第4話
魔術の風を受けた帆船が、夜の大海原を進んでいく。
闇夜の満月が雲に隠れると、今度は満天の星空が広がる。
宝石を散りばめたかのように輝く、紺青の海。さえぎるものなどいっさいない水平線を、イオニアスは甲板から眺めた。
聞こえるのは波の音だけ。喧騒だらけの王宮は遠く、真の静寂がここにはあった。
あまりの嬉しさと至福に、イオニアスは泣きそうになる。いや、実際ちょっと涙ぐんだ。
もう少しだけ、こうして外の空気を味わおう。それから、船内で写本を続けよう。
しみじみとまぶたを閉じて、波の音に耳を傾けようとしたときである。
――……ください、先生! 起きてください、朝です!
聞き覚えのある声が、どこか遠くから聞こえてきた。もしや人魚のそれであろうか? しかも、なにやら身体も揺れはじめた。波が激しくなってきたらしい。
「……先生、朝です! 国王陛下と王妃様とクリスティアーノ様が、別々に呼んでおられます!」
――なに!?
ぱっちりと目を開けたイオニアスは、見覚えのありすぎる天井を見てげんなりした。
正直、アントンの声を人魚うんぬんとこじつけたあたりから、うすうす夢だとわかっていた。だが、無視していたら起きずにすむのではないかと、淡い期待をかけてみたのである。
まあ、無駄であった。
「戻ってきてしまったか……」
……現実に。思わずつぶやいてしまい、アントンをきょとんとさせてしまった。
「はい?」
「なんでもない、気にするな」
イオニアスは何度も深くため息をつきつつ、ベッドからのっそりと起きあがる。
「それにしても、どうしてクリスティアーノまでもが、私を呼んでいるんだ?」
国王と王妃ならばわかる。だが、宿敵の占術師に呼びつけられる謂れはないはずだ……って、あったか。
昨夜、邪悪な妹のブランカを、魔術で食料庫送りにしたのだった。
アントンが答える前に、イオニアスは苦笑でそれを制した。
「いや、いい。理由が判明した」
どうやら妹思いの兄が、イオニアスにお説教をしたいらしい。
なんとも面倒なことになってしまったが、すべては昨夜おこなった己の魔術のせいである。とはいえ、後悔はしていない。
着替えてローブを羽織ったイオニアスは、杖を手にしてアントンに言った。
「……さて、今日も面倒な一日をはじめるとしよう」
* * *
宮廷魔術師には、王宮と回廊でつながっている離れが与えられていた。
石造りの建物で、寝室と書斎、談話室と使用人部屋のほか、食堂と小さな厨房も備えられている。
古い書物に囲まれた離れは、王宮のように豪華絢爛ではないが、重厚な歴史を思わせる威厳に満ちていた。
朝食を早々にすませたイオニアスは、書物の整理をアントンに頼み、離れを出た。
まずは国王、次に王妃と謁見し、その後の相手は気分次第で決めるつもりである。
まるで心模様そのままの、どんよりとした曇り空の下、イオニアスは国王の執務室に向かった。
書類に目を通していた国王は、イオニアスをみとめるとすぐに人払いする。そうして二人きりになったとたん、気まずそうに微笑んだ。
「昨夜は恥ずかしいところを見られたな」
ええそうですね、なんて言えない。たいしたことはないと言わんばかりに、無表情で短く返答する。
「いえ」
「ともかく、昨夜は助かった。助かったのだが……私は王妃のサロンに送られてしまった。あれは、偶然か?」
「それは、大変失礼いたしました。あまり使わない魔術ですので、偶然そのようなことになってしまったのだと思われます。申しわけございませんでした」
完全に意図的なのだが、迷うことなく即答する。しばしイオニアスを見つめた国王は、納得した様子で息をついた。
「そうか。ならばしかたがないな。無茶を言ったのはこちらだ。すぐにサロンを出てことなきを得たのだから、よしとしよう。ブランカ嬢の送られた場所のことも、ついさきほど私の耳に入ったのだが、そちらも偶然ならばあなたを責められまい」
もちろん意図したことだったのだが、イオニアスはしんみりと謝罪した。
「とにかく、申しわけございません」
今日は一日におこなう謝罪の数の、新記録が出そうな予感がする。ため息をつきたい衝動に耐えていると、国王が控えめに笑った。
「もうよい。あなたをここに呼んだのは、昨夜の文句を言うためではない。あなたに会って思いついたことがあり、そのことを頼みたくて来てもらったのだ」
――え? 国王陛下直々の依頼ははじめてだ。イオニアスは思わず目を見張った。
「二週間後、王宮で盛大な舞踏会を催す。毎年この時期におこなっていたものだが、今年はさらに、かつてないほどのものにしたい。それで、あなたの魔術で舞踏会を美しく彩ってもらいたいのだ」
つまり、音楽にあわせてきらきらとした魔術による輝きを散らすだとか、なにかしらの美しい
「あなたの魔術で、そのようなことができるか?」
想定外の提案に、イオニアスは青ざめた。
(それは……私の魔術の正しい使いどころになるのだろうか?)
ならない気がする。
ただでさえ、どうでもいいことに魔術を使っている日々だ。これ以上、好奇の目にさらされるのだけはごめんである。だが、依頼されてしまった。
――国王陛下直々に!
「そ……のような愉快な場でしたら、奇術師殿がおられましょう」
イオニアスの苦渋の切り返しに、国王は晴れやかに笑った。
「鍵のかかった小さな箱から出てきたり、ボールに乗って果物を放り投げ、次々にそれらを頬張っていく様を見るのは愉快だが、あれは晩餐会で楽しむものだ。このたびの舞踏会で私が求める奇跡は、そのような面白おかしいものではない」
ぐうの音も出ないほど、的確な指摘であった。
「だからこそ、こうしてあなたに頼んでいる。どうだろうか、イオニアス」
国王にふたたび問われる。即答すべきところだが、できなかった。
「……申しわけございません、陛下。そのような魔術があるか、調べてみなくてはなりません。しばしお時間をいただき、お返事させていただいてもよろしいでしょうか」
調べるまでもなく、竜や魔物を幻惑し油断させる魔術として、すでにある。それを、もっとずっと優しく美しく、さらに軽やかなものに変化させるなど、イオニアスには朝飯前だ。
だが、そんな真実を知る由もない国王は、イオニアスに微笑みかけながらうなずいた。
「ああ、もちろんだ。いい返事を期待している」
執務室を出たイオニアスは、悩ましい思いで回廊を歩いた。
(さて、困った……が、しばし考えて決めるとしよう。それはそれとしても、王妃のサロンをすぐに出たとおっしゃった陛下のお言葉も気にかかる。本当に王妃がお気に召さないらしい)
邪悪なブランカより、よほどまっとうな人物に思えるのだが、人の好みはそれぞれだ。イオニアスには関係のないことである……って、いや、あるか?
イオニアスは、はたと足を止めた。
かつてないほどの舞踏会にしたいと、国王は言った。
まさか、もしかして……という己の予感に、イオニアスは心底ぞっとする。
もしかして国王は、ブランカをただの愛妾ではなく正式な公妾として、舞踏会でみなにお披露目するつもりなのではないだろうか――?
(――え……? 私は、その手伝いをする、のか……?)
ただの愛人――いわゆる愛妾であれば、陛下のお戯れですませられるし、国政になんらの支障はない。だが、高位の廷臣ばりな権力を手に入れる公妾となると、話は別である。
邪悪なブランカの意見が、国政に反映されかねない事態になるのだ!
そんなの、正気の沙汰ではない。愕然としたイオニアスは、息をすることも忘れて固まる。と、そんなイオニアスを目にした廷臣らは、通り過ぎながらひそひそとささやきはじめた。
「……魔術師殿が微動だにしていない。なにをしているのだ?」
「ご本人ではなく人形ではないのか?」
「人形?」
「あらたな魔術かなにかで、ご自分にそっくりの人形でもつくったのであろう」
「それになんの意味があるのだ」
「意味などない。この現代にあって、いまや彼の存在そのものに意味などないのだから」
「まあ、〝なんでも屋〟のすることだ。我々の範疇ではないさ」
クスクスとした笑い声までもイオニアスの耳に届いたが、心無い噂話には慣れているので無視する。
そんな些末なことに、心を砕いている暇などない。だって、恐るべきことが粛々と、水面下で起きているかもしれないのだから。
己の存在意義など、この際もうどうだっていいのである!
(もしも私の予想どおりなら、本格的によろしくないことになりそうだ。そうなる前になんとかしなくては……!)
どうしたらいいのかはさっぱりだが、このまま固まっていてもしかたがない。ふうと深く嘆息し、なんとか身体を解く。一歩前に足を踏み出そうとしたときであった。
「――おや。こんなところにいたとは、ちょうどいい」
真横から声がし、はっとして顔を向ける。金糸に彩られた紫色の長衣を身にまとい、中庭を歩いていた人物が回廊に入り、イオニアスの正面に立つ。
そうして、まばゆい笑顔を向けてきた。
「まるで僕を待っていてくれたかのようじゃないか、イオニアス」
邪悪なブランカの兄、宮廷占術師のクリスティアーノであった。
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