第14話 誘われること
トトフィガロはメイドである。
旅の友にはミルク味の飴玉と決めたメイドさんである。
サンロモントの部屋を後にして、トトフィガロは廊下を歩いていた。その手にはいつもの箒に塵取りがある。
はたとトトフィガロが足を止めれば、常々と同じように微睡みが如き重い静寂が降りて来て、気を塞がせる。先細りするような、とはサンロモントの言葉であったが、その感覚の一端をトトフィガロは感じられた気がした。ここは確かに自由だ。だが、同時に閉じられている。
不意に、自分の影が周りの薄がりに飲み込まれてしまいそうな気がして、トトフィガロは早歩きで進み出す。きょろきょろと周りを見渡しながら、何だか不安な気持ちで、見慣れた廊下を行く。
閉じられた扉が並ぶ。廊下を歩く影は己一つで、まるで、自分以外が死に絶えてしまったような、一人ぼっちになってしまったような、不吉な予感めいたものが身を包む。
今まで、トトフィガロはこんな気持ちになったことはなかった。不安に思うことはある。だが、こんな風に焦燥感と混ざった不安ではなかった。景色は何も変わりはしていない筈なのに、誰もいないことが、こんなにも怖いと思う。
半ば泣きべそをかきながら、トトフィガロはまた足を止めた。そして、直ぐ傍の扉へと視線を向けた。
大きく深緑色の扉は、中にいる者の息遣いさえも感じさせない程に分厚く、今のトトフィガロにとっては一つの壁同然だった。だが、同時に不安を取り除けるかもしれない手段の一つでもあった。
トトフィガロは恐る恐る、拳を上げて、ノックをしようとするが、なかなか覚悟が決まらない。
この扉の先にいる竜が誰かを知らない。もしかしたら、何の用だと怒られてしまうかもしれない。そうしたら、また別の恐怖に襲われる。或いは、何の返事も返って来ないかもしれない。そうしたら、この恐怖を払拭出来ない。
もしかしたら、サンロモントのような優しい竜の部屋の可能性もあるのだと、半ば自分に言い聞かせるように思い込ませて、意を決して、トトフィガロは戸を叩こうとした。
だが、それは叩かれなかった。
先に内側から扉が開けられて、中から誰かが出て来たからだ。
その人は、薄暗い城の中においても、溶け込むことなく際立って見えた。
絹糸が如き長い白銀の頭髪、そこから突き出した枝のように分かれている角は、やや後頭部側に伸びており、その見た目は紫水晶のように美しく、根元は色濃く、先端に近付くにつれて透明になっている。抜ける程に白い肌には傷一つなく、角と同じ澄んだ紫の瞳は知的に輝いている。それを囲む、白い睫毛の細部に至るまで抜かりがなく、つんと通った鼻筋に、薄く血の気のない唇は、それぞれ主張こそ控えめだが、それ故に奇跡とでも呼びたくなる程の絶妙なバランスを保っていた。
それは神が己の為だけに手ずから造り給うた、と言っても信じて貰えそうな程、浮世離れした美しい生き物であった。手に入れたいと腕を伸ばしたくも、触れようと思うことさえ烏滸がましくも思える、唯、ひたすらに清廉な美を携えた竜であった。
その人は眉を軽く寄せていたが、扉の先にトトフィガロがいると気付くと、少し驚いた後、人懐っこい笑みを浮かべた。
「あ、トトフィガロだ」
トトフィガロはその人から目が離せなかった。いつものことだ。
「お、王女殿下」
吃りながら、なんとかお名前をお呼びするのが、不意に王女殿下と会った時のトトフィガロの精一杯だった。
そんなトトフィガロの心情を知ってか知らずか、王女殿下は後ろ手で扉を閉めると、にこりと微笑んだ。
「丁度、探していたんだよ」
「は、はい、サンロモントから探されてると聞いて」
「見付かりに来てくれたんだ?」
「はい」
「トトはいい子だね」
そう言って、王女殿下はトトフィガロの頭を優しく撫でた。ラルコンドゥのそれとは全然違う。力強さがなく、壊れ物に触れるようでもなく、唯、丁度良い力加減のそれは、例え、目を瞑っていたとしても王女殿下の手だと、トトフィガロには判別出来ることだろう。物凄く嬉しいのに、物凄く緊張して、トトフィガロの胸も頭もいっぱいになってしまう。
「お陰で歩き回る無駄が減らせた。いい子だから、ご褒美をあげよう」
王女殿下は腰当ての隙間から、小さな巾着を取り出し、その中に入っていた一粒を摘んで、トトの目の前に出した。艶々とした乳白色の小さな塊だ。光の当たり具合によっては、金色に光って見える部分もある。
「トト、あーん」
王女殿下が口を開ける。赤黒い口内には、白い歯が綺麗に並んでおり、その中でも竜の特徴的な大きな犬歯が目立っていた。
口を開ける王女殿下を真似て、トトフィガロもその小さな口をぎこちなく開ける。犬歯は控えめで、見ただけでは人間のそれと変わらない見た目をしていた。
「あ、あ、あーん……」
戸惑いながら開けたその口に、その細く白い指が進入して、冷たくて丸い物を優しく舌に乗せていった。それは王女殿下の存在感もあって、傍から見れば、まるで宗教儀式じみていた。指を戻す時に、その爪が唇の端に触れる。それだけで、トトフィガロの心は嵐のように吹き荒れる。
「口を閉じても良いよ」
言われた通りにすると、舌の上が甘くなっていた。王女殿下が入れていった何かが少しずつ溶けていく。それがとても甘いのだ。
「……美味しい」
「嗚呼、良かった。さっき、食堂で作ってみたんだ。なかなか上手くいったと思ったんだけど、トトも美味しいって言ってくれるなら、これは間違いなく成功だね」
微笑みながら、王女殿下もまた巾着に指を入れて、飴玉を自身の口へと放り込んだ。
不思議な感触だった。噛み千切ったり、噛み締めたりして味が出ることはある。だが、舐めて味が出て来るのは初めてだった。
トトフィガロは夢中になって、口の中で飴玉を転がす。ダイレクトに伝わる甘みだが、どこかコクやまろやかさを感じる。もしかしたら、ミルク味なのかもしれないと、トトフィガロは思った。
「御用というのは、この甘味の味見ですか?」
「いいや、飴ちゃんはメインじゃない。実はそろそろ地上に出ようと考えていてね、それにトトフィガロも着いて来てくれないかなとお誘いをしたかったんだ」
王女殿下は
「何故、トトなんかを」
「トトもね、此処での生活に色々と慣れて来たでしょう。だから、新しい物を見に行こう」
「ご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません」
「構わないよ。旅とはそういうものだもの。迷惑を掛けたり掛けられたり、それもまた思い出になるものさ」
王女殿下は飴玉の入った小豆色の巾着袋をトトフィガロに手渡した。
「それ、あげる。その代わりに荷物をまとめなさい。出発は明日、私が起きる頃だよ」
「え、あの、トトは」
「嗚呼、怖がらなくても平気だよ。地上は少し危ないこともあるけど、私がトトを守ってあげるからね」
トトフィガロの鼻先をちょんと指先で軽く触れながら、それだけ言うと、王女殿下は大広間のある方へと向かってしまった。歩く度に、膝辺りまで伸びた艶やかな髪がふわりと揺れた。その一本一本の動きにさえも心奪われたトトフィガロは、何も言葉を返せなかった。
脳にあの笑顔が焼き付く。残り香に胸がいっぱいになる。掛けられた言葉が耳の中で繰り返される。触れた皮膚の冷たさが唇の端に残っている。そして、手の内には小豆色の巾着袋がある。
恐れ多くて、でも、触れたくて堪らないとトトフィガロは思う。矛盾しているかもしれないとも思う。でも、心の声はそう叫ぶのだから、どうしようもない。
先程までの不安は何処へやら、トトフィガロはすっかり上機嫌となっていた。
「旅支度をしないと!」
弾む足元のままに、トトフィガロは自室へと戻る。
薄暗く、静寂に沈む廊下など何のその、微塵も気にも留めず、スカートの裾を軽快に翻しながら、可憐なメイドさんは過ぎて行く。
その間も、王女殿下が出て来られた誰かの扉は閉じられたままで、とても、とても静かだった。
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