欲しがりません死ぬまでは
睦月稲荷
欲しがりません死ぬまでは
ジョン・キケロは、ふわふわとまるで全身くまなくわたあめの様になった気分を味わっていた。
ジョンのいる場所は完全なる白で構成されている。一応白ということは認識できているから失明しているわけではない。それでもジョンの視界には白以外、何も見えていなかった。
新史二一三年。自動車の完全自動化や超高度AIによるサービス、老衰率100%を成し遂げるほど文明が発達した現在だが、それでも【純粋な白】というものはまだ開発されていない。
そもそも身体がふわふわとしている体験なんて現実に起こり得るものか。
しかし、ジョンはこの場所を過去に訪れたことがあるからすぐに思い出す。
「そうだ、ここは夢の始まりじゃないか」
ジョンがそう思った瞬間に、目の前の空間が歪み始めた。さながら万華鏡の様に幾重にも光輝きだした“ソレ”をジョンはじっと見つめる。
「さて、今日は何を見せてくれるんだ?」
ギチギチとガラス同士が擦れる様な音が鳴りそうになりながら、空間に穴が開いた。穴はどんどん広がっていき、やがては世界が作り替えられた。
白いだけの空間だったジョンのいる場所は、高度な文明が築かれた街並みに変わっていた。
「久々の夢だ。楽しませてもらうぞ」
ジョンは道路のど真ん中に立っている。行きかう自動車達がジョンをすり抜けていった。横を見ればそこは雑踏。人々がゆったりと幸濃そうな顔で街を歩いて行る。上を見れば澄み渡った青空が。
こうもはっきりと見える夢も珍しい。ジョンが一年くらい前に見た夢はもっとくすんで人の顔なんかもモザイクがかかっているかのようにぼやけていた。
だからこそこのくっきりとした光景にジョンは心を躍らせていたが、じっと見つめているとその心は一気に冷め切ることとなった。
「アイスベーン285-1? なんだ、俺が住んでいる街じゃないか。ちぇっ、見覚えのある所を見たってなにも面白くない。夢なんだからもうちょっと現実味をなくしてくれてもいいだろうに……」
落胆した気持ちでジョンは夢を見続ける。
とくに現実と何ら変わりない光景だ。
代わり映えもしない。みなが特に何も考えないまま生きている様にしか見えない。ジョンにとって幸濃そうな顔をしている人達は、笑顔を浮かべた仮面をつけているのと同義だった。
「早く終われよ――」
悪態をついた瞬間、夢が動き始めた。さざ波が立ったかのようにいきなり雑踏がざわめき始めたのだ。波は次第に大きくなり、高波の様な人の勢いが街を飲み込んだ。
「何だ何だ!! 何が起こっている!?」
人々が見つめる視線の先をジョンも見ると、そこには猛スピードで駆ける自動車がいた。それも雑踏の方へと。
そしてそれを知覚した時には既に遅し。
自動車は雑踏に突っ込み、人々を吹き飛ばし、踏みつぶし、押し潰していた。
猛々しく燃える炎。阿鼻叫喚の波。脂でべたついた空気。焦げた道路。ひしゃげたビル。横たわる死体。赤く染まった世界。
あまりに現実離れした光景に、ジョンの意識は固まった。二十数年生きた中、これほどのむごたらしい時間を体験したことはないのだ。
「これは夢だこれは夢だこれは夢だ」
夢。確かにジョンは夢の中にいる。それを自覚しようとジョンは懸命に言葉を漏らした。
しかしリアルすぎる景色、臭い、熱、音がこれを夢だと認識させない。この時をジョンの感覚は現実だと知覚させた。
ジョンはふわふわと、凄惨な現場へと向かう。
「待て待て待て待て」
向かう、というのには語弊があった。ジョンは綱で引っ張られるかのようにして現場へと強制的に向かわされているのだ。
ふざけるなという気分で一杯だったジョンだが、自力では透明の縄をほどけそうにはない。
“仕方ない”と、夢だからとどうにか割り切ったジョンは極力死体を意識に入れないようにして身をゆだねた。
現場に到着。遠くから見るよりも凄惨さがダイレクトに伝わってきていた。これが現実だったならば吐いていたに違いない。夢で良かったと若干心が軽くなった。
――のもつかの間。
ジョンの視界が強制的に死体に向けられたのだ。抵抗する間もなく、ジョンは自動車に身体が押しつぶされてぺしゃんこになった死体を見せられた。
血に染まってはいるもののかろうじて無事になっている顔を見て、ジョンは今度こそ全身が固まった
「あれは……、アリア……?」
その瞬間、ジョンの意識は外に向けて引っ張られた。空間は次第にくすみ始めて、物凄い早さで遠ざかっていく。
やがては電源が落ちた電灯のようにバチンッと辺り一面が暗くなった。
今ジョンが見ているのは見知った天井。
夢から醒めたのだ。
☆
「アリア、アリア、アリア――――!」
ドタドタドタッと、盛大な音を立てながらジョンは一階に繋がる階段を降りていく。道中、ジョンが思っていることは、妻アリアの無事。数舜前のことが夢のことだとは分かっているが、あのリアルさに一抹の不安を覚えたのだ。
一階に辿り着く。リビングの扉の隙間からは、調整コーヒーのほろ苦い匂いが漂ってきている。それを嗅いだ瞬間、ジョンの心は少しだけ落ち着いた。扉の向こうにはアリアがいる。
「アリア!」
バタンッと扉を開く。そこには真っ白の直方体の食卓にて朝食を摂っているアリアが慌てているジョンに目を丸くしていた。
「どうしたのジョン、朝からそんなに慌てて。血の気が引いてるわよ。誰か親しい人が死んだみたいじゃない」
「あぁ……、そう、だな……。死んだと言えば死んだのか。なんにせよ良かった……」
「どういうこと?」
「いや、ちょっとな……。夢を見て……」
生きているアリアの姿にホッとしたのもつかの間、アリアから目を離して言葉を尻すぼませるジョン。その様子は、まるで悪いことをして隠している子供の様だった。
そしてアリア。ジョンの言葉に一瞬だけキョトンとし、その次の瞬間には眦を鋭くした。
「あなた、また昨日の夜に“薬”を飲まなかったわね! 何考えてるのよ!! 法律違反よそれは!」
「わ、分かってるって。ただ、昨日は疲れていて飲むのを忘れてたんだよ……」
「それなら猶更飲んでなきゃダメじゃない! 今の人口は旧史に比べて0.06%しかいないのよ!? 残された人類、私たちが絶えないためには健康で文化的な最高限度の生活を送るって決められているでしょう! あなた死にたいの!?」
アリアの言う“薬”。それは寝ている間に完全に脳と筋肉、精神の疲労を取り毎朝を健康体でいさせるモノ。薬を飲まず、脳を覚醒させる夢を見るということはその恩恵を受けないということにつながる。
はるか昔、この世が“新史”になる前の時代。度重なるウイルスにより全人類のほとんどと文明が死滅した。しかし、生き残ったわずかな人類は非常に逞しく、少ないながらも文明を徐々に徐々に復活。巨大な壁を作り、空にはエアフィルターを施して外界と完全に遮断。そしてその過程で、人に絶対的に必要なモノは“健康”だと考えるようになり、二度と人類に危機を訪れさせないよう政府は“薬”を発行。その結果、人類は健康体のまま数百年を過ごし、老衰率100%を記録させている。
だからこそ、“不健康”で命の危険になることは絶対に許されない行為。今の世、交通などの完全自動化に再生治療に至るまで、徹底した“命”の管理が行われているのだ。アリアが怒るのも無理はない。
「ご、ごめん今後はもうちゃんと飲む……。だからそんなに怒らないでくれ……」
「はぁ、まったく……。本来なら毎日の報告義務を違反したってことで告白しないといけないのに……。ここは目をつむります。私もまだあなたといたいしね」
「ありがとう」
「それじゃああなたも早く朝食摂りなさい。今日は早いんでしょう?」
「ああ、そうだな」
重苦しかった雰囲気が解決。
そうしてホッとしたジョンは食卓に着き、縁のところを掴む。そしてその部分を引くと、2㎝角の収納箱が現れた。
ジョンは小さな針を取り出し、自分の人差し指に差す。ぷつり、と球体の血が浮かび上がりそれを収納の中に入れていく。
ポタリと一滴落ちると、自動でソレは閉じ二十秒後にはテーブル部分が開いて下からプレートがせり上がってきた。
朝食の内容は、茶色のブロックに緑色のブロック赤色のペースト、そして水。これがジョン・キケロに与えられる最適な朝食だった。先ほど送った
茶色のブロックを手に取り、モソモソと食べていく。味は特にしない。
「はぁ……、この味にも飽きたなぁ……」
「仕方ないじゃない、ソレも政府によって定められたものなんだから」
「まぁそうだけどさ……。あーあ、旧史の人たちはいいよな。ほっぺが落ちるほど、美味い食べ物を自由に食べていたって言うじゃないか。肉とか魚っていうやつ。外の世界にいるのに食べられないとか、それこそ“生殺し”ってやつさ」
「何、政府批判?」
「違う、これは意見だ。薬にしたって俺たちの人生をすべて管理されてるようなモンだし、ちょっとくらい自由があっても……」
「“欲しがりません死ぬまでは”」
「何その言葉」
「ネットにあった、政府の裏の顔だとか言う怪しい団体が掲げていたスローガン。なんか妙に耳に残ってね。死ねば、自由になるんだからそれまではどんな不自由も享受しなさいだって」
「やめろやめろ、死ぬのが自由なんて考えたくない。お前も、そんなところの言葉なんて覚えるなよ」
「私も別に気にしちゃいないけどさ。今のあなたにはピッタリかと思って」
「ちぇっ」
「そもそも、仕事も趣味もパートナーも自由に決められるんだから、人生観察されるくらいいいじゃない。それで老衰出来るんだから大きなメリットでしょう?」
「うん……、まぁ……。でもなぁ、人間的じゃないというか……」
「ま、倫理やら哲学の部分は面白いけど平穏に生きていくのが一番よ。だから変なことはしないでね」
納得のいっていない顔をするジョン。その様子に呆れたため息を吐き、アリアは立ち上がる。
「それじゃ私は先に仕事に行くから、あなたも早くご飯食べて学校行くのよ。社会教師さん」
「へーい」
空になったアリアのプレートは自動で収納されていく。それを見届けることもなく、アリアは玄関に行き、ジョンはその姿を見送った。
☆
昼下がり。ジョンは初等学校にて子供たちに歴史の授業を行っていた。教壇に立ち、タブレット片手にディスプレイに板書していく。
そんな時だ。
「―――――ッ」
次に文字を書いた瞬間、ジョンの視界がブレた。まだ書いていない空白部分に文字が見え、焦って目をこすると、その文字は消えている。
「せんせー?」
いきなりおかしな動きをしたジョンに、女の子が首をかしげながら尋ねる。
「あ、ああ。なんでもないよ。それじゃあ続きをやるね。――旧史に起きた事件。それは前に話したと思うけど」
「せんせー、なんのことですかー?」
「そんなのボクしらないよ?」
「え?」
ざわめきが教室に広がっている。ジョンが見る限り、この場の全員が知らないようだった。
「前の授業でちゃんとやったと思うんだけど……」
タブレットを見て授業内容を見返す。すると、何が起こっているかに気付いた。話している内容と、ページ画面の内容が違うのだ。そしてそれは、生徒たちのタブレットも同様。
そう、ジョンが言っていたのは映し出されていたページの先にあるのだ。まだ、生徒たちが知らないのは当たり前だった。
そのことを理解し、ジョンは生徒たちに謝る。
「ごめんごめん、勘違いしていたよ」
「せんせーだらしなーい」
「しっかりしろよー」
あはははは! と笑いが起こる。
「おっかしいな~。――じゃ、気を取り直して……」
授業は再開されていく。ただ、これは本当に勘違いだったのか。その僅かなしこりの様な物がジョンの中には残っていた。数十分後。授業終わりにジョンは屋上に行き仲の良い同僚――ベネに授業内で起きたことを相談した。
「――ってなことが起きたんだけど、なんだと思う?」
「貴方の勘違いでしょう」
「そうとは思えないからここに来てんだろ……。だって俺は絶対に旧史に起きた事件をやったと思ってたんだから。勘違いしたとすら思えないんだよ」
「うーん……」
食いかかるように言うジョンの言葉に、顎に手を当てて思案顔になるベネ。すると、何か思いついたのか、手を放して目をジョンに向けた。
「……それ、もしかしたら“デジャブ”ってやつかもしれない」
「でじゃぶ?」
「既視感って意味よ。旧史の言葉だったかしら。どっかの文献で見た覚えがあったようななかったような……」
「曖昧だなー」
「仕方ないじゃない、一単語レベルしかなかったモノを事細かく覚えてないわよ。あたしだって、そんなこと起きたことないんだから」
「まぁそうだよなー。俺も初めてだったもん」
お互い生きて二十七年。初めて体験する事象に困惑せざるを得なかった。
すると、困惑の影響かジョンがぽつりと言葉を漏らす。
「……やっぱ飲まなかったのがダメなのかね」
「何? なんのこと?」
「あ……」
食いついてきたベネに、あっ、と口に手を当てるジョン。その様子に訝しがり、ベネはジョンを問い詰めた。
迫る圧に思わずジョンは今朝のアリアとのやり取りを言ってしまう。
「信じられないッ! 薬飲まないなんてことある!?」
「ちょ、ちょ! 声が大きいって!」
「だって、こんなこと!」
「そのやり取りはもう朝やってるから勘弁してくれ! それに忘れてたんだからもう仕方ないだろ!」
「開き直ってんじゃないわよ!」
ぎゃあぎゃあ、と騒ぎまくる二人。喧騒は長く続き、気づけば放課後を告げるチャイムが鳴り響いていた。
「はぁ……もういいわ。この件は忘れてあげるから、今日の夜はちゃんと飲むのよ」
「分かってるって」
☆
その夜、再び朝と同じような食事を摂り、アリアの目の前で“薬”である錠剤を飲もうとするジョン。しかし、口に入れた瞬間ジョンは思ってしまった。
「(薬を飲まなかっただけで、夢だけじゃなくデジャブとか言う新体験もすることになった……。もし、このまま飲まずにいたらもっと色んな体験が……)」
夢だけが自分を自由にさせてくれる場だとジョンは思っている。だからこそ、これまで何度も飲まなかったのだ。
そこにやってきた今回の新体験。そう思ってしまえば、自由を渇望していたジョンの好奇心は止められない。ジョンは“薬”を歯と頬の間に挟み、水だけを飲んで薬を飲んだように見せかけた。
「よし、ちゃんと飲んだね」
「飲んだ飲んだ。俺、トイレ行ってくるから先に寝室行ってて」
「ん」
アリアが二階の寝室に向かう。その背を見て、ジョンは急いでトイレに行き、“薬”が溶ける前に吐き出した。
「よし、これで今日もきっと夢を見られるはず」
ジョンの顔はもうワクワク顔。寝るのが楽しみでいられないと言った感じだ。
そしてそのまま寝室に向かって、アリアの横に眠る。
「やけに嬉しそうな顔してるけど、どうかした?」
「いいや、なんでもないよ。それじゃお休み」
さてさて、見られるかなー。そう思いながら、ジョンはすぐ眠りについた。
すると、また再びあの純白の空間に出る。夢の始まりだ。
「よし、成功だ! 今日は何の――」
――その時だ。夢の始まりに異変が起き始めた。
真っ白な空間は粉々になったガラスのように、ボロボロと崩れ落ちていき、その中から真逆の“黒”が現れる。
ジョンの混乱は避けられない。こんなこと、これまで一度もなかったのだ。
そんな不安に駆られるジョンをよそに、白は完全に剥げ落ち夢の始まりは黒に染まった。
「夢も始まる気配がないし、体も動かない……。何が起こってるんだ……?」
何故か身動きできず、唯一動く首を使ってキョロキョロと周りを見渡すジョン。
すると、バンッ!とジョンの目の前に光が照らされる。あまりの眩しさにジョンの目はやられてしまった。
そして、カツカツカツといくつもの足音がジョンの耳に届く。目も見えず、ナニカの気配だけがある。それに一気に不安になり、ジョンはガタガタと体を動かした。
「な、なんだ!?」
『五月蠅い奴だ。拘束している意味が分からんのか?』
「――ッ!?」
夢なのに状況に即した返答がある。だからこそ、ジョンは気付いてしまった。この状況は夢ではなく現実であると。
『あまり手間をかけさせるな。絶対に起きないとはいえ、人が眠る横からお前を連れ出すのに苦労したんだ。代わりになるまで大人しくしてくれるとありがたい』
「代わり!? なんのことだ!? しかも連れ出しただと!? なら俺を早く解放してアリアの下に帰らせろ!」
怒鳴るジョン。その様子に、呆れた雰囲気を出すナニカ達。
『状況が理解できていないとは……。このような愚かな人類がまだいたとはな。果たして代わりにする意味があるのか』
『ちょ、待ってくださいよ! 俺がそんな愚かな奴に見えますか!? 生かしてくださいよ!』
ナニカが言った“代わり”の言葉。その言葉に焦るジョン――しかし、その声は拘束されているジョンのモノではなかった。
「お、俺の声……? どういうことだ……? 合成音声か? いや、それにしては肉声すぎる……」
あり得ない出来事に冷や汗をかくジョン。目は既に回復しつつあり、この状況を早く理解したかった。
瞼を開く。頭上には光があり、周りは夢の始まりのように真っ白な背景。壁なんだろうが、白すぎて距離感が分からない。
ジョンのすぐ傍には白衣を纏った男性女性が乱立している。その中には、ベネの姿もあった。
「なん、でここにベネが……」
『彼女は今回の功労者だ。“薬”を飲まずこの世界の真に気付きかけた者を我ら暗黙協会に報告する役を担っていた』
「世界の真……? 暗黙協会……? 何を言って……」
混乱し続けるジョン。そこに声をかけたのはベネだった。
『聞いたことないかしら、政府の裏の顔の団体があるって。それが暗黙協会で、人類救済の組織。そしてあたしはその一員なのよ。ちなみに、あたしみたいなのはどこにでも散らばっているわ。あなたみたいな愚か者を見つける為にね』
『おい、そこまで言わなくていいだろう』
『別にいいでしょう? もうこの男は用済みなんだから』
「よ、用済み…?」
『それが、貴方が一番気になっていることの答えよ。顔を動かして右を見なさい』
「右……。――ッ!?」
恐る恐る右を向く。
――そこには、もう一人のジョン・キケロが目の前に立っていた。
「な、んで俺が……」
目の位置、鼻の高さ、耳の形、口元、顔のほくろ、体型、先ほどの声に至るまで、そこにいたのはまさしくジョンだった。
「やあ、もう一人の俺。初めまして、そしてありがとう。お前には感謝してもしきれないよ」
「ど、どういうことだ……!」
『貴方が理解出来るように話すと、このジョンは壁の外で暮らす貴方のクローンなの』
「壁の外で暮らすクローン……?」
『はるか昔に、人類が絶えかけたことがあるのは知っているでしょう? そこであたしたち暗黙協会が人類に“健康”そのもの与えるようにしたのが今の世界の始まり。だけど、どれだけ人を不慮の死から遠ざけても不慮の死そのものが無くなる訳ではない。もしかしたらまた人類存亡の危機が起きるかもしれない。
――だからこそ、私たちは複製を作ることにしたの。このあたし達が生きている世界を新の歴史ならぬ真の歴史“真史”とし、壁の外で差異はあれど同じような生活をさせる“虚史”に分けてね。そして真史の自分が老衰以外で死んだ時に代替として虚史から送るようにしているの。そうすれば、永遠に“真史”は絶えることなく歴史を刻んでいけるというわけ』
「………」
ベネの言葉が同じ言語だと思えなくなるジョン。それだけ、ベネの言っていることはジョンの理解を超えていた。
『ただ、これには一つ不具合があってね。それが、記憶の逆流。あたし達が配る“薬”を飲んでいないと真史と虚史の自分がリンクしてしまうの。貴方に起きていた現象がソレ。夢の中で死んだ妻。身に覚えのない記憶――既視感。それらは全て虚史のジョンが味わったことなのよ』
「じゃ、じゃあアリアはそっちの世界じゃ……」
「ああ、死んでいるよ……!! その絶望はお前には分からないだろう。失意のどん底に落とされ、悲しみに暮れる毎日。アリアを思い出さなかったことはない!!」
顔を悲痛に歪めながら、絶望の声をジョンに届ける“ジョン”。しかし続けられる声には少しばかり喜びが乗っていた。
「そこで思い出したんだ、真史の世界のことを。こっちじゃクローンは自分が真史の代替品だと知っているからな。こっちのアリアが生きている以上、そちらにはまだ生きているというのは分かっていた。――だから俺はどうしてもそっちに行きたかった!! もう一度アリアと逢って一生を過ごす為に! でも、虚史の人間がそっちに行けるのは本体が不慮の死を迎えた時だけ。普通に過ごしていたら、死を限りなく遠ざけているそっちの世界に行ける可能性はないに等しい」
『ただ、入れ替わる事例は死以外にもあるの。それが、“薬”を飲まなかった違反者が世界の真実を知りかけた時。だからその該当者である貴方は今からこのジョンと入れ替わるのよ。まぁ正確には、貴方は死ぬんだけど』
「し、死ぬ!? 薬を飲まなかっただけだぞ!? そんなことあってたまるか!」
『真史の人間に、世界の真実を気付かれるわけにはいかないのよ。だって、もう一人の自分がいるって知ったら気持ち悪いでしょう? それに、もしかしたら“自分の代わりがいるから”って怠けて歴史の歩みを止めてしまうかもしれない。そうさせない為に違反者は処すと決めているの』
「安心しとけよ俺。そっちの世界で“ジョン”は生き続けるんだからな。アリアのことは任せておけ」
「ふ、ふざけるなぁ! おい、離せ! 離せよ! 俺はまだ――」
拘束具を外そうと、ガタガタと暴れるジョン。しかし、外れる気配は一向にない。
“ジョン”は他の暗黙協会の人間に連れられジョンから離れていく。入れ替わり前の顔合わせが終了したのだ。
今後は、“ジョン”がジョンとして老衰するまで生きていくのだろう。
それを思い、さらに暴れるジョン。周りは全力でジョンを抑えつけ、注射針を首筋に添える。
そして何も言わせぬまま、液体が体内に注がれる。
明滅する視界、朦朧とする意識。夢の始まりと同じ、ふわふわとした感覚がジョンに訪れる
そして視界が真っ暗に染まる瞬間、最期に“ジョン”の声がジョンに届いた。
「――ありがとう。死んでくれて」
☆
「あなたー! そろそろ起きないと遅れるわよー!」
「あぁ大丈夫、起きてるよー! 今からそっち行くから!」
「はーい!」
家に響く、ジョンとアリアの声。
ジョンが下に降りて、朝食の時間が始まる。
そのひと時が、ジョンには至福だった。
「どうしたの? そんな嬉しそうな顔して」
「いや、なんか幸せだなって。欲しかった未来を手に入れられてさ。――アリア、これからもよろしくな」
それからもジョンとアリアは幸せな時間を過ごしていく。
お互いが歳を取り、老衰していくその時まで。
欲しがりません死ぬまでは 睦月稲荷 @KaRaTaChi0112
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