帰宅……?

 後の授業は初回ということもあり、実に退屈で価値のないものばかりだった。

 ノートを取り、話に耳を傾ける。ただそれだけの繰り返し。

 ただ学ぶことが難しくなるんだろうなと、赤点への漠然とした不安だけが今日得られたものだった。


「……はあっ」


 疲れをそのまま表わすように零れるため息。

 流石に授業を聞かぬ訳にもいかず、胸に蟠る疑問を考察しないわけにもいかない。

 だから気合いで両方に行った結果、どっちも中途半端脳だけが疲れてしまったというわけだ。


 ……欠片も笑えやしない。

 自らの低スペックを知っててなお踏み切った俺に、ただただ馬鹿だと呆れるだけだ。


 今日は何度自分に呆れたのだろうか。

 歴代でも上位に入るのではないだろうか、何の価値もないので数えてなどいないけどな。


「どーする? 親睦深めっためにもカラオケでも行ってみちゃう?」

「いーねそれ! なるべくたくさん誘おうぜ!」


 帰る準備をしていれば、陽キャ男女が放課後の予定を決めるのが聞こえてくる。

 声の主はマッチョと金髪美少女とその他諸々。……成程、あいつらがこのクラスの中枢になるんだろうな。


 早めに逆らっちゃいけない人達が分かって良かった。クラスの上位関係を知れないのは、ぼっちにとって地雷の場所がわからないみたいなもんだ。

 あの連中にはなるべく近寄らないようにしようと心に決める。俺は君子ではないが、危うきに近寄らずってのが万物共通の生きる術だからな。


「さくらんもどうー? 一緒にカラオケ行かないー?」

「……そうだねぇ。うーん」


 荷物を詰め終わる頃に耳へ届いたのは、伸びた女性の声が春見桜かすみさくらをクラス会に誘う声だった。

 ……ま、当然誘われるよな。

 優れた容姿に毒の無い態度。高校で楽しく暮らせる要素をほとんど兼ね揃えた春見桜かすみさくらが、あの陽キャ共にハブられるなんてことはまずあり得ない。


 もしかしたらと、昨日の帰り道を思い出して淡い期待を抱いた自分が恥ずかしい。

 これ以上ここにいても余計に惨めになるだけだ。とっとと帰って、積んでいたゲームでも片付けよう。

 

 安物のイヤホンを耳に付け、周囲の音を閉ざして鞄を背負って教室から去っていく。

 

 廊下を歩けばイヤホン越しに聞こえてくる雑音ノイズ、それがどうにも心が余計に波立たせてくる。

 話す相手がいるの当たり前みたいな空気が気に入らない。一人で帰っている自分が間違っているみたいな視線が腹立たしくて仕方ない。

 どうして群れていないはぐれ者を見てくるのだろうか。

 集団であることが良いことなのか。それともあぶれた馬鹿を心で笑いながら、哀れむのが楽しいことなのか。

 

 ……馬鹿馬鹿しい。

 牙すら剥く気のない弱者に他人が興味を抱かないのは、中学の頃で身に染みているだろうが。

 

 悲観的ヒステリック且つ後ろ向きネガティブ、この世で最も需要のない男で醜い容姿のメンヘラぼっち。

 近寄りがたい程にこじらせた中二病末期の情緒不安定。……こんな性根を変えようとしないから、だから未だに人と話せないんだ。


 考えれば考えるほど、どつぼに嵌まって抜け出せなくなりそうな思考の渦。

 ──嗚呼、本当に気持ち悪い。叶うのなら、朝見た空の青さに溶けて消えてしまいたくなる。


 早足気味に下駄箱まで辿り着き、雑に靴を取り替えて、再び足を速める。

 まるで何かから逃げているかのよう。

 何とも惨めなことだ。追う価値のない人間を、追いかける馬鹿などどこにもいないだろうに。


「──はっ、……はあっ」


 やがてゆっくりと速度を緩め、乱れた息を戻しながら周りを見回す。

 確かここは昨日も見た場所。駅と学校の中間くらいで、もう少し歩けばコンビニがあるんだったか。

 立ち止まって落ち着いてしまえば、出てくるのは自分への情けなさのみ。

 こんな惨めな男が他にいるもんか。ミジンコよりも小さく、自らの器よりも大きい自尊心を抱えてしまっているから、いちいち繊細を気取れるんだろうよ。

 

「……阿呆らしい、神チキでも食べて帰ろうっと」


 誰に向けて言ったのでもない独り言。

 外では誰とも話さないから染みついてしまった癖で、やることを決めて進み出す。

 

 こんないつも通り。帰ってパソコン弄って布団に籠もってそのまま寝て、そしたらいつもの陰キャに戻って明日も登校するだけ。

 

 結局、高校でもこのサイクルは変わらない、変えられないのだ。

 放課後に友達と買い物に行くことなんてない。部活に精を出すなんてこともない。──好きな人とデートをする、そんな青春は後生どれだけ願ってもあり得ることではない。

 灰色で平坦な思春期の一幕。……嗚呼、俺なんぞには実にお似合いってわけだ。


「────っ!!」


 ……はあっ、もう疲れたしさっさと帰ろう。

 電車の中が朝よりもましであることを祈って、そしてこの後寄るコンビニの在庫が尽きてないことを願って、とっとと足を進めようじゃないか。


「おーい! 葵くーん!!」

「──っ、え、か、春見かすみさん!?」


 切り替えて前へ進もうと思っていたそのとき、後ろから肩を叩かれる。

 急な接触に体をびくつかせながら振り向くと、そこにはここにいるはずのない美少女──春見桜かすみさくらが、肩で息をしながらそこにいた。

 ……何でここにいるんだろうか。クラス会に行ったはずじゃないのか。


「……どうしてここに?」

「どうしても、なにも、君が早足で、帰っちゃうから、じゃん……」


 ただ息を整えているだけなのに、不思議と扇情的に見えてしまう彼女。

 この姿をいつまでも見ていたいな、と。

 いっそ褒めるべきな思春期染みた欲望に駆られてそうになるが、無理矢理に断ち切って懐に手を入れる。

 

 ……正直いやだが仕方ない。

 確かこっちのポケットにハンカチを入れてたはず……お、あったあった。


「……良ければ使って」

「あ、ありがと……。……かわいい花柄、多分お姉さんのだね」


 男が持つにはちと個性的すぎるファンシーなハンカチだが、目の前にいる彼女はは何ら驚くことなく受け取り、額や首に当てて汗を拭いだす。

 それにしても、当たり前のように姉がいるのも知っているんだな。まああれはそこそこ有名らしいし、同じ中学なら知っててもおかしくはない……のか?


 ……いや。例えそうだとしても、こんなにすぐ結びつくのは可笑しいだろう。

 

「これは洗って返すね!」

「え、別に気にしなくても──」

「い・い・か・ら!」


 勢いに押されてしまった俺は、心底大事そうに懐に仕舞われるハンカチを見守ることしか出来なかった。

 あまりの迫真っぷりにちょっと戸惑ったが、考えてみれば自分の汗が付いたハンカチを男に渡したくないのは何となくわからなくもない。

 まあいいか。姉のお気に入りでもないから、もしそのまま無くなっても忘れて終わりだからな。


 物を貸すことに対して良い思い出がないからか、相手が善人であると思っていても返ってこないものだと思ってしまう我が心が実に憎らしい。

 ……こうやっていちいち疑ってしまうんだから、碌に他人を信じる事が出来ないんだな。


「いやーありがとう! でも葵くんのせいで走らなきゃいけなかったんだし、これでチャラってことだね!」


 ようやく落ち着いた彼女は、可愛い笑顔の癖して中々に意味の分からないことを言ってくる。

 どんなに記憶を辿っても、彼女と俺は登校中に話したくらいしか覚えがないのだが、一体俺がなにをしたというのだ。

 残念ながら、どれだけ考えようとも、僅かすら思い当たることはなかった。


「……何のことだ?」

「なにって、一緒に帰ろうと思ってたのに先に行っちゃったんだもん」


 おかげで全力ダッシュだだったよと、彼女はちょっとだけ不満気に態度を見せてくる。

 けれど、流石にそれは横暴が過ぎると思う。

 帰りの約束すらしてなかったというのに、いちいち待つ自意識過剰ばかがどこにいるというのか。


「……別に約束してないしな。それに、何か誘われてるのも見えてたし」

「あー、確かにそれは私が悪いね。……ちょっと急ぎ過ぎちゃったかな」


 彼女は額に手を当てながら、あちゃーと顔を渋らせる。

 後半は小さく呟かれたから聞こえなかったが、とりあえずは納得してもらえたらしいな。


「それでどうしてここに? クラスの連中と行かなかったの?」

「ん? あれなら断ったけど。だって君とお話ししたかったね?」


 彼女は何てことないような声色で、想像も付かなかったことを軽々しく言ってのける。

 

 断った? 陽キャのみが行ける資格を持つ、あのクラスに馴染むための必要儀礼せったいを?

 自ら安全圏を投げ捨てる愚行を前に、誘われない人間としては困惑を禁じ得ない。


「もー、あっちはたかが遊びだよー? そんな難しい顔で考えることじゃないってー」


 彼女はあっちのことなど本当にどうでも良さそうに話してくるが、それが尚更理解できない。

 自己紹介が真実なら、彼女は俺と同じ中学にいたはず。

 余計な波風を立てず、流されるままに愛想笑いをして三年間を過ごす方が利口なのだと。あの中学を楽しめた人間でなければ、辿り着く結論にそう変わりはないはずだ。

 

 ……それとも君は、そっち側の人間だったのかよ?


「それっぽい理由わけをちょっとだけ腰を低くして話せば、後はあっちが勝手に解釈してくれるからね。いやー、見てくれがましなだけで楽になって助かるよ、人生ってやつは」


 過去を思い出して失望を持ちかけたとき、春見桜かすみさくらは可愛らしい声は、思わず耳を疑いたくなる言葉を紡いできた。

 聞き間違いってことは……ないな。流石にこのタイミングで別の声と被さるなんて、そんなラブコメの告白シーンみたいな偶然は起きえるわけがない。


「ね? 人間関係なんて勝ち組の憩いでしかないもの、中学が一緒だった君なら分かるでしょ?」


 例え私が誰か分からなくとも、と彼女は嗤いながら吐き捨てるように呟く。

 高嶺の花で理解不能だった彼女。周りに笑顔を振りまきながら、路傍の石以下な誇りに笑顔を向ける異常者。

 そんな一人の少女が吐いた毒に、俺は初めて同じ人なんだと共感を抱けてしまった。


「さて、そろそろ行こっか?」

「……行くってどこに?」

「二人で話せるばーしょ。昨日は舞い上がったり忘れられてショックだったりで、ほとんどまともに話せなかったからね」


 彼女は俺の手を取り、指と指を強固に絡ませて進み出す。

 まるで離さないと手で告げているかのよう。気分はさながら、蜘蛛の糸に乗っかった蝶に近いものだった。

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