義眼シーカー
砂藪
第1話 集団パニック
目の前で大勢の人が倒れて行く。
交差点。赤い信号。三車線の道路の手前で誰も彼も地面に膝をつき、倒れ、俯く。叫び声をあげている人間は赤信号のままの道路に飛び出して、タイミングを見計らったかのようなトラックに突き飛ばされる。手足がひしゃげ、人型の抱き枕がぐしゃりとアスファルトに中身をぶちまけながら、転がる。
怒声と泣き声と悲鳴と意味不明な叫び声。
限りなく自殺に近い事故の鈍い音も、全ての音がベールの向こう側にあるかのように遠くから聞こえるような錯覚に陥ってから、これは現実で、自分が目を逸らしたがっているだけということが分かった。
「大丈夫ですか!」
倒れた人に駆け寄る警官と道路に身を乗り出して、交通整理をし始める警官の二人が無線で応援を呼ぶ。周りに視線を向ける。尻餅をついた僕の周りの人間はすべからく涙を流しているが不明瞭な言葉を繰り返しているかだ。
そして、僕の近くには、死体があった。胸から流れる血をそのままにして、その男は絶命している。僕は殺してない。そもそも、この状況の中で誰が誰を殺したと断言できるだろうか。
実際、僕もこのパニックが起きる直前の記憶が抜け落ちたようになくなっている。きっとパニックに巻き込まれ、自ら道路に飛び込んだ自殺者と同じく、この死体も自殺をしたのだろう。
「君、大丈夫かい?」
なによりもこんな場面に自分がいることが嫌だ。死体があって、阿鼻叫喚の地獄があって、警察がいる。今にも今朝食べたスクランブルエッグを吐き出してしまいたい。
ふらふらと立ち上がると僕は声をかけてきた警官が死体を見て絶句している間にその場から離れようと震える足を動かした。警官が追ってこないのを後ろを何度も振り返りながら確認して、とりあえず、人影がない飲食店の裏路地へと足を踏み入れた。
「ねぇ、君、見たでしょ」
後ろから唐突に少女の声がして、弾かれたように振り返る。フードを被った半袖の女の子。両手をポケットに突っ込んだまま、少女はフードからちらちらと見える深海のような深い青色の瞳を僕に向けていた。
見た、とは?
「さっきの集団パニックについて、聞きたいことがあるんだけど」
警察じゃない。
先ほどの騒ぎの関係者かジャーナリスト、いや、見た目からして少女の年齢は僕と同じ高校生くらいだ。だったら、どうして彼女は先ほどの集団パニックについて、僕に聞きに来るのか。そもそも、彼女はどうして僕が先ほどあの現場にいると知っていたのか。
もしかして、彼女はあの集団パニックを引き起こした犯人ではないのか。
「き、君が犯人だとしても、僕はそれを警察に言うつもりはないから」
「え?」
「だから、僕になにかしようというのなら、見逃してほしいんだけど……」
「待って。話が聞きたいだけなんだってば!」
少女の静止を振り切って、駆け出そうとすると、足に何かが引っかかり、受け身もとれずに前のめりに倒れることになった。
「大丈夫⁉」
犯人かもしれない少女に心配されながら、膝の痛みを抑えて、立ち上がると彼女はパーカーのポケットから絆創膏を取り出した。その手は黒い革の手袋が嵌められていた。八月にもなるのに手袋をしているなんて、お洒落だとしても暑いだろうに。とりあえず、彼女の厚意を無碍にすることはできずに差し出された絆創膏を受け取る。
「ねぇ、化け物がいるって言ったら信じてくれる?」
「は?」
今度は僕が驚いて声を上げる番になった。
「えっと……私は説明に向いてないんだけど……この世には大衆が認知していない化け物の存在があって、名前は〝ハイダー〟って言うんだけど、さっきの集団パニックはその化け物が起こしたものだと思ってるんだよね。だから、その調査を」
この人、頭がおかしい人だ。
「詳しい説明ならお父さんがしてくれるから、とりあえずついてきてほしいの」
「え、嫌だ」
思わず、顔を顰めると少女は心の底から傷ついたことを表現するような顔をした。そんな顔をされても困る。化け物の存在をいきなり話し始める不審者に捕まってしまった僕の方が不幸だ。
「話を聞かせてもらえるだけでいいから。あ、お金? もしかして、お金を払ったら、話をしてくれる?」
彼女はポケットに手を突っ込むとその手の平に百円玉を三枚のせて、こちらに差し出してきた。
「だったら、私のアイス代あげるから」
先ほどの絆創膏を差し出してきた時と違って、少し手を引いている姿からして、本当はその三百円を僕に渡したくないはずだ。
わざわざ話を聞くためだけにお金を差し出すだろうか。
もしかしたら、この子は怖い大人に脅されて、僕から話を聞いてこいと言われたのかもしれない。僕の話を聞きだすことができなかったら、ひどいことをするとでも言われていたら……。
そう考えると僕は目の前の彼女がひどくかわいそうに思えてきて、首を横に振った。
「三百円はいいよ」
「話はしてくれるの?」
「まぁ……少しなら」
「ありがとう! 私、ゴミって言うの!」
「は?」
「漢数字の五に、味覚の味って書いて、五味っていう苗字なの。あ、名前はつばめね」
「え、ああ、そんな苗字あるんだ……」
五味少女は話を聞かせてもらうならということで、僕をファミレスへと誘った。目の前でパフェを食べ始める彼女を見て、僕は彼女の手持ちのお金が三百円しかないことを思い出した。
「まず、〝ハイダー〟の説明をしないとね。簡単に言うと、奴らは死人の身体を借りて、その身体の持ち主が生前願っていたことを叶えるために活動しているの。その願いを叶えることが彼らにとっての存在する理由になる」
「……その〝ハイダー〟ってのがいるとして」
さも化け物が存在しますというようなノリで話し始める彼女に僕も合わせることにした。否定したら、話が長引くと思ったからだ。
「どうして、さっきの集団パニックに関係してると思ったんだ?」
「人間が事件を起こすには、あまりにもおかしいんだって。いきなり、十人くらいの人間が発狂したり、気絶したり、自殺するなんて、ありえないでしょ?」
阿鼻叫喚の地獄を見ていないからそんなことを言えるんじゃないか。いや、思い出しても、あれが人間の仕業だとは思えない。
「集団パニックが起こった時、なにか不思議なものは見た?」
「……幻覚を見たかってこと?」
「なんでもいいの。集団パニックが起こる前になにを見たのか分かれば」
僕は少しの間、顎に手を当てて考えた。ソフトクリームののったココアにささったストローを口にくわえる。先ほどまで吐きたいと思っていたのに、喉を冷たいココアが通り過ぎると吐き気が嘘のように消えていた。
「……パニックが起こる直前のことは何故か覚えてないけど、パニックが起きた時、幻覚は見たよ」
「どんな?」
「無数の血走った目が周りを取り囲んで、こっちを見ているような幻覚だよ」
こんな話は信じてもらえないと思うが、本当に無数の目を見たのだ。彼女だって、化け物なんて荒唐無稽な話をし始めたのだから、僕だって、信じられないような本当の話をしても許されるだろう。
「本当に見たんだ……見た上で正気なんてすごいね」
彼女は僕の話を否定することはなかった。苺のパフェを半分ほど食べ進めていた彼女の手が止まる。視線をテーブルの上に落として、深刻そうな表情をし始めた彼女に訳も分からず不安を覚える。
「……ごめん。お金、払えるほど持ってなかった」
それは気づいてた。
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