Secret Touch

六笠はな

Secret Touch

窓から吹き込む秋風や、

校庭から聞こえる部活動の掛け声が僕の心を優しく撫でてゆく。


『深山〜、聞いてる〜?』

あまりに穏やかな時間の中で微睡んでいた僕を、ピアノの椅子に腰掛けた谷が不機嫌そうな顔で見つめていた。


合唱コンクールで半強制的に指揮を任されることになった僕は、唯一クラスでピアノを弾くことができる谷と放課後に練習をしていたのだ。


『本番までもう1週間しかないんだからしゃんとしろよな!』


谷はいつもこうで、何かと怒っているかのように見えるが、

彼の奏でる旋律はとても暖かく繊細で聞き惚れてしまう。

音符も読めない僕はピアノの技術云々について詳しくないが、とても好きな音だ。


『ごめんごめん。で、なんだっけ』


『なんだっけじゃねぇの。だからお前はCメロの入りの振り間違ってるんだって』


谷とは今までほぼ話したことないような間柄で、この合唱コンクールで初めてまともに会話をした。

彼は友達が多いような人間ではなさそうで、誰かと一緒にいる印象があまりない。

授業中だって居眠りをしたり、どこかの部活動に入っているわけでもなさそうで、簡潔にまとめると不思議な人間だった。


だが実際の彼は、怒りっぽくて、とてつもない集中力があって、美しい音を奏でる人間だった。


放課後ということを除いても、彼とふたりで過ごす音楽室が何故か心地が良かった。


キーンコーン、カーンコーン

無機質なチャイムが学校中に18時になったことを知らせる。


『んじゃ、そろそろ帰るか』


うん、と呟くと荷物を纏めて一緒に校舎をあとにした。


偶然にも帰る電車が一緒だったことを初めて知り、共に電車に乗った。


『深山ってさ、進路とか決めてんの?』


珍しく低いトーンで話しかけてきた谷に驚き、目線を合わせようとすると、彼は陰がかかったような表情で電車の車窓を見つめていた。


『うん、東京の大学に行こうと思ってる』


『そっか、お前頭いいらしいもんな〜』


『谷は?どうするの?』


『ん〜。迷ってる。というか迷わされてる?』


不穏なニュアンスを含みながら、言葉と裏腹に呆れるように笑っていた。


なにかあったのか、と聞こうとした時、電車は谷が降りる駅に着いたことをアナウンスした。


『んじゃ、また明日な』


なにか大きな不安を抱えているような谷への心配が胸に積もる。

それをどうしたい、とか彼を助けたいとか、そんな根拠があったのかは分からないけれど、

気づくと体は勝手に電車を降りていた。


『谷!』


急な呼び掛けに目を丸くしたような様子でこちらを見つめていたが、僕の気持ちを察したのか、また呆れたように微笑んだ。


その後、駅の近くの公園で谷と話をした。

谷の両親は音楽家であり、その為幼少期からピアノをレッスンを受けてきたらしい。

谷は昔からピアノが大好きだったが、父親が厳しい人柄で、年々厳しくなるレッスンのせいで大好きなピアノを弾くことが辛くなってきたという。


そんな中で、いつの間にか幼い頃ピアノに感じていた愛情がなくなっていることに気付いたらしい。


『アイツら俺が音大に通うに決まってるっつう口振りで話してくんのが辛くなってきてさ。

プレッシャーなのかわかんねぇけど、ピアノの前に立つと手が震えちまって、最近まともに弾けねーんだよ』


そのセリフにハッとした僕は、合唱コンクールもそこまで無理しなくてもいいんじゃないかと伝えた。

そんなに辛い思いをしているとは全く、これっぽっちも知らなかった。


けれど、不思議そうな顔をして谷は呟いた。


『根拠はわからねぇけど、お前がタクト握ってるの見ると手が震えねぇんだよな。なんでだろ』


自分の鼓動が聞こえた。

その言葉に他意があるとは思えないが、それでも嬉しかった。


そんな表情を奥底にしまい、それでも無理しない方がいい、と呟こうとしたことがバレていたのか、谷はまた呆れたように笑ってこちらを見た。


『大丈夫だって!むしろ伸び伸び弾けて楽しいんだよ。結局ピアノは好きらしいわ』


ははは、と笑いながら空を見上げている谷は、先程より少しだけ柔らかい表情をしていた。


『あー、でもなんか多少楽になったわ。勝手にしゃべりまくって悪かったな。』


『それならよかったけど...でもさ』


『ん?』


カバンを背負って立ち上がろうとする谷は振り返る。


『俺、谷のピアノ好きだよ。すごく。』


ぷっ、と谷は吹き出す。

笑われるようなことを言ったつもりは無かったので慌ててしまう僕。


『音符も読めねぇやつがよく言うわ!』


急な毒舌に、いつもの谷が戻ってきたと安堵した。


その後、一呼吸おいて


『でも、ありがとな。』


こちらを振り向かないので、表情は見えないままだけれど、初めて嬉しそうな谷の声を聞いた。



それから合唱コンクール本番までの数日間、僕たちは練習を重ねた。

あれ夜みたいに谷のことを話すことは無かったけど、確かに僕達はお互いを特別だと感じていたと思う。


億劫だった学校も、放課後の練習が少し楽しみになり、相変わらずの毒舌も、美しい旋律も含めて幸せな時間だった。


そしてついに、コンクール前日。

クラス全員での練習が終わり、いつも通り2人きりで音楽室に残っていた。


『深山もだいぶそれらしくなってきたな。』


『それらしくってなんだよ、それらしくって。』


和やかな雰囲気に包まれる中で、僕は明日から谷のピアノがきけなくなってしまうのかと思うと、言葉で言い表せないような切なさを感じていた。


キーンコーン、カーンコーン。


『もう6時か...。深山が良けりゃそろそろ帰るか』


『あのさ、谷。』


『ん?まだなんかあった?』


『最後にさ、最後に。』


『谷のピアノもう一度聞かせてよ。』


『.....』


沈黙が流れる。

谷が、ピアノを弾くことすら辛くて、これからの不安に押しつぶされそうなことはわかっていた。

けれど、それでも。

最後に耳にあの旋律を焼き付けておきたかった。


僕が真剣な表情をしていたのか、それを見た谷は鞄を置いてピアノの前に座った。


『いいよ。とっておき聞かせてやる。』


すぅっと深呼吸した後、その細くて白い指を鍵盤に添える。


音をひとつずつ確かめ、自分の輪郭を探すようにゆったりと鍵盤を弾ませる。


クラシック曲に疎い僕ですら知っている曲だ。


ドビュッシーの月の光。


夕日に照らされた音楽室に、美しくも切ないメロディが響き渡る。


谷はとても幸せそうだった。

時折目を瞑り、まるで夢の中を揺蕩っているようだった。


その姿に僕は心を奪われた。

あんなに強がっていながら、心には大きな不安を抱えて、それでもやっぱりピアノが大好きで、


そんな谷がとても大切に思えてしまった。


胸がぐっと苦しくなる。

自分の感情の名前も知らないまま、僕はそれを抱えていた。


そして残酷にも、幸せな瞬間は終わりを迎えた。


『どうよ』


『うん。やっぱすごく好きだ。』


『何言ってんだよ。知らねーだろこの曲』


『知ってるよ。月の光』


『お、よく知ってんな!昔からこれが好きでさ。よく弾いては、親父に説教喰らってたわ。あーだこーだうるさくてかなわん。』


『でも、だからこそこんなに綺麗なんじゃないかな』


『そうかな。』


『そうだよ。』


『そっか。』


『......やっぱさ、』


『ん?』


『ピアノ続けなよ』


『なんだ急に』


『俺ほんとにそう思ったんだ、今』


『あっそ』


『うん』


『....なんだよ!目が本気でこえぇよ!』


『本気で思ったから』


『わかったわかった。まぁ考えとくわ』


『うん。ありがとう。』


『んじゃ帰るぞ』



そして当日。

賑わう体育館でコンクールは行われた。

同じクラスの生徒を含め多くの生徒が、コンクールのせいで授業がなくなったことにはしゃいでいた。


恐らくコンクール自体に興味がある人間の方が少ないのだろう。

僕だってその1人だったから。


そしてコンクールも中盤に差し掛かると、僕たちのクラスの出番となった。


ゾロゾロとステージに向かう人の波をぼーっと見ていると、後ろから背中をぽんっと叩かれ振り向いた。


そこにはステージを見つめる谷がいた。


『もしかしたらこれが最後になるかもしれねぇな〜、ピアノ弾くの。』


『うん、そうだね。』


僕もステージを見つめながら答えた。


『最後の曲はお前にやるよ』


『え?』


『お前のために弾いてやる』


驚いて谷を見つめても、谷は目を合わせようとしなかった。


『こんな学校内の賞とかそーゆうのは興味ねぇしな!ほら、いこうぜ』



それからのことはあまり覚えていなかった。

あっという間に僕たちの出番は終わり、流れるようにコンクールは進んでいった。


唯一覚えているのは、指揮者賞、伴奏者賞ともに僕たちのクラスが受賞したことだ。


あんなに賞には興味が無いと言っていたのに、僕が賞をもらったことを誰よりも喜んでいたのは谷だった。

いつもの呆れたような笑顔なのに、心做しか泣きそうな表情をしていたように思ったことは僕の中にしまっておいた。


それから、僕と谷が関わることは徐々に無くなっていった。

すれ違うと声をかけることはあったが、2人きりで話すことや、谷のこれからの話や、彼が奏でるピアノのメロディを聞くことはなかった。


彼がこれからもピアノを続けることはできるのか、高校を卒業したあとどんな進路を進むのか、とても気になりはしたが、何故かそれを切り出すことが出来なかった。


そして、いつの間にか25歳になった。

僕は高校卒業後、志望校に無事合格して大学生となり、現在は東京で社会人1年生としてとある企業に勤めている。


社会で働くことは本当に大変で、毎日疲弊した日々を送っている。

そんな時、どこから電話番号を仕入れたのか谷から連絡が入った。

何やらピアノのコンサートを開くらしく、その招待の連絡だった。


まず彼がその後もピアノを続けていたことに驚いたが、それよりもあの大きな会場でコンサートを開けるようになっていたことに仰天した。


もちろん二つ返事で快諾し、その後少し雑談をした。


何故かコンクールが終わったきり疎遠になっていたことをふたりで笑い、食事にいく約束もとりつけた。


久しく思い出していなかった、宝物のようなあの頃の記憶がふと甦る。


また彼に背中をぽんっと叩かれたような気持ちになり、僕は少し嬉しくなった。


終わり

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