電車

 何も分からず何も得ず。

 無駄な思考に頭が悩まされながら一日が終わり、再び登校の時間が訪れてしまった。

 

 昨日と変わらぬ暖かな日差しに欠伸を漏らしながら、ふわふわと眠気が残る頭でのんびりと通学路を歩いていく。

 

 満員電車、学校、新クラス、そして春見桜かすみさくら

 考えなきゃいけない面倒事が多くて嫌になる。叶うのなら今すぐにでも全部ほっぽり出して、そのまま公園か河川敷にでも寝転がりたいくらいだ。

 

 別に飛行願望なんて微塵もないが、ちゅんちゅん泣きながら飛んでいる小鳥が羨ましく思えてくる。

 せめてその羽を一時間くらい分けてくれれば、ぎゅうぎゅう詰めな鉄の箱になんてぶち込まれなくて済むんだけどな。

 

 今日も今日とて実にくだらないことを考えながら、到着した駅の改札を潜りホームまで辿り着く。

 列を成して電車を待ち続ける人達を見ているだけで、心の底から憂鬱になってくる。

 今日だけじゃなく、これから三年間はこれに耐えなきゃいけないのか。……少し慣れたら、自転車登校に切り替えようかな。


「あ、葵くん!」


 数日前まで選択肢にすら入れてなかった朝の運動すら視野に入れだしてきた頃。思わず、びくりと肩をびくつかせざるを得ない言葉が耳に入ってくる。

 いきなりすぎて反射で向こうとしてしまったが、何とか気合いで堪える。

 危ない危ない。葵なんて名前はどこにでもいるし、危うく恥を掻くところだったな。


「無視は傷つくなー。えいえい」

「──か、春見かすみさん!?」

「さーくーら。ま、まずはおはよう葵くん!」


 冷やっこい手を俺の頬に当てながら、春見桜かすみさくらは昨日と変わらぬ笑顔を振りまいてきた。

 

「ど、どうしてここに?」

「どうしてって、私もこの駅から通ってるからだよ?」


 周りに怪訝な目を向けられないように小さい声で尋ねると、まるでこちらが可笑しいことを言ったみたいに首を傾げられる。

 確かにそれくらいしか思いつける理由はない。考えすぎなのはこっちだろう。

 けれど昨日のことがあったからか、彼女が放つ言葉の一つ一つに疑念を感じてしまっている自分がいた。


「けど驚いたよ。君の性格を考えると、もうちょっと早い電車に乗ってる気がしたからさ?」

「……次からそうしようと思ってたところだよ」

「そうなの? なら次からは二人で座ったり出来るかもね!」


 頬から手を離し、楽しそうに俺の手を取る彼女。

 君がいるからだと、そう言ってしまいそうになったのを抑え込む。いかに怪しさ全開の女とはいえ、こんな往来で気を削いで機嫌を損ねれば、どう考えても不利なのは俺だしな。

 

 それにしても、俺の性格を考えると……か。

 隠す気が無いんだろうが、怖くなるくらいの理解度で俺を知っているんだな。


 いよいよ正体について気になってきたとき、電車は到着し列が動き出す。

 背負っていたバックを前に抱え、流れのままに電車に入っていけば、当然だが彼女も後ろから同じ車両に乗り込んでくる。

 ちょうど入り口のすぐ側に固まる俺と彼女。

 ゆっくりと周りに迷惑にならないように気を遣いながら、彼女の方に体を向けていく。


「あ、こっち向いてくれた」


 意外と近い距離の中、俺の目は照れくさそうにしている彼女を映す。

 貶すことすら躊躇う容姿、改めて見ると本当に綺麗な人だと思う。

 だからこそ、尚更疑問は募る一方。

 普通に過ごしていれば、一方的に惚れて終わりの関係。それがどうして、こんなにも俺へ接近してくるのだろうか。


「……えへへ。じっくり見られると恥ずかしいよぉ」


 彼女の言葉で誤魔化すように目を逸らしてしまう。

 失敗した。これじゃ、美少女を前にきょどっているだけの不審者と変わりないじゃないか。


「ご、ごめ──」


 謝ろうとした瞬間、発車した電車の揺れに足が負けてふらついてしまう。

 ドアの人のいない部分に気合いで手を当て、彼女へと倒れそうになる体をなんとか支える。

 現に目論見通り、確かに彼女の体に触れることはなかった。

 

 ただ、それが最善だったと言えるわけではなく。

 俺は彼女の──春見桜かすみさくらの目前にまで迫ってしまっていた。


「……」

「……近いね」


 俺を見る美しい翡翠の瞳。

 心を奪う美を秘めるそれは、昨日と同じくハート型の文様が刻まれている。


 ──まずい。いくらなんでも近すぎる。


 触れるか触れないか、一歩間違えば彼女に飛び込んでしまうかもしれない程の近距離。

 またしても訪れてしまうフィクション的ラブコメ展開。

 童貞の妄想を形にしたようなおあつらえ向きな状況に、思わずごくりと唾を呑む。

 

 今体を支えている片腕はそこそこきつく、悲しいことにもう片方の手を置ける場所は空いてはいない。

 多少角度を調整しようが、お世辞にも到着まで持つと思える程のの自信は無い。

 ただでさえ背丈は俺の方が低いのだ。このまま慣性に流されてふらつけば、飛び込む先が彼女の胸なのは明白だろう。

 

 愛し合う恋人同士でもなく、ましてや俺が女を堕とせる魔性の笑みを持っているわけでもない。

 だからこの状況は非常にまずい。次の行動で人生を左右すると言っても過言ではないはずだ。

 

 何でか好意的な彼女ならば、わざとじゃ無い限りそこまで怒らないのかもしれない。

 けれど、いくら彼女がちょっと俺をいい気にさせようとも、それは彼女から矢印を向けられたの話だけ。もしこっちから何かするのがアウトだったら、それこそ取り返しが付かないことになってしまう。

 

 だから、ここは限界を超えようとも耐えるしかない。

 高校二日目の通学中に骨折。そんな馬鹿馬鹿しい事態に陥ろうと、俺の欠片程度の威信にかけてこの場を乗り切らなくてはならないのだ。


 ──だがそんな決意に反するように、彼女は何かを企んだ子供のように笑みを見せてきた。

 

「……大丈夫?」


 側まで寄せられた唇から送られた、耳を擽る吐息と美声。

 理性の柱がごりごりと削れていく音が聞こえる。ただの一言が、昔聞いたASMRの体験版の全てを凌駕している。

 

 なんだこれ。脳がバグりそうなんけど──!?


「……ふふっ。ふうーっ」

「──ひっ!?」

「……可愛い♡」


 優しく吹きかけられる息に震え上がってしまう。

 受けたことはないが、気分は極上のマッサージを受けた後。全身は蕩けるように弛緩し、一気に力は抜けていく。

 当然、懸命に耐えていた片腕すら例外にはなり得ない。

 後押しするかのように僅かに押される背中。僅かな緩みと微量の衝撃は体を大きく前のめりにし、想像していた最悪の事態を招いてしまう。


「……もおぅ、だ・い・た・ん♡」


 感触があった。

 匂いがあった。

 幸福という未知があった。


 部位で言えば、昨日掌が触れた位置。

 けれど感じるのはその幾億倍もの優越感。興奮を煽り、人を獣に堕とす要素が一気に体に染みこんでいく。

 顔は手の数倍は感度があるのだと、例え科学的には違えども、そう知覚できるほどの情報量。

 

 今すぐに離れなくては。

 すぐさま顔を上げて離れようとしたが、頭の後ろに回る彼女の手がそれを阻む。


「だーめ♡」


 痛くないように優しく、けれど振り解かれないように大きな抱擁。

 大きく体を動かすわけにはいかない。

 だから腕を解こうと顔を動かそうとして──より強く、彼女の胸という刺激が五感を伝わってしまう。

 

 ──くそっ、これじゃあ胸に顔を埋めて楽しんでいるゴミ屑じゃないか。


「ねえ、知ってる? 私たちが降りる駅まで、こっちのドアは開かないんだよ?」


 すぐにでも離れたい俺に追い打つように、彼女は耳元で囁く。

 痴漢、暴走、逮捕。脳裏に駆け巡るのは、現状への快感とこれからへの恐怖。

 どうすればいい。

 端から見ればただの痴漢。このままじゃ、本当に人生が終わってしまう──!?


『まもなく赤桐、赤桐に到着します』

「──ん。もう着いちゃうね」


 どれくらいの時間が経過したのだろうか。

 何もかもがぐちゃぐちゃになりつつあったとき、ようやく救いの手は差しのばされた。

 

 徐々に速度を落とし、やがて完全に静止する電車。

 彼女の背にある扉が音を立てて開き、涼やかな外の空気が体と思考を冷ましてくれる。


「あーあ。続きはまた今度……だね?」


 彼女は軽やかに電車から降り、くすくすとこちらへ微笑みながら手を伸ばしてくる。

 

 猿にまで堕ちていた理性が戻ってくる。

 ……危なかった。もう少しでいろいろ限界を超えるところだった。

 正直七割くらいアウトだった気がしなくもないが、彼女が笑っているしひとまず問題は無いのだろう。

 よって乗り切った。例えそうでなかったとしても、今だけは平穏と破滅の一線を越えなかったのだから、今は喜んでおいた方がいいのだろう。


「ほーら。遅刻しちゃうから早く行こっ?」


 困惑の中から絞り出した喜び。そんな呼吸より短い刹那の安堵から、現実に戻してくる彼女の声。

 何か納得いかない。こんなに悩んでいるのはお前が原因なのにな。

 

 散々遊んでくれた彼女へのせめてもの抵抗として、彼女を手を掴むことなく電車を降りて歩き出す。

 後ろからわかったような彼女の呆れが聞こえながら、隣に来てうきうきと歩く彼女を横目で見る。

 何がそんなに楽しいんだか。こっちはまだ登校中だというのに、すっかり体力の底がついたくらいには疲労困憊なんだけどな。


 大きくため息をつくも、気を抜けばすぐに想起される先ほどの感触が、彼女を見ることに罪悪感を抱かせてくる。

 ……これから三年間、こんな思いを背負っていかなきゃいけないのか。

 

「今日から授業だねー。どうせなら隣同士が良かったのにねー?」


 ……何だろう。その言い方だと、まるで俺等が同じクラスみたいな言い草だな。


「……クラス一緒だっけ?」

「えーそんなこと聞いちゃうのー? せっかく高校に来たんだし、ちょっとは人に興味を持っても良いんじゃないかなー?」


 彼女は今度こそ、俺に伝わるように呆れを向けてくる。

 まあ呆れといっても蔑みではなく、ちょっと抜けている子供を見る親みたいな目。呆れと言うには慈愛に満ちすぎている声色だ。……いくら何でも俺に甘すぎないか?

 

「まあいいや。どうせ自己紹介やるんだろうし、そのときに改めて、だね!」


 実に明るさで可愛らしくそう言ってくる彼女。

 今の俺と正反対な声のトーンにただ苦笑いを返すので精一杯。

 

 未だ何も分からぬ美少女。

 そこで彼女について少しでもわかればいいなと、そう思いながら足を進めていった。

 

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