九年目、貴方と俺の未来は……

 捕虜交換式の数か月後、俺が眼科受診を薦めた男の国はクーデターと隣国の侵攻で疲弊し、あっけなく救援を申し出た瑞穂の国に併合された。

 あの痩せぎすの男も、奴の上官の濁った眼の男も戦死したという。

 だから眼科に行けって言ったのに。戦場で目が悪いなんて命取りだ。

 今、瑞穂の国はほぼ秋津豊島の全土を掌握したと言っても過言でない状況にある。

 そのため戦は格段に減ったが、やるとなると規模がかなり大きくなって、犠牲者も夥しい数に上った。

 それでも瑞穂の国は魔導錬金術によって医療が格段に進化しているからか、戦死者は少ない。片腕が吹っ飛んでも、義手を付けた軍務についているものもいるくらいだ。

 それだけじゃない。

 魔導錬金術はもう瑞穂の国の日常に、無くてはならない道具となった。

 足の悪い者が座れば自動的に動く椅子や、少しの力で寝たきりの人間でも立ち上がれるような補助具、先日はとうとう民間用の魔導四輪車が発売されたくらいで。

 魔導錬金術が紅緒様の望んだ使われ方をしだしたという事は、彼の方の望んだ未来が近づいてきている。ひいては戦争が近く終わるんじゃないかと、俺なんかは思ったものだ。

 この頃の紅緒様はほぼほぼ首都に缶詰で、宰相閣下と共に内政を執っておられて、俺も護衛よりも秘書としての役割の方が大きいくらいだった。

 運動不足解消のため、訓練とかは紅緒様と二人で組手をしたり、弓の練習をしたりが関の山だったけど、それでも終わったら紅緒様もすっきりしたお顔をされていたから、ストレス発散にはなっただろう。俺も紅緒様の長い足が蹴りのために綺麗に伸びるのを見るのは好きだったし、それは役得だと思えた。

 そんな環境でも二週に一回くらい、俺と紅緒様は斑鳩に二人乗りして魔導研究所に通っていた。

 だって面白い。

 魔導錬金術研究所の研究項目は多岐に渡る。

 医療から兵器は勿論の事、衣食住に至るまで、ありとあらゆる事がここでは研究されていて、例えば住居なら地震や津波、火災や地盤沈下、ありとあらゆる災害に耐えうる家の構造や建築方法の研究、衣服なら肌の弱い人でも問題なく使える布や燃えにくい布、水の染みにくい布やらの研究が行われていた。

 食物に関わる研究なんかは、品種改良の過程で何故か新しい調理法が生まれたりで、結構面白い。

 そして紅緒様の兵器や医療関係の研究の合間に、ご自身の研究も始められた。勿論国費でやる以上は国の役に立つ研究でないといけないから、趣味と実益を兼ね備えたものではあったけれど。


「南の海に棲む魚って、めちゃくちゃ派手っすね」

「うん。でも皮がこんなに青だとか黄色なのに、中は白身だったりするんだ」

「マジっすか? すげぇな」

「まあ、ウミヘビやウツボも食べられるくらいだし、多少色味がどうでも毒が無くて美味しければ人間は食べるさ」

「たしかに。蛇もワニもカエルも旨かったっす」

「うん」


 大きな水槽を前に、ほんの少し口角を上げて紅緒様はご機嫌だ。

 紅緒様の研究は可食魚の養殖技術の確立で、可食魚の種類を増やすとともにその養殖方法を探るのが目的。

 紅緒様は生き物としての魚も好きだし、食べ物としての魚も好きだから、とても楽しそうに研究をしている。

 内政や軍事に伴う事務の合間を縫っての事だからかなりお忙しそうだけど、俺との無理はしないって約束は守ってくださっているから、俺としては紅緒様が楽しいのならそれが一番だ。

 戦が終われば紅緒様はこんな風な研究をして、楽しそうに生きていけるんだろうか?

 ぼんやりと水槽を見ていると、不意に大きな音がして研究所が揺れた。

 少々の爆発や地震では研究所は小動もしないようになっている。しかし何が起こったか把握することは必要だから、扉を開けようとするとドアノブが回らなかった。

 閉じ込められたかと思うのと同時に、頭上からアナウンスの声が降ってくる。


『諸君、申し訳ない。小生の研究がちょっと思わぬ発展を遂げたで御座る。始末するまでドアを開けんでくだされ。というか、ドアにロックかけておる故出られんで御座る。危険はないけれどその……イニシャルGがうようよしてるで御座るから』

「何しやがんだ、あの所長は!?」


 思わず悪態をつく。

 だってイニシャルGって一匹見たら三十匹いるあの黒光りする脂っぽい虫だろ?

 それがうようよなんて気持ち悪すぎる。

 紅緒様も同じことを思ったのか、若干眉毛を下げて口元を手で覆っていて。


「私……あの虫苦手だ」

「俺もっす。始末が終わるまでゆっくりしましょうか」

「ああ」


 そういうと紅緒様は水槽と何かを測る計器に向き直って、書き物を始める。俺は紅緒様専用の研究室に備えてある簡易の台所でお茶の準備を始めた。

 部屋には湯を沸かす音と、水槽のこぽこぽいう音だけがあって、時の流れが周りから切り離されたような錯覚さえ起こすほど緩やかだ。


「……戦争が終わったら、何処か静かなところでこういう研究がしたい」

「そうっすね。紅緒様、魚好きですもんね」

「うん」


 紅緒様は地位や名誉に興味はなくて、でも王家の人間だから陛下の覇業に貢献しているだけ。そこに紅緒様の喜びはきっとないんだろう。あるとすれば、戦死するはずの傷を負った人間でも、魔導錬金術によって命を取り留められるようになったって事だろうか。でもそれだって戦がなくても、事故や病気の人間が助かれば感じられる喜びだ。

 そんな事を考えていると、水槽に俺を見つめる紅緒様の姿が映る。


「紅緒様?」


 あまりじっと見ておられるから首を捻ると、紅緒様が戸惑うように口を開いた。


「出穂は……お前は戦が終わったらどうするんだ?」

「どうって……?」


 その言葉にハッとする。

 もしも戦が終わって紅緒様が軍から離れるとなると、当然副官は要らなくなる。

 その時、じゃあ俺は?

 俺は、紅緒様のお傍にいたい。ずっと、戦なんかなくなっても、紅緒様とずっと一緒に生きていたい。

 その為に、俺に出来る事は何があるだろう?

 魔導二輪車の運転は出来るけど、紅緒様だって出来る。秘書って研究者にいるだろうか?

 衛兵ならどうだろう? 紅緒様だってどこかに屋敷を構えるなら、警護だって必要だろう。いや、いっそのこと紅緒様の家の執事なら、お傍を離れなくていいのでは?

 ぐるぐると色んな事が頭を巡る中、出て来た言葉はただ一つ。


「紅緒様のお傍にいたいっす」

「私の?」

「はい。ええっと、俺、執事とか門番とか出来るし、斑鳩の整備もできます。なんだったら今から料理とか掃除とか覚えますし……お傍にいられたらいいなって」

「そう、だな。お前は戦が終わっても、私とずっと生きてくれるって言ってたな」

「うっす」

「うん、じゃあ期待してる」

「っす! 任せてください!」


 にかっと笑うと、紅緒様も笑ってくれる。

 俺は紅緒様の人生に、戦が終わっても存在することを許されたのだ。

 それを喜んでいると、また水槽越しに紅緒様と目があって。

 今度はちょっとだけ紅緒様の口角が上がって、これは紅緒様が嬉しい時にされる表情。もう九年近くお傍にいるのだから、絶対に間違えない。

 じっと様子を窺っていると、紅緒様がへにゃりと眉を曲げて子どもみたいに笑う。


「私の傍にいたいなんて、出穂は変わったやつだなぁ」

「そんなこと言って、紅緒様だって俺がお傍にいるの喜んでくださってるでしょう?」

「う……その……だって、出穂は私が好きなんだろう?」

「っすよ。だから紅緒様が俺が傍にいるのを喜んでくださるのが、すげぇ嬉しいっす」

「……私も嬉しいよ」


 紅緒様の頬に赤みが指す。

 この照れたような、恥ずかしがってるような姿を見られるのは俺だけだ。それは自惚れでなく確信。

 俺は心底それが嬉しかった。

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