負けられない女3
深夜。とあるホテルのとある非常階段の踊り場。そこに倒れている大柄の女性の遺体の周りに、数人の捜査員たちが群がっていた。ほとんどは男性であるが、その中に一人、若い女性の姿がある。小倉マイコである。マイコの見た目は、いわゆる正統派美人で、長い髪は後ろで縛られ、作業がしやすいように工夫されている。初めてマイコを見た者は、その大きな目がこれまでどれだけの血を見て来たか、その白く美しい手がどれだけの死体に触れて来たか、とても想像することはできないであろう。
と、そこにまた一人の女性が現れた。遺体の周りにいる捜査員たちは、いわゆる「鑑識」と呼ばれる人たちで、みな青い作業服を着ているが、新しく来たその女性はスーツ姿であった。
「マイコさん。お疲れ様です」
「お疲れ、東堂さん。こんな時間に大変ね」
「仕事ですから。それに、大変なのはお互い様です」
「本当、勘弁して欲しいわよね、こんな時間に」
「東堂」と呼ばれたこの女性は、東堂エリナ。若き女性警部補である。マイコに比べて髪は明るく短めで、眼鏡をかけているが、マイコに負けず劣らずの美人である。男性がほとんどの捜査一課において、現場に女性が二人いる時点で珍しいのに、ここまでの美人が二人も揃っているのは、奇跡と言っても過言ではない。警察内部では、この二人を「死体の中に咲く二輪の花」と形容する者もいるとかいないとか。とかくこの二人と同じ現場で仕事をすることは、男性刑事たちの間では一種のステータスであった。
「そういえば東堂さん。今日から新しい刑事さんが来るって言ってなかったっけ」
「そうなんです。でもまだ来られてないみたいで」
そんな話をしていると、一人の黒いスーツを着た男が現れ、エリナに話しかけた。
「すみません。東堂エリナさんでよろしいですか?」
エリナは男に対して怪訝な表情を見せながらも、はっきりと答えた。
「はい、そうですけど、あなたは?」
「良かった。私は山崎と言います。今日から東堂さんと一緒に動くよう上から言われているんですが、聞いてませんでしたか?」
「いえ、聞いてます。改めて、東堂エリナです。山崎さんですね。これからよろしくお願いします」
「あ、すいません。僕の名前、『やまざき』じゃなくて、『やまさき』なんです」
「あ、これは失礼しました」
「いえ。まあどちらでもいいんですけどね」
「では、改めて山崎さん。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。では、早速捜査に入りたいんですが―」
「ちょっと待ってください。その前に、説明すべきことがあるんじゃないでしょうか」
「説明すべきこと? 何でしょう。僕のプロフィールとかですか? それなら後ででも―」
「違います! さっきから山崎さんの腕にくっついてるその女のことです!」
エリナが語気を荒げたのは当然と言えることだった。山崎は見た目こそ背が高く、顔も良く、黒いスーツが似合う、いわゆる「イケメン」である。ただ、彼の左腕には現場に着いたときからずっと一人の女がくっついていた。髪はエリナよりも少し明るくツインテール、その垂れ目で常に山崎を上目遣いで見上げ、服の上からでも分かるほどの豊満な胸を、山崎の左腕にずっと押し付けている。
「ああ、これですか。これは―」
「ちょっとお兄ちゃん! 『これ』って酷くない!? 『これ』って! カオルは物じゃないんだよ!」
横の女が怒った様子で山崎に食ってかかる。
「ああ、悪い悪い。東堂さん。こいつは―」
「いえ。もう結構です。山崎さんの妹のカオルさんですね」
エリナは山崎の言葉を遮った。
「はい。その通りです。では、気を取り直して捜査を―」
「ちょっと待ってください! まだ問題は全く解決してません!」
「何ですか? 妹の紹介はちゃんとしたはずですが…」
「それ以前に、何で現場に妹を連れて来ちゃってるんですか!? 非常識にも程があるでしょう!?」
「非常識ですか。確かにそうですよね。おい、カオル。今の聞いただろ。だから現場に来ちゃ駄目だって言ったじゃないか。タクシー呼んであげるから、今すぐ家に帰りなさい」
「やだ!」
「嫌だそうです。では、捜査に入りましょうか」
「いや何でそうなるんですか! もうちょっと頑張ってくださいよ!」
怒るエリナに対して、山崎の腕に捕まったままのカオルが言い返す。
「ちょっとおばさん。さっきからうるさくない?」
「お…おば…。私はまだ二十四です!」
「私はまだ十七歳だもん! 十七歳から見たら二十四歳も六十歳も変わんないもん!」
「勝手に歳を二・五倍にしないでもらえる!? そもそも何であなたはここにいるの!? 十七歳ってことは、警察関係者でもないわよね!?」
「私は、常にお兄ちゃんと一緒にいないと駄目なの! お兄ちゃんと私は一心同体なの! お兄ちゃんは私であり、私はお兄ちゃんなの! 分かった!? これが今私がここにいる理由!」
「そんな滅茶苦茶な理由が通じる訳がないでしょ!? ここは子供が居ていい場所じゃないの! お兄さんの言う通り、早くお家に帰りなさい!」
「だから嫌だって言ってるでしょ! 全く! うるさい上におばさんな上に貧乳って、本当最悪な女!」
「ちょっと待ちなさい! 百歩、いや五千歩譲って初めの二つはいいとして、最後の貧乳ってどういうことよ!?」
「えー、貧乳の意味知らないんですかー。じゃあ私が教えてあげますねー。貧乳っていうのはー、女性の胸が極めて小さいこと。またその胸のことです」
「辞書みたいな説明してくれなくても意味は知ってます! 私が言いたいのは、初対面の年上の女性に向かってその発言はどうなのかってことで―」
「でも事実ですよね? 東堂さんでしたっけ? あなた、私より七歳も年上なのに、まだ高校生の私よりも胸が小さいって、どういう成長の仕方したらそんなことが起こるんですか? 超常現象ですか? 怖い話ですか?」
「人の胸を勝手にオカルトやホラー扱いしないでちょうだい! だいたいあなたね―」
と、そのときエリナの頭をマイコが、カオルの頭を山崎が小突いた。小突かれた二人はほぼ同時に「痛っ」と声を上げる。
「カオル。そろそろお兄ちゃんお仕事の時間だから、静かにしておいてね」
「東堂さんもよ。ここはホテルで、しかも深夜だってことを忘れないで。まだ何も知らないまま眠ってる宿泊客もいるのよ。起きて来て騒がれたら仕事しにくくなるのは私たちよ」
マイコと山崎の注意に、エリナとカオルはまたほぼ同時に「ごめんなさい」と情けなく謝った。
「では東堂さん。状況の説明をお願いします」
山崎はすっかり放置されてしまっていた女性の遺体に近づき、東堂に説明を促した。カオルは山崎の腕からは離れたものの、やはり山崎の側は離れずにいた。
「はい。亡くなったのは大川裕香さん。二十三歳。死因は階段からの転落死です。一時間ほど前、ここを通ったホテルの従業員が遺体を発見しました。まだ正確には測ってませんが、アルコールも結構入ってたみたいです。おそらく事故死かと」
「なるほど。ここへは何しに来ていたんですか?」
山崎は遺体をじっくり観察しながら尋ねた。
「実は、明日ここの近くでかるたの大会があるらしくて、彼女はその選手なんだそうです」
「かるたですか…」
「はい。正確には競技かるたって言うらしいですけど」
「競技かるたですか…。彼女はここへは一人で?」
「いえ。同じかるた会に所属する日野めぐりさんと、かるた会の会長の原吉郎さんが一緒にこのホテルに泊まってます」
「お話は伺えそうですか?」
「日野さんは大丈夫そうでしたけど、原さんの方はもうお休みになってらっしゃるみたいです。時間が時間ですから」
時刻は既に午前零時を回ったところだった。
「そうですか。では、後で日野さんにだけでもお話を伺いに行くことにしましょう」
「了解しました。まあ今回は明らかに事故ですし、早めに切り上げて帰ってあげた方がいいですね。私も眠たいし…」
そう言って東堂エリナ警部補は、少々大きめのあくびをした。
「事故…。本当にそうなんでしょうか…」
山崎のこの言葉に、エリナは少し驚いて尋ねた。
「どういう意味ですか? 山崎さんは、これが事故ではないと?」
「いえ。もちろん現状では事故である可能性の方が圧倒的に高いとは思いますが、少し気になることが…」
「気になること…ですか? それって一体…」
「おや? 分かりませんか?」
山崎はこの言葉を何の悪意も無く言った。彼にとってこの疑問は当然誰もが抱くものだと思っていたからだ。しかし、現場を見て何の疑問も抱かなかったエリナにとって、山崎のこの言葉は気持ちのいいものではなく、ムスッとした表情を隠さずに言った。
「ええ、分かりません。もしよろしければ私にご教授いただけると幸いなのですが」
エリナは皮肉たっぷりに、わざと丁寧すぎる言葉遣いをしたのだが、どうやら山崎は全く意に介していないようだった。
「では東堂さんにお尋ねしますが、彼女はどうしてここにいるのでしょうか」
「どうしてって、階段から落ちて亡くなったからじゃないですか」
「では、どうして彼女は階段にいるのでしょうか」
「そんなの、自分の部屋に帰る為に決まってるじゃないですか。ちょっと山崎さん。さっきから何をおっしゃりたいんですか? もっと端的に話していただきたいんですが―」
と、マイコが二人の会話に割り込んで来た。
「違うよ、東堂さん。山崎さんが言いたいのはそういうことじゃない。あ、私、小倉マイコって言います。鑑識やってます。東堂さんのついでに私のことも一緒に覚えておいてくれると助かります」
マイコは話の割り込みついでに山崎に簡単な自己紹介をした。
「で、マイコさん。山崎さんの言いたいことって何なんですか?」
「分からない? どうして亡くなった彼女は非常階段の踊り場なんかにいたのか。普通ホテルで自分の部屋に帰るときは何を使う?」
「ええっと…エレベーターとかですかね」
「そう。普通はエレベーターを使う。もしエレベーターが何かの理由で使えなかったとしても、わざわざ非常階段を使ったりせず、エレベーターホールの横にある正規の階段を使うでしょ? でも彼女は、何故かわざわざ非常階段を使って自分の部屋へ帰って行った。これにはきっと何か理由があるんだよ。そういうことでしょ? 山崎警部」
「おっしゃる通りです」
山崎はにっこり笑って頷いた。
「でも、それが事故かどうかの話とどう関係があるんですか? 彼女がわざわざ非常階段を使った理由がそんなに重要ですか?」
この疑問に再びマイコが口を開いた。
「それはね、東堂さん。もし彼女が非常階段を使うように何者かに誘導されたんだとしたらってことよ」
「誘導?」
「そう。つまり、彼女に殺意を持った人物がいたとして、その人物が彼女に非常階段を使って上がって来るよう誘導し、事故死に見せかけて殺したんだとしたら―ってことよ」
「そんな…。そんなこと―」
驚いた様子のエリナに、山崎が声をかけた。
「そう。確かに今東堂さんが思っている通り、そんなことは無いかもしれない。私の妄想が作り出した、勝手なストーリーかもしれない。しかし、その仮説を百パーセント否定することは、現時点ではできません。百パーセント否定できない限り、我々はその仮説を絶対に捨てるべきではないのです」
「はい…。分かりました」
自分のこれまでの考え方を否定されたような気がしたエリナは、少し落ち込んでしまった。その様子を見て、先程から横で黙って話を聞いていたカオルがエリナを茶化した。
「やーいやーい。怒られてやんのー」
「な…! あなたは関係ないんだから黙ってて! 忘れてるようだけど、あなたは部外者なんだからね! 追い出そうと思えばいつでも追い出せるのよ!」
「やーいやーい。そうやって権力を振りかざせば誰でも言いなりにできると思ってるから痛い目を見るんだよー。やっぱ若いうちに出世しちゃうと頭でっかちになっちゃって駄目だね。自分が一番正しいと思ってて、他人の意見に一切耳を傾けなくなっちゃうんだから。私もこんな大人にならないように気を付けようっと」
「痛い目見るとか頭でっかちとか、まだ高校生のあなたにそんなこと言われる筋合いは無いです! あなたこそ、高校生にもなって未だに『お兄ちゃんと私は一心同体!』とか言って、そのお兄ちゃんの仕事場にまでついて来るって、自分が相当ヤバい人間だっていう自覚はあるのかしら? 人のことを言う前に、まず自分を客観視できるようになったらいかが?」
「そうやって高校生相手にムキになってる社会人こそ相当ヤバい人間だっていう自覚はちゃんとしてるんですか? もちろんしてますよねえ。だって東堂さんは大人だから、自分を客観視できるんですもんねえ」
再び始まった二人のバトルに、年長者二人は既に呆れ顔だった。年少者二人はしばらく放っておくことを暗黙の了解で察した山崎とマイコは、再び遺体の話に戻ることにした。
「警部さん。とりあえず、遺体はもう運んでも大丈夫かな?」
「はい、お願いします」
「じゃ、そうさせてもらうね」
マイコと他の捜査員が裕香の遺体を運び出そうとした瞬間、山崎が何かに気付き、声を上げた。
「すみません! 少し待ってください!」
マイコは驚いた様子で山崎に尋ねた。
「どうしたの? 急に大きな声出して」
「すみません。ちょっと気になることがあったもので」
「まだ何か?」
「ちょっと失礼…」
そう言って、山崎はうつ伏せに倒れている裕香の右手を凝視した。
「手に何かあるの?」
マイコの質問には答えず、山崎は遺体の右手をゆっくりと持ち上げた。すると、手の下には小さな三日月の形をしたアクセサリーのようなものが隠れていた。
「これは…」
「ピアス…みたいですね」
いつの間にか喧嘩を終えていたエリナが山崎の横に立っており、山崎の疑問に答えるように言った。
「きっと階段から落ちるときに取れちゃったんですね。結構な勢いで落ちたみたいですから」
「本当にそうでしょうか…」
「どういうことですか?」
「ここ、見てください」
山崎は遺体の顔を持ち上げ、下側になっている左耳を指差した。遺体の左耳の耳たぶからは、痛々しいほどの血が流れていた。
「この耳の傷、誰かがピアスを無理矢理引っ張ったように見えませんか?」
「確かに…。かなり雑に取れてますね。自分で取ったんでしょうか」
「おそらくそうでしょうね。他の人間がそんなことをする理由は、少なくとも僕には思いつきません」
「でも、だとしたら何で彼女はそんなことを?」
「分かりません。ただ、そうする理由があったことは確かです。例えば…我々への何かしらのメッセージとか…」
「それってダイイングメッセージってやつ!?」
山崎の言葉に、後ろで聞いていたカオルが割り込んで来た。
「すごーい! 私、ダイイングメッセージって初めて見た!」
「まだそうと決まった訳じゃないよ。さっき東堂さんが言った通り、落ちた拍子に取れただけかもしれない」
「なーんだ。もしダイイングメッセージだったら、どういう意味なのか教えてね!」
「分かったよ。すみません、小倉さん。もう大丈夫です」
「了解」
この言葉を聞いたマイコは、他の捜査員たちに呼びかけ、遺体を運び出した。山崎は立ち上がって遺体から離れ、エリナに声をかけた。
「東堂さん」
「はい」
「一緒に泊まっている日野さんは、今からでもお話が聞けるんですよね?」
「はい。そのはずです」
「じゃあ、今から参りましょうか」
「了解しました」
「ちょっとお兄ちゃん! 私も連れてって!」
「あなた! どこまで付いて来る気なの!?」
「私はお兄ちゃんの行く所はどこまでも付いてくの!」
「今から亡くなった方のご友人に会いに行くのよ!? あなたみたいな部外者が来たらどう思うと思うの!?」
「どう思おうとカオルには関係ないもん!」
「あなたねえ…」
三度言い争いが起こりそうなのを察した山崎は、二人の仲裁に入った。
「まあまあ東堂さん。邪魔はさせないようにしますから。静かにしてられるよな?」
「うん! カオル、静かにしてるよ!」
「こう言ってますんで…」
「しかし…」
「お願いします」
「…分かりました。日野さんをお待たせする訳にもいかないですし、今回だけ特別ですよ」
「ありがとうございます」
「ありがとう! 貧乳おばさん!」
カオルの一ミリも感謝を感じられない言葉に、エリナはまた言い返しそうになったが、また言い争いを演じる訳にもいかないため、ここは七歳年上としてぐっと堪えることにした。
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