至宝の舞姫

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 昨今流行りのモダンボーイそのままの青年が通りを行く。

「あら、馬さん、久しぶり」

 断髪洋装の女性が声をかけた。

「やあ、悪い、今急いでるんだ、近いうちに店に行くよ」

 青年は歩みも止めずに返事をした。

 ちょうど停車中の路面電車に飛び乗った彼は汗を拭いた。

「間に合いそうだ」

 目的の駅に着き下車した彼は再び急ぎ足になる。

 すぐに一軒の家の前に来た。門をくぐって声をかけた。

「ごめんください」

 はい、という返事と共に戸が開いた。

「馬さんですね、お入り下さい」

 お手伝いの女性が愛想よく出迎えた。客間に通された彼は勧められるままに座った。

 すぐに和装の家の主人が現れた。

「川端先生、ご無沙汰しております」

 座布団から下りた青年は頭を下げた。

「本当に久しぶりだね。海松君」

 主人が応えながら座ると青年も身を起こして座布団に座った。

「まずはこれだね」

 主人が大きめの封筒を手渡した。原稿だった。

「ありがとうございます」

 礼を言いながらうやうやしく封筒を受け取った青年は丁寧に鞄にしまった。

 その時、お手伝いがお茶を持ってきた。

「ありがとう」

と青年が笑顔で礼を言うとお手伝いは顔を赤らめた。彼の美形ぶりに心を奪われたようだった。

 お手伝いが出て行くと、主人はお茶を一口飲み話し始めた。

「今度、君のとこの雑誌で朝鮮特集号を出すそうだね」

「はい、よくご存じですね」

 青年が愛想よく答えると主人は言葉を続けた。

「彼女のことも載せるのだな」

「もちろんですとも。“半島の舞姫”崔承喜は、今や日本で一番有名な舞踊家なのですから」

 彼は誇らしげに応えた。

「本当に、彼女は実に素晴らしい」

 先年の崔承喜の東京公演を見て以来、主人はすっかり彼女に惚れこんでしまった。

「彼女の魅力はまず優れた身体だね、踊りは大きく、力が感じられる。肉体の生活力を彼女ほど舞台に生かす舞踊家は二人と見られないね」

 べた褒めである。事実なのだから仕方ない。舞踊の能力に加え、東洋人離れした容貌、ファッションセンスで多くの人々の心を捉えている。

「彼女の踊りには民族の匂いがある」

と言った時には、青年は

「全くその通りです」

と同意した。

 しばらく“朝鮮の舞姫”の話題で大いに盛り上がったが、柱時計の時報音が鳴ると

「これでお暇いたします」

と青年は立ち上がった。部屋を出て行く彼を見送りながら主人は「彼にしても崔承喜にしても、朝鮮人には美男美女が多いな」と感心するのだった。

 川端家を出た彼は、

「まだ日の入りには間があるな」

と呟きながら、手帳を取り出した。

「改造社の山本社長のところへ行ってみようか。しばらく顔を見せてなかったからな。彼も崔承喜がフアンだから原稿を依頼してみるか。あと村山知義氏、柳宗悦氏も彼女の後援会員だったな。あと彼女の小説を書いた湯浅克衛氏、今日出海氏にも声を掛けてみるか」

 彼は原稿の依頼先に頭を巡らす。川端康成を始めとして多くの著名人の作品が集まりそうだ。

 朝鮮特集号の主役は崔承喜に決定だ。朝鮮の至宝・崔承喜の魅力を内地日本人に知らしめてやろう。

 青年は力強く歩き始めた。

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至宝の舞姫 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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