プロローグ

遥か彼方

私たちの秘密基地

 学校帰り、私たちの可愛らしい秘密基地に向かう。

 自動ドアが開かれ、冷気が身体を包み込んでくれる。猛暑日だと散々警告を発するニュースの言う通り、太陽が突き刺し肌の奥から焼かれているような痛みが走る屋外から、エアコンが効きすぎて冷える屋内に避難した。

 汗が冷えていく感覚に気持ちよさを覚えながら、視覚からも涼しくなれる魚のコーナーに歩いていく。一階部分の出入り口から遠い場所にある水生生物のエリアの照明が青っぽく、簡易的な水族館に来た気分だ。

 名前すら知らない魚や、見たことだけはあるような観賞魚たちに囲まれるようにエリアの中央には人気者のメダカがいる。しかも子どもも見えやすいように低いところに水槽が置かれているから、このペットショップのメインの魚はメダカなのだろう。

 メダカは大きな水槽の中を悠々自適に泳ぎ、口をパクパクをさせていた。何匹いるか数え切れないほどのメダカを見つめて、隣の水槽にいる亀を見る。緑色でゆったりと歩く亀たちはきっと私たちと時間の進みが違っている。でなければ、こんなに呑気に歩けないだろう。時は有限だ。


「亀の寿命は三十年から五十年らしいね」


 後ろから聞こえた声に振り向くと、私と同じ制服に身を包んで汗ばんでいる彩花が自慢げに笑っている。


「だから、大切に飼育すれば買った年齢によっては一生の付き合いになれるんだよ」


 私は嫌だけどね、と付け足した彩花は相変わらずにこにこと笑っていた。笑う癖がついてしまった、と以前に話していたのを思い出して、彼女の感情を知ろうと瞳を見つめた。


「二階行こうよ。犬見よ」


 ふっと私から表情を隠すように身を翻し、彩花は水生生物のコーナーから出ていく。

 階段を上る彩花の背中を追いかける。「暑いから」と切り落とした髪は、今日は寝癖がついたままで、せっかくの可愛らしいボブカットが台無しだった。彩花はそもそも見た目にあまり気遣わないから、本人は寝癖がついていようと気にしないのだろう。もったいないと思う。素材は良いはずなのに。

 と、彼女の背中を追っていたはずなのに、気づけば彩花を追い抜かして先に二階にたどり着く。彩花が私に追いつく頃には呼吸は乱れて手すりに掴まって息を整えている。


「よくそんなんで体育の授業出れるね」

「……ほとんど、サボってる、から……かいだん、きつい」


 一度深呼吸をすれば、彩花の顔はまた朗らかな笑顔に戻る。数秒前まで階段を上って息を切らしていたとは思えない明るさだ。


「よし行こ!」


 待ってあげていた私を置いて、彼女はペット用品のコーナーを抜けて犬が展示されているエリアに向かう。小さいペットケージの中には可愛らしさを全面に押し出した子犬たちが各々好きなように遊んでいた。中には眠っている犬もいて、近くにいた夫婦が「かわいいね」と、指を絡めたのが視界の端に映った。

 彼らにはこの犬たちが可愛い生物に見えるらしい。もちろん、可愛いのは確かなんだけど、どうしてもその一言で片付けていいとは思えなかった。それはあまりにも脳死しているような感覚がして、必死にこの感情に合う言葉を探す。が、広辞苑の十分の一にも満たない私の語彙力では探したところで見つかりそうにない。

 言葉探しは諦めて珍しく静かな彩花を見ると、彼女の視線もその夫婦を捉えていた。繋がった手を見て、彼女は露骨に眉を顰める。不快なものを見たと言わんばかりの表情が、またころりと笑顔に戻り、


「見て、ふわふわそう!」


 と、比較的毛が少なめな子犬を指した。


「こっちのほうがふわふわじゃない?」


 毛が長くて多い子犬を指すと、彩花はしばらくその子を見つめてから「これはもじゃもじゃ」と首を横に振った。彼女のこだわりに添えなかったらしい。相変わらず彩花のこだわりは理解できない。


「どういう基準なの?」

「だってこの子はもじゃじゃん。でもこっちはふわだよ」


 首を傾げる彼女に基準なんて訊いたのが間違いだった、と頷いた。それを理解されたと勘違いしたのか、「でしょでしょ?」と嬉しそうにしている。彩花が楽しそうだから、まあいいか……。そう甘やかしてしまうから彼女の電波系な一面だけが成長していくのだろう。まあ、いいか……。

 彩花がふわな犬を見つめては「お前は目が大きいなぁ~、ちっちゃいなぁ」と小さく呟く。


「早く、良い家族に引き取られるといいなぁ」


 ……彼女の口から聞く家族という単語は心臓が冷えていく。にこっと笑って「やっぱりお前はふわだ! ふわを越えてわふ!」と変わらず意味が分からないことを平然と言ってしまう。思っても胸中にしまいそうなことすらも彼女は口から滑らせていく。隣にいるとひやひやが止まらない。

 ガラス越しに子犬を見つめる彩花が楽しそうだからいいか、とまた意味不明な言動を流す。この光景は何回目だろうか。

 ペットショップの店員さんもそろそろ私たちを覚えているのではないだろうか、と勘繰ってしまうくらいには足繁く通っている。そのくせ一銭も出さずに帰るのだから厄介客だろう。

 そんな私たちよりも、「この子いいね」と店員さんを呼ぶ夫婦のほうが良い客に違いない。むしろ私たちみたいなガキには早く帰ってほしいはずだ。

 奥から店員さんが出てきて、夫婦の元に駆け寄る。どうやらペットケージの中にいる子犬に触れてみたいらしい。買うつもりという姿勢を出している夫婦に快諾した店員さんはまた忙しなく裏へ戻った。


「……彩花は大人になったらペット買いたい?」


 ふわを見つめながら、彼女は黙り込んだ。考え込んでいるらしい。能天気で楽観視していて、バカなのにひどく内省的な彩花のことだから、今頃頭の中には様々な言葉や状況がシュミレーションされているのだろう。


「……私は買わないかな」

「こんなに犬好きそうなのに」

「私に買われるペットが可哀想だよ」


 お世話できないもん、と困ったように笑う彼女に頷いた。別の理由がありそうだけれど、訊いたところで話さないだろう。「私もお世話できない」と返すと「大変だよね!」と振り向いた。

 店員さんが子犬を持って夫婦の元へ近づいていくのを彩花が視線だけで追いかける。大人しい子犬を抱っこした女性が「この子のほうが九ヶ月早くお姉ちゃんになるのね」と男性に笑いかけた。「大人しいから子どもにも優しくしてくれそう」と肯定する。

 きっと幸せに満ち溢れているであろう二人の会話を、はからずも盗み聞きしてしまって、彩花を見つめる。

 彼女は夫婦を一瞥してから画面が割れたスマートフォンをポケットから取り出す。表情が曇る。いつも笑顔でいる彩花の表情が乱れるのは、このときだけだ。


「……そろそろ、帰らないとね」


 二人でふわに手を振ってから一階に下りる。水生生物のコーナーで亀の話をしたのはついさっきのはずなのに、なんだか何年も前のことのように感じられた。

 ペットショップを出ると刺々しい太陽に肌を焼かれて、日焼け止めの効果を疑ってしまう。

 私と彩花は帰る方向が別だから、この可愛らしい秘密基地の前でお別れになる。


「じゃあね」


 私が言い出さないと、彩花はいつまでも帰ろうとしない。だからいつも私からお別れを言ってあげるのだ。


「……うん、ばいばい」


 へなっと笑って手を振り返してくれる。彩花が背を向けて歩き出したのを見てから、私も帰路についた。

 ドアを開けて、玄関に入ると真っ先に聞こえるのは怒号だった。また両親が喧嘩をしているらしい。今朝、父親が休みだと知ったからこうなることは想定済みだった。

 怒りの矛先が私に向かないように、ひっそりと自室に戻る。

 そういえば彩花と「また明日」と言って別れたことがない。

 いや、それも仕方ないか。

 私たちはいつ明日が途切れるか、分からないのだから。


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