これからの俺と貴方

 結局、論功行賞の話し合いで紅緒様への報償だけが決まらなかった。

 俺は昇進して、陛下へ直接拝謁できる身分になったけど、それは予定通り。これで紅緒様に求愛する権利を得た訳だ。

 けど浮かれ過ぎていた俺は、紅緒様が軍を離れたいと願う事は予想できたけど、世捨て人のような状況をお望みとまでは考えてなかったのだ。

 許される事はないだろうが、万一紅緒様が全てを捨てたいとお望みなら、俺の得た身分は邪魔になる。

 どうしたもんか。

 じりじりと焦りに似た何かを感じていると、不意に眉間に柔いものが。

 驚くと紅緒様の顔が至近距離にあって、その指先で俺の眉間に出来たシワを伸ばしてた。


「出穂、怒っているのか?」

「へ?」

「だって……さっきから黙ってる」

「ああ……いや……」


 怒ってるんじゃない。紅緒様は以前から軍にいるのは王族としての義務で、自分のしたい事とは違うと教えてくれていた。

 嫌でも義務からは逃げない。紅緒様のそういうところも俺は好いている。

 その人が本来の道に帰りたい。そのために今まで得たすべてを返上するというのは筋が通っていると思う。それに関して文句はないのだ。

 ないのだが……。

 俺が黙っていると、紅緒様が俯く。そして少しばかりモジモジすると、俺を上目遣いに見た。


「その……山奥じゃなくて、海の近くの方が良かったか?」

「え?」

「それなら今から海の近くって言って来る……」


 そう会議室に続き廊下で踵を返そうとする紅緒様の腕を、俺は咄嗟に取った。

 山じゃなくて海ってどういう? いや、それよりも今の言い方だと俺はついて行って良いんだろうか?

 どくどくと跳ねる心臓をなだめると、俺はゆっくり口を開いた。


「付いて行っても、良いんですか?」


 すると紅緒様はシパシパと何度か瞬きをして首を傾げる。小作りの潤って艶やかな唇が、音もなくへの字に曲がった。


「先に相談しなかったから、拗ねているのか?」

「拗ねてって……」

「だってお前と野遊びに行くのは海より山の方が多かったし。山の方が好きなのかと思って」


 たしかに山の方が多かったけど、それは万が一紅緒様がもう何もかも放り出してしまいたいと仰った時に「遭難」の方がいなくなる言い訳しやすいかと思っただけで、海でも山でも俺はどちらでもよかった。

 じゃなくて。

 紅緒様の言葉に、俺は驚いた。


「俺、付いて行っていいんですか?」

「私の傍で生きるのだろう?」

「っすけど……。全て返上されると……だから地位ある俺はお邪魔になるかと……!?」


 声が喉に詰まる。

 そんな俺の言葉を咀嚼したのか、ややあって紅緒様が首を傾げた。


「一緒に来ないのか?」

「ッ!? 行くっす! でも、付いてこいとは仰らなかったから……」

「言わなかったらついてこないのか?」

「ついて来るなって言われてねぇっすから、ご一緒する予定でしたっすけど!?」

「うん」


 確認するように頷かれる紅緒様に、俺はぽかんとする。

 紅緒様はというと、俺の表情がおかしかったのか口角を仄かにあげて「ふふ」と笑った。


「私はどうやら賭けに勝ったようだ」

「賭け、ですか?」

「ああ、一生の賭けに」


 穏やかに紅緒様が俺の頬に触れる。それからそっと俺の懐に猫のように潜り込むと、すりっと紅緒様が頬を胸に擦りつけて来られた。

 俺はいったい何が起こっているのか解らなくなって、あわあわと慌てふためけば、頬から手を離した紅緒様が、今度は俺の腕をご自身の身体に巻き付かせる。


「出穂、お前は私を好きだろう?」

「え、あ、も、勿論っす」

「私もだ」


 抱き合うような態勢になって俺の心臓が煩く騒ぐ。

 俺はたしかに紅緒様に何度も好意はお伝えしてきた。でも、それは人としてであって、色恋のそれとして伝えた覚えはまるでない。

 だから紅緒様が仰る「好いている」もそういう確認なんだろう。しかしこの体勢は、紅緒様への恋心を自覚した俺にとって、天国と地獄の板挟みでしかない。

 抱きしめてしまう前に、俺は理性を総動員して紅緒様を引き剝がした。


「紅緒様! 俺の好きは! 敬愛とかそんなんじゃなくてっすね!」

「うん?」

「その……だから……あの……」


 悪戯に成功した子どものような瞳で、紅緒様が俺を見つめる。俺は紅緒様の目には、特に上目遣いの視線には弱いのだ。それを知っててやられるのだから、俺に勝ち目はない。

 降参して両手を上げると、紅緒様に跪く。


「紅緒様」

「うん」

「お慕い申し上げております」

「知ってる」

「その……接吻をしたいとか、抱きしめたいとか。あわよくばそれ以上もしたいっていう意味で」

「……出穂なら、いいよ?」


 すっと白い手が跪いた俺の頬に触れたから、俺はその手を取って立ち上がる。

 それからその白く長く、技術者らしい骨ばった手の甲に口づけると、俺はそのまま紅緒様のお手を額に押しいただいた。


「いつから、気づいておられました?」

「いつだろう? でもお前に好かれているんだろうなってずっと思ってた」

「ずっとって……」

「だってお前、凄かったから……」


 ほんのりと紅緒様の頬がバラ色に染まる。それだけじゃなくて、うなじも耳も真っ赤。俺を見る目は少し潤んでさえいて。


「お前、私の事を綺麗だとか美しいとか言うし、ずっと傍にいたいとか、傍にいられて幸せだとか……。毎日毎日あれだけ口説かれたら、もうどうしていいか……」

「う、だって、全部本当の事ですし」

「お前はそういうヤツだから、勘違いだったらどうしようって。そう思ったからわざと『一緒に来い』って言わなかった。言わなくてもついて来るなら、勘違いじゃないって思えるから……」


 小さな声で告げられた言葉に俺は絶句する。俺よりずっと紅緒様は思い切りが良かった。

 俺がウジウジと悩んでいる間に、結論をだし、踏ん切りをつけて、賭けをしたんだから。結果、紅緒様の一人勝ち。というか、一生俺は紅緒様には勝てないだろう。


「勘違いじゃねぇっす。好きです。俺が今まで色々やってたのは、無意識にだったけど、紅緒様を囲い込んで、俺の腕の中から逃がさねぇためっす」


 額に押しいただいた手を放して、俺は紅緒様の細い身体を抱き寄せてすっぽりと腕に収めてしまう。

 紅緒様が俺の胸に頬を再び摺り寄せた。


「私が……ほしいか?」

「っす。全部。丸ごと」


 紅緒様が囁く。その声がしっとりと甘くて、全身が痺れる。

 俺の発した声はどこか掠れていて、その昂ぶりが伝わったのか、ふるりと紅緒様のお身体が震えた。

 一度固く抱きしめ合うと、俺達は静かに見つめ合う。


「紅緒様……」

「出穂……」


 紅緒様のお手が俺の頬に触れたから、それを合図に俺は紅緒様の細い顎に手をやり、そっと上を向かせる。

 意図が解ったのか紅緒様は瞬きを一度、それからそっと目を伏せた。

 いつか見て、夢にまで見た紅緒様の口づけを待つ表情に、俺は息を呑みつつ、ゆっくりと唇を近づけていく。


「ぅおほん!!」

「!?」


 刹那、廊下に響いた大きな咳払いに、俺と紅緒様は咄嗟に距離を取った。

 そして振り返った先には宰相閣下が立っていて。


「お気持ちは察しますがの、廊下ではお控えいただきたく……」

「は、はあ……」


 紅緒様を庇うように背中に隠して振り返ると、宰相閣下の後ろに陛下や青洲様、常盤様の姿が見えて。

 俺は「失礼しました」と腰を折りつつ、にこやかに笑う。


「新居はやっぱり海が良いっす。紅緒様も海がいいそうですよ?」

「左様ですか」

「はい、では失礼します!」


 敬礼すると反転して紅緒様を横抱きにすると。俺は怖い親兄弟から一目散に逃げるのだった。

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