第一章 突然の訪問者と怒濤の幕開け①
昼の三時をまわるころ。食料品の商店がたちならぶシジスモン
パン屋『オールセン』も例外ではない。客足が
その間、ひとけのない店先を任されるのは、
「──手紙かね、ミレーユ」
店とは通路でつながった作業場から、ダニエルが顔をのぞかせた。ミレーユは
「うん。おじいちゃん
「ほかは?」
「それだけよ」
ダニエルは軽く笑い声をあげた。
「なるほど。今日もフレッドからはこなかったか。それでそんなに
ずばり言い当てられてミレーユはむくれた。ふたつに分けて長く
「もう二ヶ月よ。こんなに返事がこないなんて、何やってんのかしら、あの子」
「いろいろ
なだめるようにそう言うと、ダニエルは二通の手紙をうけとって奥へと入っていった。
ミレーユはひとつため息をついて、ひらいていた
「──ねえ、もう四時の
「まだ三時のが鳴ったばかりよ」
「あらそう……なに、またやってんの?」
「『打倒ブランシール、サンジェルヴェ頂点への道』……。ったく、こんな色気のないことばっかり毎日毎日よくもあきずに考えられるわねぇ。そんなんじゃますます
「な……悪かったわね、もてなくて!」
恋人いない歴十六年の
「もう、
「新商品って……まだやるつもり? あの絶不評だった企画……」
「あたりまえでしょ。ありきたりなことばっかりしてたって頂点に立てるわけないじゃない。
ミレーユは
五番街区の入り口にあたらしく出来たパン屋『ブランシール』は、こざっぱりとした店構えと
開店当初は気のないふりをしていたミレーユだったが、友人からその情報をきくといてもたってもいられず、こっそり敵情視察におもむいた。そして
(なあぁにがブランシールよ、気取った名前つけちゃってさ。あんないけ好かない店に負けるもんですか。シジスモン一のパン屋は我が『オールセン』だってこと、目にもの見せてやるわ!)
負けず
「べつに今のままでいいと思うけど。売り上げは大して変わってないんだし」
興味なしという顔でぼやくジュリアに、ミレーユは深々とため息をついた。
まったく
「いい、ママ。これは職人として、そして商人としての
「商才……って……」
「うちを頂点に押し上げるためなら、あたしはどんな努力も
大まじめな顔で企画書を見せる娘に、今度はジュリアがやれやれといった表情でこめかみを押さえた。
家業を
「……気の済むまでやんなさい。ただし、おじいちゃんの邪魔はしないようにね。それと、試作品を
「失礼ねえ、わかってるわよ」
ミレーユはむっとして答えた。その表情から察するに、岩のような
と、ジュリアが、はたと
「いけない、しゃべってるひまないんだった。四時からまた配達あるのよ」
「あ、あたしが行く! どこ?」
ミレーユは即座に帳面を閉じると、きらりと
「ええっと、十二番街の……。ああ、ここなら前にも行ったことあるし、今から出れば余裕で四時に間に合うわね。これはあたしに任せて、ママはゆっくり買い物してきたらいいわ」
すばやく注文書の
「年寄りあつかいすんじゃないの。あんたは店番。たのんだわよ」
「むぐ」
ついでにかじりかけのパンを娘の口に突っ込んでやり、さっさと店の扉を開ける。出て行こうとして思い出したように振り返った。
「そうだ、おじいちゃんにお客さんがくるかもしれないんだって。奥でやすんでるから、来たら知らせてあげて」
「……む……いってらっしゃい」
娘の言葉を最後まで聞くことなく、ジュリアは
母のはつらつとした後ろ姿を見送って、ミレーユは思わずため息をついた。誰に確かめずとも、人一倍働き者だということはわかっている。
(もっとおいしいもの食べたり遊びにいったりすればいいのに……。それもこれも、うちがしがないパン屋だから……)
ミレーユはぐっと拳を握った。
(待っててね、ママ、おじいちゃん。あたしは絶対に『オールセン』をシジスモン一のパン屋にしてみせるわ。パパからもらったこの商才で!)
心の中でいつもの決意を熱く言い放つと、ミレーユはふたたびペンをとった。
五番街区はもちろんのこと、他の街にも同業者はたくさんいる。母と昔なじみというおじさんたちはミレーユをかわいがってくれるが、頂点にたつためには心を鬼にしなければならない。情けは無用だ。
(今のままでいいってふたりとも言ってるけど、商売をやるからには上を目指さなきゃ。シジスモンを
かぎりない未来を
少しくすんだ深い青。金の飾り
もう一本の持ち
(……だめだ。浮かれてる場合じゃないんだったわ)
ミレーユの家族は祖父と母のみである。異国の
そしてもうひとり。母からは金茶色の髪、亡き父からは
名をフレデリックという彼は、六歳の時に隣国アルテマリスのとある名士の養子になった。
といってもそこで兄妹の
その彼が最後に手紙をくれたのは──
それを読んだときのショックは大変なものだった。頭の中が真っ白になり、食事はのどを通らず、母に
(やっぱり、養子先で苦労してるんだわ!)
最初に思ったのはそれである。
養子に行った直後に彼は髪を金色に
そしていま、恋に傷ついた彼は妹であるミレーユに助けをもとめてきた。他に頼れる人は誰もいない、ひとりぼっちなのだと。
養子にいって十年がたつのに、彼の新しい家族は、彼の支えにはなってくれなかったのだ。
(かわいそうに──!)
いつも明るい兄を知っているだけに、余計に
ミレーユは迷ったすえ、手紙の件を秘すことに決めた。その代わりめずらしく弱気になっている兄にハッパをかけてやろうと思い、「そんなに好きな相手をあきらめちゃうなんて、それでも男なの? しっかりしなさいよ」といった内容の返事をしたためて早々に送ったのだが──それきりなしのつぶてなのである。
返事がくるのにこうも時間の空くことなどこれまではなかったことだ。しかもあんな手紙をもらった後である。おかげでこの二ヶ月の間、悪いほうに想像力をたくましくしては
(ほんとに……フレッドったら、いったいどうしたんだろ……)
せめて無事であるということだけでもわかれば、すこしは安心できるのに。
そう思ったとき、店の扉が開いて入り口のベルが
「あ、いらっしゃい、ませ……」
ミレーユはとっさに笑顔を向けたが、
軽くかがむようにして入り口をくぐった長身の客は、冬物らしい重ったるい
(旅人かしら。めずらしい……)
思わずまじまじと見つめてしまう。五番街区は宿場街から離れているから、旅人が立ち寄ることはめったにない。だから余計に異質に思えたのかもしれない。
そういえば祖父に客がくるということだったが、この人のことだろうか、と思ったとき、
「失礼──」
意外に若い声で旅人が言った。
「オールセン様のお宅は、こちらですか」
帽子をとり、軽く頭をふってこちらを見る。ミレーユはぽかんと口を開けた。
旅人は、身なりの
明るい
「……あの?」
ふしぎそうな顔で見つめ返され、つい
「ええ、そう、オールセンはうちです。どちらさまですか?」
赤面しながらいそいで答えると、彼は目元をなごませて
「あなたがミレーユさんですね。たしかにフレッドとそっくりだな」
声には親しみがあふれている。ミレーユが目を丸くすると、彼は礼儀正しく名乗りをあげた。
「申し遅れました。ベルンハルト家の使いの者で、リヒャルト・ラドフォードといいます」
ベルンハルトといえばフレッドの養子先だ。使者だという彼の名前もアルテマリス風だし間違いないとは思うが、その家の使いが訪ねてくるなど初めてのことである。
ミレーユはさらに驚きながらも不安になった。フレッドに何かよからぬことがあったのかと思ったのだ。
しかし彼が次に発した言葉は予想外のものだった。
「あなたをお迎えにまいりました。ミレーユさん」
「……あたし?」
「大変申しわけありませんが、
フレッドの養子先の使者がなぜ自分を迎えにくるのか。わけがわからず、思わず
「あの、ちょっと待って。奥におじいちゃんがいますから、呼んで──」
「いいえ」
思いもかけないすばやさで
「ダニエルさんにはもうお話は通っていますから、ご心配なく」
「……」
ミレーユは彼を見上げたまま、ごくりとつばをのんだ。
(話って……一体なんのこと……?)
ベルンハルトの使者が、祖父に何の話をしたというのだろうか。そして自分をどこに連れて行くつもりなのか。
──そもそも彼は、本当にベルンハルトの使者なのか?
「おじいちゃん!」
急に怖くなってミレーユは
店と直結した作業場にいる祖父にも、当然このやりとりは聞こえているはずだ。それなのにちらりとも気配すらみせない。奥は
「おじいちゃんってば! ねえ──」
しかし叫びは途中でとぎれた。いきなり腕を引き寄せられたのだ。
ひっと息をのみ、ミレーユは
「……しょうがない。絶対に連れて来いと
言うが早いか、ミレーユの
「非礼の責めは、後でいくらでも受けますから」
そのあざやかな動きにとっさに反応できず、ミレーユはぎょっとして間近に
「ちょっ……なにすん……」
「口、開けて」
「くち?」
思わず
「かわいい
「……は……?」
うぶな小娘の平常心を吹っ飛ばすには
「─────ッ!!」
流れ込んできた
「いやああぁっ!! なにこれっ、
「大丈夫。ただの眠り薬です」
「眠り薬!?」
「
「な……」
いきなり薬を
ミレーユは
(──え? ちょっと。うそ……!)
ぐらりと大きく視界が
(即効性にもほどがあるでしょーっっ!?)
そう心の中で
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