序章 兄からの手紙



親愛なる妹へ


 やあ、ミレーユ。ひさしぶりだね。

 元気かい? とくまでもなく、毎日元気にパン生地きじを棒でぶったたいているだろうね。かわいい妹がすこやかなのは、兄のぼくにとってこのうえなくうれしいことだ。たとえうで筋肉きんにくモリモリになってしまっても、ぼくはきみを見捨てないから、安心するように。

 けれどミレーユ、そんな爛漫らんまんなきみとは裏腹に、兄の心はしずんでいます。まるでこの世の終わりをむかえたかのような、そんな気分で日々を過ごしています。

 ああ、すまない。突然こんなことを言い出して、びっくりしただろうね。でもぼくには、この苦しみを打ち明けられる人がいないんだ。きみ以外にだれひとりとして。

 同じ日にこの世に生をうけてから早十六年。ぼくもきみも、大人おとなとよばれる年齢ねんれいになった。離れ離れに暮らしていても、双子ふたごのきみとは通じ合っているつもりだ。きみならきっとこの苦しみをわかってくれると信じて、ぼくは思い切って打ち明ける。おろかな兄のなげきを聞いてくれるかい。

 ぼくはね、ミレーユ。恋をしているんだ。命をかけてもいいと心から思える、運命の女性にめぐりあってしまった。そしてその出会いをうらめしいとさえ思うほどに、彼女がいとしくてたまらない。くるおしい想いをかかえて、いまにもむねがつぶれそうになっているんだ。

 ああ、きみの驚く顔が見えるようだな。こんな話、いままでしたことがなかったものね。

 彼女と出会って、ぼくは大人になってしまったんだ。人を愛するということは痛みをともなうものなのだということを、知ってしまった。もう、なにも知らなかった子どものころには戻れない。この気持ちがわかる日がきっといつかきみにもおとずれるだろう。きみだけは何も知らないままで、ずっといてほしいけれど。

 ああ、もう。混乱して、なにを書いているのかわからなくなってきた。頭がおかしくなりそうだよ。どうしたらいいんだろう。

 ぼくの愛するあの人は、もうすぐ他の男と結婚してしまう。そしてぼくはそれを止めるだけの力を持っていない。だまって見ているしかできないんだ。

 こんな運命、耐えられない。彼女と結ばれないのなら、生きている意味がない。いっそ死んでしまいたい!

 ぼくは神をのろうよ。ぼくと彼女をめぐりあわせ、いたずらに引きいた運命の神を。

 もしもこの絶望の海から救い出してくれるのならば、悪魔あくまたましいを売ってもいいとさえ思う。

 おそろしいことを言っているのはわかっているよ。そして、意気地いくじのない負け犬の戯言ざれごとだということも、わかっているんだ。

 ぼくはうちひしがれている。きっともう立ち直れない。そのうち、ほんとうに狂ってしまうかもしれない。でも、心のどこかでそれを願っている自分がいる。

 愛する妹よ、ぼくを助けてくれ。

 グリンヒルデの街角で、ぼくはひとりぼっちでふるえている。きみ以外に支えとなってくれる人は、誰ひとりとしてこの世に存在していないんだ。

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