにここ最近は妙に蒸し暑い。カオルの着ている白いシャツは、カオルの汗によって透明になり、カオルの肌を顕現化させた。うっすらとピンク色の下着も見える。普通の男性なら目のやり場に困るところだが、今この場にいる男性はカオルの実の兄と、仕事以外には興味の無さそうな寡黙な喫茶店のマスターだけである。むしろ女性であるエリナの方が、少し照れてしまっていた。
「ちょっとカオルさん。上着か何か着た方が…」
「何でこんなに暑いのに更に上着なんか着なきゃならないのよ。この店、ちゃんと冷房入ってんの?」
エリナもこの暑さには若干辟易していたが、どんな状況でも黒いスーツを身に纏っている山崎を見ていると、文句も言えない。その山崎はというと、相変わらずじっと考え込んでいたが、隣のカオルの文句に反応したのか、隣の妹に一瞥をくれた。
「カオル。あまり贅沢を言っては―」
そこまで言って、山崎は固まった。カオルのシャツから透けている肌を凝視している。特に胸の辺りに目線が行っているように、エリナには見えた。
「山崎さん? どうされました?」
「お兄ちゃん?」
と、山崎が突然カオルの肩をかなりの力で掴んだ。エリナはいきなりのことで目が点になり、カウンターの方ではミクがわなわなとしている。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん! いくらカオルの体に興奮したからってこんな所で…。お家に帰ったらいくらでも好きなことしていいから―」
「そうか…。そういうことだったんだ」
山崎はカオルの言葉は耳に入っていないらしく、そして何かに気付いた様子だった。山崎はカオルの肩から手を離し、エリナの方に向き直った。
「東堂さん。分かりました」
「え?」
「証拠を見つけましたよ」
「本当ですか!?」
「はい」
「じゃあ今すぐ日野さんの所に―」
「いえ。決行は明日の朝です」
「明日の朝ですか?」
「はい。それまでに東堂さんには用意していただきたいものがあります」
「はい! 何でも言ってください!」
エリナは大きく返事をした。
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