負けられない女4

 めぐりは自分の部屋にいた。これから話を聞きに警察がやって来る。自分に疑いが向かない為にも、受け答えは完璧にシミュレーションしておかなければならない。と言っても、そんなに難しいことはないはずだ。そもそも警察は、裕香は事故死だと思っている。殺人だと疑われるようなものは何も残していない。仮に疑われたとしても、自分は裕香との食事を終えた後、先に自分の部屋に戻り、その後ずっとそこにいたと証言すればいい。大事なのは、嘘をつきすぎないことだ。絶対に疑われまいとして、無理に嘘で固めようとすると、確実にどこかで綻びが出る。嘘が嘘だとばれない為には、重要な部分以外はできるだけ本当のことを言うのが肝要なのだ。大丈夫。自分にならできる。警察を完璧に騙してみせる。


 めぐりが無言の決意を固めていると、ドアをノックする音がした。「来た」と思った。


「はい」


 めぐりは小さく返事をし、ドアの方へ向かった。ドアの前に立っためぐりは、まず深呼吸をした。これから自分は、昔からの親友を、事故で突然亡くし、傷心しきった女を演じなければならない。大丈夫だ。やってみせる。めぐりは、ゆっくりとドアを開けた。


 そこに立っていたのは、三人の人間だった。一人は黒いスーツを着た男。歳はいくつだろうか。二十代にも見えれば三十代にも見える。その立ち姿もどこか神秘的な雰囲気を感じ、英国紳士か、はたまた貴族付きの執事のようにも見える男だった。男の横には若い女がぴったりとくっついている。髪は明るく、ツインテールにしている。服も私服のようだし、この女は一体何者だろう。そしてその二人の後ろに女が立っていた。こちらは紙が短く、眼鏡をかけている。スーツを着ているので、この女は男の部下だろうか。


 そんなふうに三人の人間をほんの数秒の間に観察していると、三人で唯一の男がめぐりに挨拶をしてきた。


「こんな時間に申し訳ありません。私、警察の者でして。山崎と申します」


「部下の東堂です」


「カオルです! こんばんは!」


 山崎と名乗る男に続いて、後ろの眼鏡の女、男にくっついた若い女が続けて自己紹介をしてきた。


「とりあえず、中にどうぞ」


 いろいろと気になることはあったが、まずは中でゆっくり話すことにした。めぐりは三人をソファへと促し、自分はその向かい側のソファへ腰を下ろした。本題に入る前に、まずめぐりは気になることを質問しておくことにした。


「あの…山崎さんとおっしゃったかしら。あの―」


「あ、すみません。僕の名前、『やまざき』ではなく『やまさき』なんです」


「あ、すみません」


「いえ。まあどちらでも構わないんですけどね。それで、何か?」


「あ、はい。あの…カオルさん? ってさっきおっしゃったその方は、警察の方なんですか?」


「あ、いえ。こいつはですね―」


「だから言ったじゃないですか。この子は置いて行こうって。変に思って当然です」


 さっき東堂と名乗った部下の女が、上司である山崎を叱るように言った。


「まあまあ東堂さん。責任は僕が負いますから」


「本当、口うるさいおばさんよね!」


「だからおばさんって呼ぶのをやめなさいってさっきから―」


「二人とも。状況をよく考えて」


 カオルという女は東堂という女と仲が悪いらしい。今にも喧嘩を始めそうな二人を、山崎という男が諫めた。


「すみません日野さん。カオルは私の妹でして。私がどこに行くにも付いて来ないと気が済まないんです。日野さんに迷惑はかけないと約束しますので、ここにいることを了承してはいただけないでしょうか」


「はあ…。分かりました」


 正直山崎の言っていることは理解できなかったが、ここで断って話が長引くのも嫌だったので、渋々了承することにした。


「ありがとうございます。いやしかし、今回はたいへんご不幸なことで…」


「…」


 こういうとき、めぐりは何と言っていいのか分からなかったので、俯いて黙っていることにした。


「大川裕香さんが亡くなったという話はいつ?」


「つい一時間ほど前、ホテルの従業員の方から…」


 これは本当だった。めぐりが自分の部屋で眠れないでいると、ホテルの従業員の男が慌てた様子でやって来て、めぐりに裕香の死を伝えたのだ。


「驚いたでしょう」


「ええ。まあ…」


「…そして、たいへん心苦しいことではあるのですが、大川さんが亡くなった状況を詳しく知る為に、いくつか質問をさせていただきたいんです。もちろん、お時間は取らせません。ほんの数分ですから」


「はい。私で分かることなら、何でもお答えします」


「ありがとうございます。では、大川さんと最後に会ったのは誰か分かりますか?」


「そうですね…。多分、私かもしれないです」


「日野さんが?」


「はい。今日、裕香と一緒に晩御飯を食べたんです」


「そうでしたか。それで?」


「それで、食べ終わった後、私は先に自分の部屋へ戻ったんです」


「それはまたどうして?」


「自分の部屋のお風呂の水を出しっ放しにしているような気がしたんです。部屋が水浸しになってたら大変だからって、お会計を済ませた後、私は先に…」


「なるほど。その後自分の部屋に戻ろうとされた大川さんが事故に遭われたと…」


「…はい」


「そうですか…」


「何だか、まだ実感が湧かなくて…。裕香がもうこの世にいないなんて…」


「そうだと思います。気休めにもならないかもしれませんが、どうかお気を落とさず」


「はい。ありがとうございます」


「…ところで、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが…」


「? 何でしょうか?」


「大川さんがどこで発見されたかはご存知ですか?」


「階段から落ちたって聞きましたけど…」


「はい。ただ、階段は階段でも、非常階段だったんです」


「はあ…」


「これについてどう思われますか?」


 この質問をされるのは予想通りだった。四階という階数を考えても、エレベーターを使うのが自然だ。階段を使うとしても、わざわざ非常階段を使ったりしない。なぜ裕香が非常階段を使ったのか。その理由をめぐりは当然知っていたが、ここは当初の予定通り、知らない振りをすることにした。


「どう思うって聞かれても…」


「何かご存知ないですか? 例えば、大川さんはエレベーターのような個室が苦手で、あまり乗りたがらなかったとか」


「私の知る限り、そんなことは無かったと思います」


「そうですか。一体なぜ大川さんは非常階段を使ったのでしょうか…。あ、そうそう。お聞きしたいじことはもう一つあるんです」


「何でしょう?」


「亡くなった大川さんなんですが、ピアスが耳から取れてたんです」


 山崎は自分の左耳を指差して言った。


「ピアス?」


 これはめぐりにとって全く身に覚えのないことだったので、少し驚いた表情を見せてしまった。ここは何を言っているのか分からないという顔を見せるべきだった。


「ピアスが取れてたって、それは階段から落ちたときに取れちゃったんじゃないですか? それが何か?」


「我々も最初はそう考えていたんですが、大川さんの左耳を見ると、ピアスが引きちぎられたように皮膚が切れていたんです。写真をご覧になりますか?」


「いえ、結構です」


 横の東堂という女が懐から写真を取り出そうとしてやめたのが見えた。


「もし大川さんのピアスを無理矢理取って行った人間がいるとするなら、我々はすぐにその人物を捕まえて話を聞く必要があります。ただ…」


「ただ?」


「簡単な検査ではありますが、大川さんのピアスからは、本人以外の指紋が見つかりませんでした。おそらくですが、そのような人物は存在しません」


「…じゃあ、ピアスを取ったのは…」


「おそらく大川さん本人です」


 めぐりの頭は少しパニック状態になっていた。裕香が自分のピアスを自分で引きちぎった? なぜ? 何の為に?


「どうして裕香はそんなことを?」


 めぐりは本当に理由が分からなかったので、素直に山崎に尋ねてみた。しかし、山崎もその理由は分からないようだった。


「それが分からないんです。日野さんなら何かご存知なのではないかと思ってお聞きしたのですが…」


「すいません。私にも分かりません」


「そうですか…。いやね、もし本当に大川さんがご自分でピアスを引きちぎったのだとしたら、そこには何か重要な理由があると思うんです。例えば、生きている我々へのメッセージとか」


 この言葉に、めぐりは一瞬心臓が止まったような感覚になった。メッセージ? 生きている者たちへの? それってダイイングメッセージっていうものじゃないのか? だとしたら非常にまずい。もしそのピアスが、自分は事故死ではなく、殺されたのだという意思を示していたとしたら? そして、この奇妙な二人の警察が、そのメッセージに気付いたとしたら? 大きく脈打つ自分の心臓の鼓動を感じながら、それを決して表情には出さないようめぐりは山崎に向かっていた。


「メッセージですか…。もしかしたら、裕香が最後に私たちに何か伝えたいことがあったのかもしれませんね。例えば、誰かへの感謝…謝罪…懺悔…。あ、謝罪と懺悔は一緒か」


 山崎は少し「ふふ」と笑ってこう言った。


「確かに、そういった類のものならいいのですが、私は、もっと違った意味があるのではと思っています」


「違った意味? 何ですか、それ?」


「それはまだ…。どちらにしろ、早くそのメッセージを解読する必要はありそうです」


「意味が分かったら、すぐに教えていただきたいですね」


「もちろんです。一番に日野さんにお教えします」


「ありがとうございます」


「ねえねえ! カオル喉渇いた!」


 会話が一段落したと判断したのか、ずっと黙ったままだった山崎の妹カオルが割り込んで来た。


「ちょっと! 邪魔はしないって約束でしょ!?」


 途端にエリナがカオルを制する。


「お話は一旦お終いでしょ? 私、さっきから喉が渇きすぎてもう限界なの! 何か飲みたいー!」


「ちょっと! 静かにしてよ!」


「東堂さん。東堂さんの声も大きいですよ」


「あ、すみません…」


 山崎が東堂を諫め、今度はめぐりの方を向いた。


「すいません。もしよければなんですが、何か飲み物を頂けませんか?」


「別に構いませんよ。冷蔵庫に水が入ってます」


「どうもすみません。後で必ずお返ししますから」


「ありがとうございます!」


 めぐりの許可を得たカオルは、一目散に部屋の隅にある小さな冷蔵庫へ駆けて行き、中からペットボトルに入った水を一つ取り出した。


「すみません。今度何かしらの形でお返ししますから」


「そんな…。どうせ貰い物ですから」


「ねえお姉さん! この水、蓋が固くて開かないの! 開けてくれませんか!?」


 いつの間にかカオルがめぐりの後ろに立っていた。カオルの予想外の要求に、めぐりは山崎に困り顔を見せて助けを求めてみたが、山崎は「すいませんが、開けてやってください」と言わんばかりに、苦笑いのような、申し訳なさそうな顔を見せるだけだった。山崎の意図を汲み取っためぐりは、嫌々ながらも、カオルの持っているペットボトルを受け取り、右手で蓋を開けた。確かにペットボトルの蓋は固く、少し開けるまでに苦労してしまったが、何とかカオルの望み通り、蓋を開けて水を飲ませてやることができた。


「どうもありがとうございます!」


 元気よく礼を言ったカオルは、すぐさまペットボトルに口を付け、中の水をごくごくと飲み始めた。あまりに勢いよく飲んでしまったせいで、口の隙間から水が溢れ出し、その水がカオルの白い肌を伝い、カオルの服を濡らした。カオルの服を濡らした水は、その服を透けさせ、カオルの透き通るような白い柔肌、そしてピンク色の下着を、その場にいた他の三人の人間の目に映させた。


「あの、いちいち卑猥な飲み方するのやめてもらえます?」


 たまらずエリナが口を挟んだ。


「あら、ごめんなさい。高校生とは思えない色気を放っちゃって。胸の成長しなさ具合がえげつない東堂さんにとっては、嫉妬の対象でしたよねえ。ごめんなさい。配慮に欠けてましたね」


「ふん。あなたはまだ年端もいかないガキ―あ、失礼。お子様だから分かんないんでしょうけど、女の魅力は別に胸の大きさで決まる訳じゃないのよ。女の色気っていうのはね、体じゃなく中身なの。普段の言動や立ち居振る舞い、ふとしたときに見せる仕草。そういうものに女の色気っていうのは現れるのよ。私から見れば、ちょっと胸やお尻が大きいだけで、自分は女として優れているって思ってるあなたこそ、愚かで女の魅力なんてゼロに等しいと思うけどね」


「何かそれって、結局貧相でゴボウみたいな体になっちゃった女の負け惜しみにしか聞こえないんですよねえ。結局、男の人が私と東堂さん、どっちとセックスしたいかって話になったら、若い上にナイスバディな私を選ぶ訳じゃないですかあ?」


「それは単なる性的魅力の話であって、今は色気の話をしてるのよ? やっぱりまだまだお子様ね。論理的に話ができないのかしら? あと、女の子が軽々しく『セックス』なんて人前で言うものじゃないわよ?」


「あれ? もしかして東堂さんて処女? 『セックス』なんて日常会話でしょ? ちょっと敏感になりすぎじゃないですか?」


「逆よ逆。そういう言葉を平気で人前で言える方が、『私は下ネタ全然オーケーですよ』ってアピールしたがる処女がよくやる手口なの」


「いいんです! 私の処女はお兄ちゃんに捧げるって決めてるんです!」


「カオル。そろそろやめようか。お兄ちゃん、今すぐこの場を逃げ出したい気持ちでいっぱいだよ」


 山崎が辛抱たまらず口を挟んだことで、カオルとエリナの静かな口喧嘩は一旦収まりを見せた。


「申し訳ありません、日野さん。お騒がせしてしまって」


「いえ。いいんです。皆さんの会話を聞いてると、ちょっとだけ元気が出ました。今は何かで気を紛らせていた気分なんです」


「そう言っていただけてありがたいです。そういえば、明日は競技かるたの大会があるんでしたね。すいません、結局長居してしまって。もう遅いですし、そろそろお暇します。明日は頑張ってください」


「ありがとうございます。でも、もういいんです。明日の大会には参加しないことにしました」


 めぐりのこの言葉に山崎は少し驚いた顔を見せたが、無理もないことだと納得した。


「ああ、そうですか…」


「…はい。今はどうしてもかるたをやる気になれなくて…」


「そうだと思います。残念ですね…。明日かるたの試合を見に行こうと思ったのですが…」


「あ、そういうことなら是非見に行ってみてください。結構面白いと思いますよ」


「しかしなにぶん初めてなもので。素人が一人で見て面白いものなのかと心配で―」


「それなら大丈夫だと思います。明日は、原先生がいらっしゃると思うから」


「原先生? ああ、確か、日野さんと大川さんの―」


「かるたの師匠です。原先生のかるた会で、私と裕香は腕を磨きました」


「そうですか…」


「原先生は、来る物拒まず、去る者追わずの精神の方ですから、分からないことは何でも教えてくれると思いますよ」


「そうですか。それはいいことを聞きました。では明日、会場に行ってみることにします」


「はい。楽しんで来てください」


 巡りの言葉に頷き、山崎と二人の女がほぼ同時に立ち上がった。


「では、我々はこれで。すいません、遅くまで失礼してしまって」


「いいんです。いつでも来てください」


 山崎は一言礼を言い、三人はめぐりの部屋を出て行った。


 三人の気配が部屋の外から完全に消えたのを確認し、めぐりはソファに深く腰掛けた。何だかどっと疲れた気がする。しかし、ゆっくり休んでいる暇は無い。まずは、さっきまでの山崎とのやり取りを自分の中で反芻する。どこかおかしい言動は無かったか。矛盾している部分は無かったか。何度も思い返す。一つも無い。完璧だ。どこにも自分が裕香を殺したと疑われるような要素は無かった。ただ一つ、謎だったことがある。力ずくで取られていたという裕香のピアスだ。階段から落ちたときに偶然取れたのなら何も問題は無い。ただ、山崎が言っていた通り、もし裕香からのダイイングメッセージだとしたら…。めぐりはいろいろと考えを巡らせたが、結局答えは出なかった。というより、これ以上はもう考えないことにした。仮にダイイングメッセージだったとしても、既に警察に発見されている以上、それを抹消することはもうできないだろう。それに何より、自分が疑わることはない。その絶対の自信が、めぐりにはあったのだ。


 時刻は一時を回ろうとしていた。もう休もう。時間が経てば、直に裕香は事故死と判断され、警察からも忘れられる。今はじっと耐え忍ぶときだ。めぐりはそう自分に言い聞かせ、ベッドに体を潜らせた。

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