愛に恋する物語

鈴谷なつ

第1話



 僕の好きな人は、学校で一、二を争う美少女だ。でもそんな彼女には、欠点がある。

「アーイちゃん、デートしよ」

「いいよぉ。アイス食べに行きたいなぁ」

 そう、多田愛は恋多き乙女なのだ。

 来るもの拒まず、去るもの追わず。付き合った男は数えきれないほど多く、どの恋も短命に終わっている。

 それでも多田さんにファンが多いのは、可愛いからという理由だけではない。その癒し系とも言えるのんびりとした雰囲気や、クラスでも目立たないグループに位置する僕のような存在にも気軽に声をかけてくれる優しさ。そしてちょっぴり天然なところも人気の理由の一つだろう。

 そんな多田さんが、今フリーだという情報を仕入れ、僕はついに告白を決意した。

 来るもの拒まず、というならば、冴えない僕にもチャンスはあるはずだ。今日の放課後、告白するぞ。そんな強い意志を胸に抱き、僕は勇気を出して多田さん! と声をかけた。

「はい、なんですか?」

「えー? なあに?」

 すると、同時に振り向く女子二人。学校で美少女ツートップと言われる太田清香さんと、多田愛さんが同時に振り向いたのだ。漢字は違うけれど、同じオオタという苗字なので、二人とも反応してしまったのだろう。

 美女と呼ぶのにふさわしい大人っぽい美人の清香さんと、少女のあどけなさを残した可愛らしい愛さん。そんな二人に同時に視線を送られ、僕は焦ってしまう。

 後ろから声をかけたからいけなかったのだ。一番後ろの席の愛さんだけでなく、その一つ前の席の清香さんも不思議そうな顔でこちらを見ている。

「え、えっと、ごめん! 用があるのは、その、サヤカさんじゃなくて、」

 僕の言葉に清香さんはなぜか目を丸くしてこちらを見つめた後、前に向き直った。「私?」と首を傾げるのは、いつ見ても可愛らしい、愛さんだ。

「あ、あの、放課後……」

「うんうん」

 思わず声の小さくなる情けない僕だが、愛さんは気にした様子もなく、やわらかな声で応えてくれる。その相槌に勇気をもらい、意を決して言葉の続きを口にした。

「僕に時間をくれませんか……!」

「いいよぉ」

 即答。告白慣れしているだけあって、きっと用件はすぐに分かってしまっただろう。それでも嫌な顔ひとつせずに答えてくれる愛さんの優しさに、きゅんとしてしまう。

 しかし、幸せはそう長くは続かない。

「あっだめだ、今日はアイス食べに行くんだった」

 まるで天国から地獄。他の男とのデートを示唆するその発言に、足元がぐらつくような感覚に襲われる。もしかして、遠回しに振られたのだろうか、とネガティブな考えが頭を過ぎると、愛さんが上目遣いに覗き込んできて、だいじょーぶ? と首を傾げる。こくこくと慌てて頷くと、愛さんは可愛らしく笑ってみせた。

「だからね、明日の放課後でもいーい?」

「も、もちろんです!」

 吃りながら答える僕に、分かったぁ、と間延びした声で応える愛さんは、今日も世界一可愛かった。

 こんな短い会話を交わしただけで、今日一日幸せな気分で過ごせる。しかも、明日の放課後にはついに念願の告白が出来るのだ。

 願わくば、今日の放課後のうちに、愛さんに彼氏が出来てしまうなんてことになりませんように。祈るような気持ちでそんなことを思いながら、僕は自分の席である清香さんの隣に腰掛けた。


「小島くん、ちょっといいかしら」

 太田清香さんに声をかけられたのは、お昼休みに入ってすぐのことだった。清香さんとは隣の席だけど、ほとんど話したことはない。朝少しだけ言葉を交わしたけれど、それが初めてと言っても過言ではないくらいだ。

 驚いて何? と答えを返すよりも先に、僕の後ろから女子の賑やかな声が飛んできた。

「キヨカちゃーん、フトシなんて放っておいて、お昼ご飯食べに行こうよ」

「小島さんの名前はフトシじゃなくてタイシでしょう。クラスメイトの名前くらい覚えなさい」

 清香さんに叱責されたのは、いつも清香さんと一緒にいるクラスメイト、山崎さんだ。小島太志という名前のせいで、フトシ、と呼ばれることが多い僕だが、本当はその呼び名が気に入っていない。

 クラスメイトのほとんどはフトシが本名だと思っているだろうが、タイシ、という呼び方が正解なのだ。気の弱い僕はそれを訂正できないまま、高校三年になってしまい、すっかりフトシという呼ばれ方で定着してしまったのである。

 だからこそ、清香さんの言葉に僕は驚いた。僕の名前をちゃんと認識してくれている、たったそれだけのことなのに少しだけドキッとしてしまう。

「どうしたの? 太田さん」

「……私、あなたに興味があります。小島さん、私と付き合ってくれませんか」

「…………っ、えええええ!?」

 コミックもびっくりの突然の展開に、僕は驚きの声を上げる。清香さんの友人の山崎さんも、信じられないという目で僕と清香さんを見比べている。

 それもそのはず。小島太志といえば、クラスでも目立たない平凡な男子生徒。フトシなんてあだ名で呼ばれても訂正すらできない気の弱い男で、勉強も運動もそこそこ。

 対する清香さんは容姿端麗、頭脳明晰。まさに才色兼備だ。大人っぽい美人だから近寄り難い雰囲気はあるものの、クラスどころか学校中にファンのいる存在なのである。

 そんな清香さんが、僕に告白? 聞き間違いだろうか。目を丸くして固まる僕を差し置いて、清香さんの友人である山崎さんが、あろうことに愛さんに話題を振った。

「ええー、キヨカちゃん本気? ねぇ、アイちゃんもびっくりだよね?」

「んー? うん、キヨカちゃんが恋愛に興味あるとは思わなかったなぁ」

「恋愛に興味があるんじゃありません。小島さんに関心があるんです」

「……それって違うこと?」

「天と地ほど違います」

 恋愛がしたいからお付き合いをするのと、人を好きになってお付き合いをするのでは、全く意味合いが違うでしょ。と正論を吐く清香さんに、愛さんは首を傾げる。

 それもそうだろう。告白されればとりあえず付き合う、というスタンスの愛さんは、きっと前者だ。恋愛に興味があるから付き合う。付き合ってから、きっと相手のいいところを探していくタイプなのだ。

 清香さんは正反対で、好きになった人としか付き合えない、そんな性格なのだろう。そこまで分析して、じわじわと頰が熱くなるのを感じる。

「えっ、関心があるって、その、」

「そうだよ! キヨカちゃん、フトシのこと好きなの!?」

「だから小島さんの名前はフトシじゃなくてタイシです。…………好きか嫌いかと言われれば、たぶん好きです」

 小島さんのこと、と小声で付け足されたそれに、僕の心臓は早鐘を打つ。学校内でもファンの多い清香さんの突然の告白に、教室内はパニックになっていた。

 渦中の清香さんはといえば、周りの騒ぎは我関せず。真っ直ぐに僕だけを見つめている。

「小島さん、返事を聞かせてください」

 こんなときでも凛とした声で話す清香さんに、ドキドキが止まらない。だけど、ヘタレな僕の口から出た言葉は、お断りの返事ではなく、考えさせてください、という情けないものだった。

 その答えを複雑そうな表情で、愛さんが聞いていることも知らずに。


「アイちゃん。約束のアイス、食べに行こう」

 放課後。朝一番に愛さんをデートに誘っていた他のクラスの男子が、開口一番にそう言った。

ちらりと斜め後ろを盗み見ると、愛さんはどこかぼんやりした表情を浮かべている。最後の授業は数学だったから眠たくなってしまったのだろうか。ぼーっとしている愛さんも可愛いな、となんて考える頭を慌てて横に振る。

 愛さんのデートのことも気になるけれど、それより清香さんのことを考えなくてはいけない。明日の放課後、愛さんに告白するまでに答えを出さなければ。告白をされたのは初めてなので、何て答えを返せば清香さんを傷つけずに済むのか分からない。そもそも、愛さんにはまだ告白していないのだから、清香さんと付き合ってみるのもありなんじゃないか? と最低な考えが頭を過ぎる。それほどまでに魅力的なのだ、太田清香という女性は。

「小島さん」

 いや、でも僕は愛さんが好きで、振られてもいいから告白するって決めたじゃないか。こんな気持ちを抱えたまま、清香さんと付き合うなんて出来る訳がない。そんなことをすれば、普通にお断りするよりもずっと清香さんのことを傷つけることになるに決まっているのだ。

「小島さん」

 二度繰り返し呼ばれ、ようやく自分の名前を呼ばれているのだと認識した僕は、慌てて顔を上げる。目の前には隣の席の清香さんが立っていて、カバンをぎゅっと握り締めながら、何かを言いたげにしている。

「あ、あれ。太田さん、どうしたの?」

「その……小島さんが多田さんとお約束しているのは、明日の放課後ですよね」

「えっ? そうだけど」

 愛さんとの約束、という言葉にドキッとする。告白だとバレてしまっているだろうか、バレていないといいな、だなんて浅ましい考えが頭を過った。

「それなら、その……」

 太田清香は元来はきはきした性格だ。頭のいい人なので、喋り方にも自信が滲み出ていて、そこが魅力的でもある。そんな清香さんが珍しく言い淀んでいるものだから、僕は首を傾げてどうしたの、と問いかけた。

「き、今日は私と一緒に帰ってくれませんか……!」

「っ! ぼ、僕で良ければ、喜んで…………」

 ああ、神様仏様。

 愛さんという心に決めた女性がいるにも関わらず、清香さんの誘いに即答してしまった僕を、どうか許さないでください。

 慌てて帰宅準備をしていた僕は、気がつかなかった。斜め後ろの席で、大好きな人が「今日アイスの気分じゃなくなっちゃったからまたあとでね」と、デートの誘いを断っていたことを。


「…………」

「…………」

 校門前から長い沈黙が続いていた。

 誘ってきたのは清香さんの方だけど、男の僕から話しかけるべきなのかもしれない。それでも共通の話題が見つからず、口を開いては閉じ、ということを繰り返していた。

 道中、男子生徒からの刺すような視線が気になったが、横を歩く清香さんは気にした様子もない。きっと見られるのは慣れっこなのだろう。

 僕のような冴えない男が、清香さんのような綺麗な人の隣を歩くのはひどく不釣り合いな気がして、思わず歩みが遅くなる。すると、清香さんがはっと何かに気付いたように足を止め、申し訳なさそうに眉を下げた。その表情するも絵になるくらい綺麗なものだから、僕は思わず唾を飲み込んだ。

「ごめんなさい。緊張してしまって、歩くのが速くなってしまって」

「えっいいよ、全然大丈夫。……緊張? してるの? 太田さんが?」

 絶対に僕の方が緊張している、それもがちがちに。思ったままに口にすると、清香さんは驚いたように目を丸くし、首を傾げた。

「好きな人と一緒に帰るなんて、初めてですから……。でも、小島さんはどうして緊張しているんですか?」

「だって太田さんみたいに綺麗な人と並んで歩くの初めてだし……!」

 言葉にしてから、しまった、と思ったけれどもう遅い。じわじわと赤く染まる清香さんの頰。そして、トマトのような色になっているであろう僕の頰。

 好きな人、と清香さんは口にした。その響きがあまりにもきらきらとしているものだから、ドキドキが止まらない。

 あの太田清香さんが、僕のことを好き?

 改めて言葉にされると、夢のように思えてしまう。清香さんは僕のような人間とは別世界の住人だと思っていた。それが、どうして僕なんかを、と思い、はたと足を止める。そうだ、どうして急に告白なんてされたのだろう。好きだと言うからにはきっときっかけがあるはずだ。でも、僕と清香さんはほとんど話をしたことがない。それなのにどうして。

 真面目な清香さんのことだから、僕のことをからかっているわけではないだろう。でも、理由が分からないのだ。

 口にするのは気恥ずかしい。それでも気になって、僕は口を開いた。

「あの……どうして太田さんは僕なんかを、……好きだって言ってくれるんですか」

 その質問は、清香さんの目を丸くさせた。大きな瞳がじっと僕を捉えて離さない。そしてしばらくの沈黙の後、清香さんは静かに口を開いた

「名前です」

「えっ?」

「小島さんは私の名前を呼んでくれたから」

 それは予想もしていない答えだった。

「みんな、私のことをキヨカと呼ぶんです。愛称だと分かってはいるんですが……サヤカという名前は亡くなった母がくれた、最後のプレゼントなので」

 小島さんが呼んでくれて嬉しかったんです、と清香さんは笑った。

 知らなかった。清香さんのお母さんが亡くなっていることも、キヨカちゃんと呼ばれることを気にしていることも。誰かがなんとなく呼び始めて、周りに浸透していったのかもしれない。周りの空気が悪くなるのを嫌ってか、清香さんはわざわざ訂正しないから。愛称だと認識しているのが、その何よりの証拠だろう。

 僕と似ている、と思った。僕がフトシという呼び名を嫌って、訂正出来ないのは気が弱いせいだけど、本名を呼んでもらえることが嬉しいと思うところは清香さんも僕も同じだ。

 そういえば、清香さんは僕のことを、フトシじゃなくてタイシです、と訂正してくれていたっけ。

 思い出して、胸のあたりがむずむずとするような感覚に襲われる。僕みたいな地味で取り柄のないクラスメイトの名前を、清香さんはちゃんと覚えていてくれたのだ。

「…………僕も一緒だよ」

「え?」

「太田さんに……太志って呼ばれてドキッとしたんだ、本当は」

 なんて、告白の返事をする前にこんなことを言うのはずるいね。そう言って笑うと、清香さんは綺麗な顔を歪めて、泣き出しそうな表情をしてみせた。それから、そうですよ、ずるいです、と僕の手に触れる。初めて触る女の子の手は、驚くほど小さく、か細くて、少しだけ震えていた。


 翌日、僕の頭は清香さんのことでいっぱいだった。初めて女の子に告白された、そして手まで繋いでしまった。その事実で胸がいっぱいで、一睡もできなかったのだ。

 今日の放課後には愛さんへ告白する。それなのに、頭の中は清香さん一色。せっかく勇気を出して放課後の約束を取り付けたのに、これではどうしようもない。

「おはよぉ、小島くん」

 間延びしたやわらかい声が、僕の名前を呼ぶ。どきんと大きく心臓が跳ねて、振り返ればそこにはずっと好きだった人、多田愛さんがいた。

「お、おはよう多田さん」

 綺麗に裏返った声で返事をすると、愛さんはにこやかに笑みを浮かべて、席へと座った。

 隣の席では、そんな僕の姿を見て不安気な表情を浮かべる清香さんがいる。たったそれだけのことなのに、どきっとしてしまう僕は、とても単純なのかもしれない。

「おはよう、太田さん」

 清香さんの目を見て挨拶をすると、彼女はホッとしたように表情を緩め、おはようございます、と笑い返してくれた。

 それから読んでいた本に再び目を落とすけれど、清香さんの口元は緩んだままだった。そのことに気がついてしまえば、たまらなく彼女が愛おしく思えて、僕は一つの決意を胸に抱き、放課後を待った。


 放課後になると、僕はバクバクうるさい心臓をなだめながら、愛さんを屋上へ連れ出した。そして、昨日からずっと考えていた告白を、口にすることにした。

「多田マナさん! ずっと好きでした……!」

「………………えっ、過去形?」

「っ、僕、ずっと多田さんのことが好きで、いつか告白しようと思ってて」

「うん」

「でも、気になる人が出来ちゃったんです」

キヨカちゃんのこと? と愛さんが首を傾げる。

 黙って頷くと、キヨカちゃんはいい子だよねぇ、と愛さんがのんびりした口調で言う。

「私ね、告白されたら付き合ってみるの。だってもしかしたらその人が運命の人かもしれないし、すっごく好きになれるかもしれない」

「え? は、はい、知ってます」

 恋多き乙女、多田愛。名は体を表すとは、愛さんのためにあるような言葉だ。でもね、と愛さんが言葉を続ける。

「初めてのちゅーとか、初めての……えっちとか。そういう大事なものは、取っておくって決めてるんだぁ」

「っえ!?」

 思わず声が裏返ってしまったのも無理はない。予想もしないことを、愛さんが突然口にしたからだ。

 あんなに男の人と付き合って、恋人を取っ替え引っ替えしていた愛さんが、ファーストキスもまだだなんて、誰が想像出来ただろう。恋多きところだけが愛さんの欠点だと思っていたけれど、その欠点は意外な形で補われていたのだ。

「取っておく、って……さっき言ってた、運命の人に?」

 だとしたら、ロマンチストだ。少し失礼だけど、愛さんは恋愛に理想なんて抱いていないと思っていたから意外である。素敵なギャップにドキドキとしていると、違うよぉ、とのんびりした口調で否定される。

「私のこと、アイちゃんじゃなくて、マナってちゃんと呼んでくれる人」

 今度こそ、大きく心臓が跳ねた。

 昨日の清香さんに、似ている。愛さんも本名であるマナではなく、アイと呼ばれることが多い。本人も普通に返事をしているから気に入ってるのかと思っていたけれど、違ったのだろうか。

「ううん、アイちゃんって呼び方はかわいいから気に入ってるよ」

 問いかけると、速攻で否定された。だけどね、と愛さんは言葉を続ける。

「私のことを好きになってくれる人には、ちゃんと名前で呼んで欲しいじゃない? ……タイシくんも、そう思わない?」

 上目遣いに投げかけられた質問。口から心臓が飛び出してしまいそうなほど、ドキドキしている。

 清香さんだけじゃなく、ずっと憧れていた愛さんにも名前で呼んでもらえた。フトシじゃなくて、タイシ、と本名で。

 泣き出しそうなくらい嬉しくて、どうしていいか分からない。今日、この場所に来るまでは、この告白は気持ちに区切りをつけるためにしようと思ってきたのだ。清香さんと付き合おう、そう決めてきたのに。

 また愛さんにドキドキしている自分がいる。どうしようもないくらい、ときめいてしまっている。

「……私、キヨカちゃんとはお友達だし、今日の太志くんの告白は断ろうと思ってたんだぁ」

 基本、来るもの拒まずなんだけどね、と自虐的に笑う愛さんが、言葉を続ける。

「でも、太志くんがマナって呼んでくれたから、気が変わった」

 今は気持ちがキヨカちゃんに向いてるとしても、絶対また振り向かせてみせるよ。とやわらかく笑う学校一の美少女に、ときめくなという方が無理がある。

「私のこと、もう一回好きになってね」

 そんな言葉を投げかけられて、僕の頭は見事にパンクし、鼻血を出して倒れるという大失態を犯したのだった。


「だ、大丈夫ですか!? 小島さん!」

 放課後の閑散とした教室に戻ると、そこには清香さんが本を開いて待っていて、僕に駆け寄ってきた。情けなくも鼻血を出した僕は、愛さんに借りたハンカチで鼻を押さえていた。けれどそれがあまりにもいい匂いなものだから、一向に血が止まる気配がなくなってしまったのだ。

 心配して走り寄ってきた清香さんは、わたわたと珍しく慌てた様子でティッシュを取り出すと、血で汚れていたらしい頰を拭ってくれた。それから後ろを歩いてきた愛さんと僕を見比べて、一歩だけ身を引いてみせた。

「あ、あの……失礼ですけど……どうなったのか、聞いてもいいですか」

 当然とも言えるその問いに、僕は愛さんと顔を見合わせ、二人で首を傾げる。それから先に口を開いたのは愛さんの方だった。

「うーんと、太志くんが私に告白してくれて、でも過去形で、今はキヨカちゃんのことが気になってるらしいんだけど、私も太志くんのことを好きになっちゃったから、これからアピールするよぉってところ?」

「な、なんですかそれは……!」

「ご、ごめんね。僕もよく分かってないんだけど」

「私のこと、気になってくれてるんですか……?」

 おずおずと問いかけられた言葉に、僕は頰を赤くして頷く。

「でも! 私のことも嫌いになったわけじゃないよねぇ?」

 ずい、と身を寄せてきたのは愛さんだ。それはもちろん、ずっと好きだったのだから、嫌いになんてなれるはずがない。こくこくと頷く僕に、清香さんがぷくぅ、と頰を膨らませる。そんな子供っぽい仕草をする清香さんは初めて目にしたので、ドキッとしてしまう。

「で、でも! お二人はまだ付き合ってはないんですよね!? それなら、スタートラインは多田さんも私も一緒ってことになります」

「むー、そうだけどぉ。……じゃあ、私とキヨカちゃんはライバルだね」

「ライバルなんて、人生で初めてです」

 それから私の名前、サヤカって言うんですよ、と愛さんに告げる清香さんは、少しだけ晴れやかな表情を浮かべていた。

「サヤカちゃん。私のことも、マナって呼んでいいよ」

「…………はい! マナさん」

 どうやら打ち解けた様子の二人のクラスメイト、兼ライバルは、同時に僕の方へ振り返ると、やわらかく、そして美しい笑みを浮かべてこう言った。

「絶対振り向かせるからね、太志くん!」

「覚悟しててくださいね、太志さん!」

 こうして僕の、悩ましいほど幸せすぎる学生生活が始まったのだった。

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愛に恋する物語 鈴谷なつ @szy_piyoko

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