第10話 問われること

 トトフィガロはメイドである。

 基本的にどんぶり勘定なメイドである。


「竜の細胞を見たことは?」


 神経質そうな尖った声がトトフィガロに問い掛けた。

 声の主は真っ暗な部屋の中で、篝苔かがりごけの小さな明かりを頼りに何かの本を読んでいた。この部屋の暗さと言ったら、開け放たれた背後のドアから差し込む月の薄暗い明かりでさえも、まるで太陽のように感じられる程で、トトフィガロは慣れない暗闇に目をぱちぱちと瞬かせた。


 トトフィガロは此処には掃除に来たのだ。見知った竜であれば、時折訪ねて、部屋の掃除を申し出ることにしている。今日は彼の部屋を訪ねてみたのだが、ノックの返事が聞こえて、扉を開けてみれば、即座に先程の問い掛けが飛んで来たのだ。


 部屋の入り口で、トトフィガロはその白く細い首を傾げて思案する。が、霞んだ脳ではその問いに対する答えを導けそうになかった。それでも何かを考えてはみるものの、やはり、言葉の一つも浮き上がって来ないから、解答を諦めて、逆に問い掛けてみることにした。


「細胞とはなんですか?」


 問い掛けの主、カザミナルは本から目を離さずに、答えた。


「生物を構成する基本的な単位だ。細胞があることが、生き物の定義になるとも言う者もいる。代謝や分裂が為される細胞質と遺伝子情報を保存する核、また細胞の内外を隔てる細胞膜によって……、嗚呼、この説明は不要かね? 酷い渋面だ。眉間に新たな谷が生まれかねない。では、簡潔にいこう。細胞とは小さな部屋のような作りをしている。我々の身体とは、その無数の細胞の結び付きによって成り立っている。それは目には見えない程に小さなものだ。君の口も鼻も、手も足も全て細胞によって出来ている。嗚呼、すまない。これは我々にとっての説明であって、細菌などの単細胞は細胞一つで成り立っているのだ。悪口にもあるだろう、単細胞と。聞いたことはあるかね? それは我々が多細胞生物であるから、その複雑さを持たない、要するに馬鹿だという意味で使われている。しかしながら、此処、竜宮城に細菌は、単細胞生物はいないがね。だからなのか、この悪口も使われない。此処は無菌室なのだよ、押し並べて。因みに、ウイルスは細胞を持たないから、生物ではないと看做されている」

「ええっと」


 まるで詠唱のように口早い説明に、トトフィガロは思考が置いていかれそうになる。質問したのは自分であるから、答えて貰ったなら何かしらの反応を示さなければならないと思う。思うのだが、答えの内容が聞き慣れぬものばかりだから、まず、言葉の意味を考えなければ、中身にも触れられない。


「細胞の説明はこれで大丈夫かね? 足りないのなら、幾らでも補足していこう」

「ええっと、その、もっと簡単な説明はないでしょうか。ちんぷんかんぷんなのです。トトはそんなに頭が良くありませんから」


 脳が沸騰しそうになっているトトフィガロの言葉に、カザミナルは頁を捲る手を止め、蛍光緑の瞳をトトフィガロへと向けた。その瞳孔は縦に割れており、蛇のような印象を受ける。切長な目付きも、そのイメージを強めた。

 痩せた骨張った手で本を閉じると、カザミナルは二股に分かれた舌先をちろちろと見せながら、口を開いた。


「君は物を知らないが、愚鈍ではない。でも、そうだな、僕の説明は分かりづらいと、よくカインレに言われる。最近、少し、そのことで反省をしていてね。頭で理解出来ていても、それを万人に理解出来るように説明するというのは、また違ったプロセスのものだと思い知った。分かりやすくとなると、例え話が良いかな。ふむ……砂漠を見たことはあるかね?」


 トトフィガロは首を縦に振る。

 砂漠とは掬い切れない程の大量の砂によって、大地が沈んでいる場所だ、ということは知っている。そして、とても広大であることも、食糧や水に乏しく、海に比べて生き物の数が少ないということも、本の知識から得ている。

 火山灰で全て埋まる土地を見たことはあるが、あれは恐らく砂漠とは呼ばないだろう。だが、灰も細かい粒であるから、見た目としては似ているのかもしれない。そういえば、滅多に外に出ないから、はっきりと覚えている訳ではないが、城の外にも砂があったように思える。


「何となくのイメージはあります」

「よろしい。では、砂漠とはどういうものかね?」

「赤くて茶色い砂があって、本当に沢山、見渡す限りあって、とてもとても広くて、確か、とても暑いのです。それから、サボテンという変な植物が生えていて、駱駝というこれまた変な形の生き物が歩いているとか」

「君の話をまとめるなら、砂漠とは砂があって、広くて、暑く、変わった生き物の棲まう場所ということだね。では、もし、そこに砂が一粒しか落ちていなかったら、それは砂漠と呼べるかね?」

「いいえ。砂漠には沢山の砂があるのです。一粒では足りません」

「よく知っているね。そうだとも。砂漠には砂が沢山ある。砂がなくては砂漠とは呼ばないだろう。では、砂と砂漠は同義であると言えるだろうか」


 トトフィガロは少し考える。

 砂漠とは砂で出来ている。ならば、砂漠は砂だ。だが、一粒では砂漠には成り得ない。ということは、砂漠と砂はイコールで結び付けられるものではないということだ。


「答えはノーです。砂漠は砂の集まった場所であって、砂そのものではないのです」


 その答えに、常に無表情であったカザミナルの表情に少し色が付いた。


「良い回答だ。その通り、その二つは同義ではない。見る角度や高さを変えるのは、観察に於いて大切なことだ。広大な砂漠を遠目で見た光景から、ミクロな目線で見てみれば、一粒一粒が積もっていることが分かる。指で摘むのも一苦労な小ささだとも。君の言う通り、小さな粒の集合体こそが砂漠である」


 そこまでは理解出来るものだと、トトフィガロは頷いた。

 カザミナルはその反応に頷きながら、話を続けた。


「細胞も同じことさ。細胞が砂、我々が砂漠だ。我々は細胞が沢山集まって出来た集合体であるのだ。一粒だけでは成立せず、合わさって出来ている。これで少し、分かりやすくなっただろうか」

「はい、さっきよりは理解出来ています。トト達は歩く砂漠なのですね」

「嗚呼、うん、その言い方で合ってるのかは微妙な所だが、概ねそのようなものだろう。そこまで分かったなら、もう少し踏み込もうか。多くの生き物にとって細胞というものは、日々死に、そして、生まれるものだ。これを新陳代謝という。砂漠の砂が日々、入れ替えられ、古い砂が捨てられて、新しい砂が満ちているということだ。嗚呼、これについて砂漠の例えを使うのは、逆に分かりづらいかもしれないな。さておき、一般的に生物というのは、それによって生存している。日々の営みの中で不要になった細胞を排泄し、必要な栄養を摂取し、新鮮な細胞を作り出すのだよ。このサイクルこそが生とも言えるかもしれないな。あくまで、多数派の生き方ではあるが。そうだな、城を身体としよう。その中で竜は日々生きている。その過程で埃や塵が出て来る。それが排泄だ。それを君が掃除して綺麗にしてくれている。それで、我々は大地からエネルギーを得ているね? これが栄養の摂取だ。嗚呼、後は新鮮な細胞か……」


 カザミナルは珍しく歯切れが悪く呟く。くっきりと刻まれた不健康そうな目の下の隈が、微弱な篝苔に照らされて、より一層その暗さが増していた。


「そうだな、王女殿下が外の国の情報を齎すことが、この国に於ける新しい細胞かもしれないな。すまない、上手に例えることが出来なかった」

「いいえ、なんとなくなら分かったような気がします。服が汚れたら、新しい服に着替えるようなものなのでしょう」

「そちらの方が分かりやすいな。今度からそれを使うとしよう」


 どこか嬉しげに彼が返す。


「それはトト達の身体でも起こっていることなのですか?」

「我々が行なっているのは栄養の摂取だけだ。それでは、最初の問いに戻ろう。竜の細胞を見たことがあるかね?」


 カザミナルはもう一度、問い掛ける。

 トトフィガロはまた、その白く細い首を傾げた。





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