あやかしと料理人の百食日行

総督琉

あやかしと料理人の百食日行

 一年に一度、この世界ではある祭りが行われる。

 世界中を巻き込んで行われる魔物と人間の祭りーー百食日行。

 空腹の魔物が世界中に押し寄せ、腹が満たされるまで世界中を徘徊し続ける巨大なお祭り。その日は料理人にとっては腕の見せ所であり、魔物に認められた者だけが一人前の料理人になっていく。



 そんな大事な日ーー百食日行を明日に控えていたにも関わらず、僕は自分の料理に模索していた。



「ーー袰月ほろづき、袰月、起きろ袰月」


 聞き慣れた怒鳴り声で目を覚ました。

 顔を起こすと、眼前には先生の鬼のような面が広がっていた。


「百食日行を明日に控えているというのにお前は呑気だな」


「すいません……」


 どうやら授業中にも関わらず眠っていたらしい。


「放課後補習を受けてもらう。良いな」


「はい……」


「ったく、料理人になりたきゃ授業くらい真剣に受けろよ。でなきゃ今度の百食日行で魔物にキレられるぞ」


 分かっている。

 だから授業すらも真剣に受けられなかった。その不安が頭を過って離れず、昨晩もずっと眠れなかった。


「授業を再開するぞ。教科書は百二ページを開いたままにしておけ」


 先生が教卓へ戻っていく。

 僕は眠い目を擦り、睡魔を振り払う。


「袰月くん、具合悪そうだけど大丈夫?」


 隣の席に座っていた紗那しゃなは僕を心配しているようだった。

 心配を伝染させるわけにはいかない、そう思った僕は空元気を見せつけ、百食日行への不安を噛み殺した。


「大丈夫なら良いんだけど……」


 紗那は僕を疑っているようだ。


「もしかしてさ、袰月くん、昨日ずっと夜の遊びでもしてたんでしょ。若いからって大事な日の前にしちゃうと元気なくなっちゃうよ」


 教室中が笑い出した。


「ち、違わい」


 相変わらず紗那の天然には困ったものだ。


「ねえ、何か困ったことがあったら私に相談してね。力になれるなら、私も君に協力したいからさ」


 残響のような優しい声で、紗那は僕にそう言った。

 彼女の温もりに満ちた声に、殺伐とした心が少しだけ晴れていくのを感じた。



 授業が終わり、一時間ほどの補習も終え、教室で大きく伸びをしていた。

 本当は呑気に過ごす暇などなく、他の生徒は明日の百食日行に向けて、放課後の時間を各々自分の料理技術を向上させることに費やしていた。

 だが自分の料理が迷走している僕には関係のないことだった。


「補習、終わったんだ」


 振り返ると、ほっぺにクリームをつけた紗那がいた。

 相変わらずドジで天然だ。


「袰月くん、何か悩んでるでしょ」


「ドジで天然で時に意地悪だけど、相変わらず勘だけは鋭いな」


「当たり前でしょ。特に君のことになると、私は誰よりも詳しいんだよ」


「そうやってからかうんだ。紗那は意地悪いね」


 だけど少しだけ、緊張感が解かれた。


「でも、ありがとう」


「何それ」


 紗那は笑ってそう返した。

 緊張で締め付けられていた心が、彼女と話す度に少しずつほどけていく。


「紗那、明日の百食日行、お前は何の料理を出すんだ?」


「私の独壇場と言えばたった一つ、パスタ料理。パスタにおいて私の右に出る者はいない」


 紗那はこの学園で最年少にして一級料理人の称号を得た逸材。圧倒的知識量と圧倒的技術で同級生を魅了する様はまさに女神の聖域。

 故に彼女は女神と呼ばれ、同級生の中では憧れの存在だった。


 料理人には幾つかの階級がある。

 一級から十級までの階級があり、それぞれの階級の試験に合格すれば称号を得られる。その中でも、一級料理人は最難関で世界で百人ほどしかいない。

 その中に、まだ十六歳の紗那が堂々と君臨している。


「ああ、なるほど。袰月くんが悩んでいるのは百食日行についてか」


「僕にはこれと言って得意と呼べる料理がないからな」


「確かにね」


 一瞬でネガティブな意見を肯定され、その上紗那は言葉を続ける。


「君は料理人に必要な手先の器用さなど微塵もなく、それを補おうとする努力もせず、怠慢に身を浸している。時に本気を出すこともあるが、結果はどれも惨敗で、至高の料理と呼べるものは何一つない」


 洪水のように正論で攻め立てられ、心の城壁は総崩れ。自分を正当化することはできず、ただただ落ち込むことしかできなかった。

 彼女の意見は最もで、そのどれもが歪められることのないド直球の真実だ。

 怠惰に明け暮れることにこの上ない快感を抱き、今も尚堕落していたかた教室でただ座っていたのだ。腕を動かすこともなく。


「ーーでも、私だって『これだっ』って思えるような料理は作れたことはないんだよ」


「えっ!?」


 突如として告げられたことに、動揺で見開いた眼孔で彼女を見ていた。


「自分の料理を見つけるってことはそんな簡単なことじゃないんだよ。どんなことだって自分のスタイルを確立することは難しい。迷走の最中に更なる迷走に追いやられ、八方塞がりになったことだって何度もある」


 常に戦場の最前線の遥か先を歩んでいたかのような彼女から告げられたことに、僕は静かに動揺していた。

 彼女が話すことを聞き逃さないよう、耳が、五感が、紗那に集中している。


「私はこの学園に入る前から失敗と成功を繰り返して料理と向き合ってきた。時に真っ黒な料理ができたこともあったし、とても食えたものじゃない料理だって作った。そういう経験を経て、私は一人前の料理人になる」


 紗那は制服の裾に隠し持っていたお玉とフライ返しを手に構え、格好良く構えて決め台詞のように言った。


「私を越えたきゃ努力しろ。でなきゃ、一流の料理人なんて遥か先さ」


 感服した。

 上には上がいる、そんな言い訳をして諦めていた自分が恥ずかしい。

 ただ面倒な努力をしない言い訳を探して、いつも自分を正当化してきた。



 ーーだけど、少しだけ分かった気がする。



「ねえ紗那、」


「何?」


「僕に料理を教えてほしい」


「良いよ。けど、私の料理についてこれる?」


「地べた這いつくばってでもしがみつく」


「それは衛生的にどうかな」


 微笑み、冗談交じりに紗那は言ってみせた。

 疑うように僕の顔を見てから、右足を軸に振り返った。腰の後ろで手を組みつつ、


「じゃあ行こっか。明日の百食日行まで時間がないし、急ぎで準備しよっか」


「ありがとう」


 この時に抱いた感情は今でも覚えている。

 彼女には心からの敬意を表し、それを込めた感謝の言葉に紗那は顔を赤らめていた。

 ミキサーでかき混ぜられたように心が乱され、つい脳内で豆腐が一切れ、豆腐が二切れと数える始末だった。




 日は落ち、暗天カーテンが太陽を包み込む。

 夜な夜な、学園の第七料理室で僕と紗那は手を動かしていた。

 まな板の上を走る銀色の刃がタップダンスを奏で、刃の横をキャベツの大群が列を乱して錯乱している。

 それを見た紗那は僕の腕から華麗な手捌きで包丁を取り上げ、首に寸止めでかざす。


「袰月、千切りの仕方が荒すぎるかな」


 大人びた口調と雰囲気を彼女は纏っている。


「そ、それは分かったけど……包丁が……」


「精々キャベツにトマトソースのトッピングでヘルシーになるだけ」


「ブラックジョークが暗すぎますよ」


「余は料理中はジョークは言わないんだ。分かったらゆっくりと、そして丁寧に千切りをやり直すと良い」


 恐怖政治、ならぬ恐怖クッキング。

 楽しいお料理教室はここにはなく、あるのは何万ものペルシャ兵に立ち向かったスパルタの闘志。

 目には目を、歯には歯を、教育には刃をーー


 料理をする時だけ、紗那は別人になる。

 普段の彼女が人だと言うのなら、今の彼女は狩人だ。


 千切りを認められるまで一時間。

 明らかにペース配分がおかしく、このままではあと一ヶ月あっても足りないくらいだ。


「紗那、いつまで基礎的なことばかりするのさ。もっと料理を魅力的に作るコツとか……」


「質問、そのコツを活かすために必要なのは何だろうか?」


「……食材とか?」


「愚かやな。そういう輩は美味しく料理を作れない原因を食材に委ねる。食材も重要ではあるが、必要なのは何より基礎的な技術スキル。あんたにそれがなければどれほど高級な食材だろうとただの炭や」


「ーーーー」


「袰月、余が教えられるのは基礎的な技術とある程度の応用だけや。それ以上のことは明日の百食日行で学ぶと良い」


 彼女の言葉通り、この夜に彼女から教わったのは基礎的な技術と応用だけ。レシピの一つも分からないまま恐怖のお料理教室は幕を閉じた。

 その日の夜は学校のシャワー室でシャワーを浴び、仮眠室で紗那とともに一晩を過ごした。




 やがて朝を迎え、百食日行がやって来た。




 ーー百食日行

 朝早くから学園の外から騒がしい声がする。

 百や二百、などではない。一万や二万、などでもない。無数に存在する魔物の群れが世界中に押し寄せていた。


 魔物の大行列を仮眠室の窓から覗く。

 羽を生やした狼や体長三メートルはある巨大な猫、見上げれば雲の中に半身を埋める東洋の龍の姿も確認できた。

 多種多様、種種雑多、千差万別、千姿万態、奇々怪々な魔物の群れ。



「ーーこれが、百食日行」



 街中が騒いでいる。

 今日はお祭り、世界中を巻き込んだ巨大な祭りが開かれた。


「袰月くん、凄い興奮してるみたいだけどエッチい夢でも見たのかな?」


「ち、違いますよ。とうとう始まったんですよ。百食日行がっ!」


「今年もやって来たね。去年は手強い魔物に会わなかったけど、今年は一級料理人の資格を手に入れたんだ。百年級の空腹の魔物はいないか」


 こうして見ると料理中の紗那とは偉い違い様だ。

 料理中の大人びた紗那の姿はどこにもなく、今の彼女はただの普通の女学生だ。


「さてさて、君は今回の百食日行で初めて料理人側として参加するのかな」


「はい」


「ならば精一杯戦うと良い。不条理な現実や無愛想な魔物も、全てを経験して学ぶのだ。料理とは何かを、料理人とは何かを」


 不思議と掻き立てられていた。

 これまで何度も見る側として百食日行を経験してきたけど、料理人側になって初めて分かった。

 これほどまでの緊張感と高揚、不安や恐怖、幾つもの感情が天文学的に表すことのできない星座を描き、交錯する。


「ああ、最高に楽しみになってきた」


 思わず声を荒げ、感情を吐き出した。


 待ち遠しくもあり、だが同時に脅えてもいた。

 未知の百食日行への不透明さが怖くて仕方がない。


 恐怖で震えていた手を、突然紗那に握られた。


「袰月くん、早く教室に戻ろう。先生たちが待ってる」


 紗那に引っ張られるままに教室へと向かった。

 教室には既にクラスメートは皆集まっていて、教室中の視線を浴びながら席についた。と同時、先生は壁にペッタリつけていた背を離し、


「皆揃ったとこだし、今日の百食日行でそれぞれの持ち場を伝える。基本は他の料理人の手伝いをしてもらうが、午後からは各自料理を作って魔物に振る舞え。お前らが相手にするのは基本一年級の空腹の魔物を対応させておくことになっているから安心しろ」


 先生の話を遮り、僕の後ろの席に座っていた熊巫女くまみこが立ち上がった。


「先生、一年級の空腹とはどういう意味でしょうか?」


 クラスで最も真面目な生徒ーー熊巫女。

 健気に質問する姿に先生は平凡に答える。


「魔物にはそれぞれ空腹の度合いが違う。人にだって胃袋が異常にでかかったり消化が早い奴がいるように、魔物もそれぞれ違う。

 百食日行に現れる魔物のほとんどが一年間ほぼ何も食べず、この日を迎えている。多くの魔物が一年級、またはそこ近辺の空腹度だ。消化の早い奴だと十年級とか、下手したら千年級とかいたっけな」


「空腹度によって何か変わるのでしょうか?」


「文字通り食べる量が変わる。一年級に比べ十年級の方が食べる量が多く、それよりも百年級の方が多い」


「では空腹度が高ければ高いほどたくさん食べると言うことですか?」


「まあそうだが、必ずしも量が全てとは限らない。数千年前、魔物と人は争っていた。その戦争を止めたのがたった一人の料理人の作った料理だった。

 魔物を率いていた龍は一万年の空腹の果てに暴れていた。しかしその料理人の料理を食べた瞬間、一万年の空腹が一瞬で収まった。その者の料理があまりにも美味しすぎたから」


 おとぎ話やファンタジーのような話、だがその話は僕も幼い頃によく母から聞かされていた。

 かつて世界を救ったのは英雄でも勇者でもなくーー料理人だった。


「そんなことが……」


 熊巫女は目をまん丸く見開き、驚いていた。


「質が良ければ何年級の空腹だろうと満たす。駆け出しのお前らにはそれは求めないが、せめて魔物を満足させられる料理を作ってくれ」


 先生の話を受け、クラスメートの面構えが良い方に変わった。


 これは、負けてられないな。


「もう既に百食日行は始まっている。それぞれ配属場所が違うから気を付けろ。昨日伝えた通りの場所に今すぐ移動だ」


 クラスメートの多くが席を立ち、料理人としての初舞台に向かっていく。その間、俺は紗那と向かい合い、


「袰月くん、気ぃつけてね」


「ああ。紗那も頑張ってな」


 固い握手でも交わしたいところだったが、そんな時間はない。握りこぶしでハイタッチを交わし、初舞台へと目掛けて歩みを進める。

 と、俺の肩が背後から叩かれた。


「熊巫女さん? どうかした?」


「ほら、私と袰月くんって同じ場所に配属されてるでしょ。だから一緒に行こうかなって……思ったんだけど……良い?」


「というか、どこ行くんだっけ?」


「えっ!?」


 驚きを持った感情で熊巫女は目を見開き、唖然としていた。


「もう、仕方ないんだから」


「すまん」


 一難ありながらも、僕らは今回の百食日行でお世話になる店にやって来ていた。

 学園から徒歩一時間の場所にあり、その四十分が山登りの時間に費やされた。


 山の頂上にある一軒の老舗の店。

 店から漂うにおいは、砂漠の中のオアシスのように燦々と舌を唸らせる。


 足早に店内に続く戸を開いた。

 ザ・木造建築の内装が老舗の雰囲気を感じさせながら、傷や汚れの目立たない清潔な空間が保たれている。

 カウンターには席が十席ほどあり、テーブル席は八つ用意されている。


「すみません。百食日行で今日一日お世話になる袰月と熊巫女です」


「おっ、お前らか。名門学園からの生徒っていうのは」


「は、はい……」


 頭にハチマキを巻いた、いかにも強面の男が僕らを見下ろしてくる。

 身長は頭一つ分勝り、体格では圧倒的な差を見せつけられる。


「俺はお前らよりも一年先輩の死骨崎しこつざきだ。生憎今日は俺一人で切り盛りしていることになっているからよろしくな」


 案外いい人そうで安心した。

 熱血系っぽい人だけど、楽しくやっていけそうだ。


 ーーそう、その時は思っていた。



「じゃあ早速料理の手伝いをしてくれるよな」


「「はい」」


 だが、それが料理の手伝いと言えるものかはおかしなことだった。

 熊巫女がベーコンをみじん切りにしていると、邪魔するように死骨崎が熊巫女の背中に腕をぶつけた。


「おっと、悪ぃ」


 と言いながらも、彼が浮かべる表情に善意はない。装っている悪意が明白だ。


 熊巫女は危うく指を切る大惨事になっていた。

 それからも死骨崎先輩による邪魔が何度も入った。


 生卵でベトベトになった手を洗い流しているところに熱湯をかけてきたり、熊巫女にわざと一人では持てないような重たいものを運ばせたり、いい加減腸が煮えくり返っていた。


「さあ働け働け」


 だが、逆らうことなどできなかった。

 逆らえば、もっとひどい仕打ちがくると本能が察していたから。何より、逆らおうとすると熊巫女が平気な顔で僕を止める。


「私は大丈夫だから。袰月くんは料理に集中して」


 この時僕は気づいていた。熊巫女の瞳に浮かんでいた涙の結晶を。

 ーーもう耐えきれない。



 仕返しを覚悟で先輩に逆らおうとしたーー瞬間、店の戸が横にスライドされ、一人の男が店内に入ってきた。

 右手には巨大な龍の胴体を持って、左手には黒焦げになった豚を手に持って。


「何やってるのかと思ったけど、まさか新人潰しをしてるとは思わなかったよ」


 穏やかな口調、それに込められているのはおぞましい憎悪。


「新人君、私は城廻しろめぐりきょう


 金色に輝く幻想的な髪色、醸し出す雰囲気は大人びており、冷静沈着でクールな風貌で佇んでいる。蒼い瞳に目を奪われ、見とれていた。

 白い料理人衣装を着た二十歳ほどの男。


「な、なぜ……。こんなにも早く帰宅を! 遠征中では?」


「遠征が早く終わったから帰ってきたのさ。それよりも、死骨崎、何をしていたのかな」


 殺意が伝わる。

 その場にいるだけで身の毛がよだつような、おぞましい殺気。

 優しい口調にも関わらず、オリーブオイルのように絡みついたこの殺意は一体……。


「死骨崎、君はもううちの店にはいらないな」


「ちょっと待ってください。後輩をいじってただけじゃないですか」


 焦り、動揺し、挙げ句の果てに責任逃れの発言に逃げた。


「だとしても、ここは私の店だ。私が不快と感じた者は誰であろうと除名する」


 死骨崎は絶望し、その絶望の鬱憤を僕らへ向けるかのように憤怒の眼差しを向けた。

 この場に及んで反省もしない彼に、この上ない怒りを覚えていた。


「先輩、どうせ辞めるなら僕と勝負しましょうよ。僕があなたに料理対決で勝利したら熊巫女に謝ってください」


「死骨崎、引き受けなさい」


 城廻さんからの許可を得た途端、下がりきっていた口角がぐっと上がった。


「俺はお前の一年先輩だ。一年の差を舐めてはいないか」


 豹変する態度に不快さを覚える。

 これほどまでに清々しいと余計に腹が立つ。


「本気ですよ。生半可な気持ちで決闘を申し込んだんじゃない」


 熊巫女を馬鹿にされたことが許せない。

 彼女は誰よりも真面目で、料理には常に真剣に取り組んできた。彼女を馬鹿にしたこの男は許せない。


「二人とも、少し熱くなりすぎかな」


 城廻さんは冷気のように熱くなっていた場を制した。

 怒りで燃え上がっていた衝動が一瞬で冷やされた。


「さすがに作る料理は一緒にした方が良いかなって思って提案なんだけど、作るのはパスタ料理にしよう。百年級の空腹を抱えた魔物お客様がそう言っているからね」


 カウンター席を見ると、異形の姿をした魔物が腰かけていた。


「制限時間は三十分、それぞれ至高の料理を作りたまえ」



 ここが、僕の最初の戦場。

 山頂にある老舗の店で、僕の最初の料理が始まる。



 ーー開始から五分、僕は城廻さんから差し出された三つのパスタ料理のレシピを見て固まっていた。



「これはーー」


 時間にして二十分、パスタ料理を完成させた。

 死骨崎はわずか十五分で終わらせていた。


「ではお客様に振る舞ってこよう」


 死骨崎の作ったパスタは、城廻から渡された三つのパスタ料理の内の一つ、イカスミパスタだ。

 乱雑に黒い麺ではなく、イカスミが全面に色濃く塗られたベンタブラックよりも漆黒の麺。白かった部分は跡形もなく消え、生臭さなどもない。

 黒い麺を際立たせるため、刻まれたミニトマトが万華鏡の中のように美しく彩飾されている。


 イカスミパスタがもられた薄氷の器がお客様の前に出された。

 その横にもう一つ、パスタ料理が出された。


 白い器にもられているのは、紗那から教わった全ての技術を結集させて作り上げた至高の作品。


 純白の水面に映る琥珀色の色をした麺に細かく刻んだベーコンが絡みついている。麺は一本一本が太く、凛々しさを際立たせる。その上から肉とレタスを盛りつけた春を感じさせる風味を醸し出した。

 豚の風味とパスタのにおいが絡まった独特なにおい。パスタ中毒者を続出させてもおかしくないくらいの香りが漂っている。

 最後にシチューをかけ、出来上がりだ。


「ーー名付けて、春の訪れパスタ」


 それは、城廻さんのレシピの一つを見て思いついた僕の中では最高の一品だ。


 僕の料理と死骨崎の料理をあっさりと平らげた魔物へ、城廻さんは質問を問いかけた。


「お客様、どちらも料理が気に入っていただけましたか?」


「春の訪れパスタの方が味がぐんと伝わってきて美味しかった」


 厨房の袖で魔物の言葉を聞き、心の底からわき上がる高揚感に胸を高鳴らせていた。

 城廻さんは厨房袖へ来ると、哀れむような視線を死骨崎に向けた。


「勝敗は決した。死骨崎、君の敗けだってさ」


「嘘だ。俺の料理が敗けるはずがない」


「敗けただろ。敗北を認めず、そうやってだらだらと言い訳をこぼし続けるつもりか。上からの指名で君を雇ってみたものの、やはり間違っていた」


 死骨崎に落胆し、最上級の見下す視線を向けていた。

 龍が鼠を見下ろすのと同じように、遥か高みから彼は見下ろしていた。


「勝つための料理じゃ、お客様を喜ばせる料理には到底敵わない。勝利にこだわりすぎたから君は敗けた」


 膝をつく彼の耳元で、城廻さんは冷徹に呟く。


「君に料理人は向いていない」


 料理人にとって、それは最も言われてはいけない言葉だった。

 料理人に向いていない、どの職業でも向いていないと言われればそこまでで、それも実力のある人物から言われれば尚更だ。


 分かっているから死骨崎は絶望した。


「先輩、約束通り謝ってください」


「ちっ……」


 怒りに満ちた視線を向けてくるも、正面から視線を合わせた。

 堂々とした態度で死骨崎の謝罪を待つ。


 観念したのか、屈辱的に厨房の床に手をつけ、地べたに頭をこすりつけた。


「す、すいません、でした……」


 清々しい謝罪とはいかなかったが、傲慢に振る舞っていた彼の恐縮する態度に惨めさを感じていた。


「じゃあ死骨崎、このまま帰ってくれるかな」


「で、でも……」


「私の大事な店に泥を塗ったんだ。君のような子は、もう必要ないかな」


「ちょっと待ってください。あと一度だけチャンスをーー」


「ーー失せろ」


 言葉遣いだけは丁寧だった城廻さんは、強い言葉で死骨崎を押し退けた。

 恐怖で身体を震わした死骨崎は、脅えたように店を飛び出していった。「ああぁ」とだらしない悲鳴をあげながら。


「これで邪魔者もいなくなった。百食日行を楽しもうか」


「は、はい……」


 態度の変わり様に、紗那と似た怖さを感じていた。


「君たち、名前は?」


「僕は袰月です」


「私は熊巫女と申します」


「私は城廻京。百食日行で君たちの面倒を見ることになっているからよろしくね」


 それからというもの、この日はひたすら魔物に料理を振る舞い続けた。

 厨房で城廻さんの料理の助力をしつつ、お客様に完成した料理を振る舞った。何時間も働き続け、余力は残っていなかった。

 しかし魔物の行列は衰えるどころか増え続け、席が満員の中僕らは働き続けた。


 時刻は深夜零時を過ぎていた。


「百食日行は相変わらず大変だな」


 苦笑し、疲れた様子も見せず城廻さんは淡々と料理を作り続けていた。


「熊巫女くんは寝たかい?」


「はい。ぐっすりと」


 店に隣接する隣の小屋で、熊巫女は熟睡していた。

 何時間も働き続け、全身が痺れるほど苦しい。城廻さんは平然と料理を作り続けている。


「城廻さんは疲れないんですか?」


「私はもう慣れっこだからね」


「これに慣れるんですか」


「まあ料理を作り続けることは大変ではあるけど、苦痛ではないからね。だから疲れていたとしても、そんなことも忘れて料理に没頭してしまうのさ」


「本当に凄いですね」


 プロの料理人は別格だ、そう思わされた。


「こんなことを聞くのは失礼かもしれないんですが、城廻さんは何級の料理人なんですか?」


「全然良いよ。私の階級は特級、つまり特級料理人だよ」


「特級!? 確か階級で一級が最高なんじゃ……」


「知らないのも無理はないよ。現在特級料理人は世界で五人しかいないからね」


「たったの五人!」


「袰月くん、君にも特級料理人たる才能があるよ」


「いやいや、僕になんて特級料理人の才能はありませんよ」


「嘘じゃないさ。今日の君の料理を見て凄いと思ったんだよ。私が授けたパスタ料理のレシピ、それを限られた時間の中であれほどアレンジしたんだ。規格外さ」


「いえ。実は、前に似たようなことを父と一緒にしたことがあるんです。父から貰ったレシピと全く同じレシピだったので、同じ料理を作りました」


 城廻さんは興味深そうに微笑んだ。


「どうりでどこか食べたことのある味だと思ったよ」


「……え?」


 皿に盛りつけるときのようなか細い声を聞き逃した。


「袰月くん、君はやはり特級料理人になれる素質が、器がある」


「いやー、無理ですよ」


「料理は才能だけではない。性格や心情、いわば料理とは人の心を映し出す鏡。君は最高の料理人になれるよ」


 特級料理人に褒められ、つい嬉しくなって何も言えずにいた。

 喜びが心を制し、支配していた。


「袰月くん、君ももう休むと良い」


「いえ、もう少しだけ働けます」


「若い目を過重労働で潰すわけにはいかないからね。休んでくれ」


「はい」


 寝巻きに着替え、熊巫女の隣の布団に身を潜めた。

 興奮状態で眠れない、そう思っていたが、疲れが溜まっていたのが、意外にもすんなりと眠っていた。



 熊巫女と袰月が眠る間、夜通し料理を作り続けていた城廻の前に一人の女性が現れた。

 寝巻き姿にアホ毛をした、城廻と同年代の女性。


「京、まだ料理作ってるの?」


 眠い目を擦り、火に炙られるフライパンを見ていた。フライパンには卵がことことと泡立ち、焼かれていた。


蛇穴さらぎ、今日から百食日行だよ」


「ああ、恒例のやつね。ならうちも手伝おうかな」


「サンキュー。じゃあそこに書いてあるオーダー通り作ってくれる?」


「はいはい。そんくらい分かってるっつーの」


 城廻に負けず劣らずの手際で蛇穴は料理を作り続けていた。

 龍の頭蓋を火で炙った巨大な龍肉、鱗や皮を全て剥がされ、香ばしく巨大な肉をまるごと使った料理。作った本人ですらもつまみ食いした衝動に駆られていた。


「危ない危ない。夜食は美容の天敵よ」


 それからも彼女は城廻とともに料理を作り続けた。


「そういえばさっきまで隣の母屋の電気が点いてたけど、誰か来てるの?」


「蛇穴、この店の先代店主を覚えているか?」


「ああ、鈴鹿すずかさんのことね。あの人の作る料理は全部美味しかったな」


「彼の息子がこの店に来ているよ」


「マジっ!? 超凄いじゃん」


 驚きと喜びを抱きながら、フライパンを巧みに振って炒飯を宙返りさせる。


「百食日行の間だけだけどね」


「ああ、毎年学校から来る研修生的な奴ね」


「彼は、特級料理人になるよ」


「あんたがそう言うってことは、鈴鹿さんのガキはそんなに料理が上手かった?」


「いや、お世辞にも上手いとは言えないが、鈴鹿さんも似たような感じだっただろ。彼はやはり鈴鹿さんの子だ。無限の可能性を持っているよ」


「へえ、楽しみじゃん」




 一晩明け、午前七時、熊巫女とともに目が覚めた。

 寝起きのところで目が合い、お互いに顔を赤らめ恥ずかしがった。


「お、おはよう、熊巫女」


「おはよう、袰月くん」


 顔を洗い、着替え、店へと戻った。

 昨日ほどではないものの、店の外には行列ができている。


「おっ、早起きだね。早速手伝ってくれるかな?」


「「はい」」


 百食日行二日目が始まる。

 清々しい朝陽とともに向かえた二日目を越え、特級料理人に少しでも近づきたい。


「紗那、俺もすぐにお前の隣に並ぶ。それまで待っていろ」

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