満腹龍神様と3つのご飯
坂
上 夜中の飯テロうな丼
これは私と、満腹龍神様と、三つのご飯の物語だ。
東京都、練馬区。
今日もバカみたいに遅い時間に走る終電に、バカみたいに惚けた顔のOLが乗っている。
「辛気臭い顔……」
暗いトンネルを走る地下鉄の窓に映った自分の顔を見て、私はつぶやいた。
私の名前は早乙女小春。
都内でウェブデザイナーの仕事をしている、今年で二十八の独身OLだ。
毎日朝から深夜までクタクタになって働き、帰宅するのは午前一時過ぎ。
大江戸線の最終電車で練馬に帰るのが、私の日課だ。
「ただいま」
鍵を開けながら、誰も居ないのにそう言ってしまう。
家に帰ってやる事と言えば、お風呂に入って寝るくらいで、朝になったらまた仕事。
唯一の楽しみは二十四時間スーパーで買ったお惣菜をつまみながらビールを飲むことくらい。
ピーッ
聞き慣れた電子レンジの音と同時に、私は温めていたものを取り出す。
今日の晩御飯は唐揚げ、アジフライ、格安コロッケ。
空腹の体は、夜中になるほど重たい揚げ物を欲してくる。その欲望に抵抗するような心の余裕は私にはない。
「ははっ、何これ、おっかしいの」
お気に入りの料理系ユーチューバーのチャンネル動画を見ながら、ちびちびとツマミを口に運び、ビールで流し込む。一日の終わりのこの時間だけが、私の癒やしのひとときだ。
モニターでは、美味しそうな料理を作っていくユーチューバーの姿が映っている。見事な手付きだった。
「そう言えば最近、全然自炊してないなぁ」
田舎を出て上京してもう六年。
就職当初は節約も兼ねて結構凝った料理を作ったり、お弁当作りもマメにやっていた。
でも仕事が忙しくなるにつれ徐々にやらなくなり、今では閉店間際の半額惣菜を狙うただのハイエナと化している。
画面では、美味しそうなうな丼が映し出されていた。香りが漂ってきそうなほどふっくらとしたうなぎの映像が、我が食卓の侘(わび)しさを加速させた。
「くそー、美味そうだな」
私が一人歯ぎしりしていると、不意にスマホの着信音が鳴り響く。
こんな真夜中に電話……?
恐る恐る画面を見ると、実家からだった。なんだろう? とりあえず出てみる。
「もしもし?」
「あ、小春? お母さんだけど。ごめんね夜遅くに」
「ううん、別に良いんだけど。どうしたの?」
「それがね、落ち着いてほしいんだけど――」
「えっ?」
私は一瞬、言葉に詰まる。
「おばあちゃんが死んだ……?」
◯
久々に見た父方の祖母の顔は、生前のそれとまるで変わりなく、眠っていると言われれば信じてしまいそうなほど穏やかな顔をしていた。
「小春、よぉ休み取れたね」
布団で横たわる祖母を見つめる私に、母が声をかけてくる。
「東京の仕事は? 大丈夫なん?」
「えっ? うん。忌引って言ったら休みもらえた。まぁ、明後日には帰らなきゃだけど」
「そう、忙しいのに悪いね」
「仕方ないよ。ねぇ、おばあちゃんって何で死んだの?」
「縁側で夕涼みしてたらそのままポックリ。老衰だって。回覧板持ってきたご近所さんが見つけてくれてね」
「へぇ……」
話を聞きながら、私は久々に拝む親族の顔へと視線を移す。
誰も泣いている人はいない。
たぶん、私もみんなも、分かっていた。そろそろ祖母にお迎えが来るってことを。
夫婦二人で定食屋を開いていた祖母は、ハツラツとしていた人だった。
でも祖父の死をきっかけに店を閉めて、すっかり年老いてしまった。
私が子供の頃も、よく晩御飯を祖父母のお店で食べたっけ。
お通夜が終わり、親族での会食が開かれた。
通夜振るまいとは言え、その空気は緩く、油断するとちょっとした親族の飲み会みたくなりつつある。
「小春ちゃん、こっちにはいつまで居るんや?」
叔父のグラスにビールを注いでいると、そう尋ねられた。
「明日の出棺が終わって、夜には帰らなきゃですね。遺品の片付けもあるのに、ろくに手伝えずすみません」
「何言ってんの、今やプロのイラストレーターなんだから胸張りなって。忙しいことくらいみんな分かっとるよ」
「あはは……」
正確にはウェブデザイナーなんだけどな。思わず乾いた笑いが溢れる。
私の元々の夢はイラストレーターで、ウェブ制作会社に入社した当初も、いつかはイラスト一本で食べていこうと本気で思っていた。しかし忙殺される日々の中で、いつしかその闘志はくすみ、すっかりと色あせてしまっている。
嘘はついてないのに、何だか騙しているようで居たたまれなくなって、私はビールを取りに行くついでに部屋を出た。
「うわ、めっちゃ食材あるなぁ」
冷蔵庫のビールを取ろうとしたところ、ずいぶん沢山の食材が置かれていることに気がついた。真新しい物が多い。冷蔵庫に入っているのは最近購入したものだろう。
よく見ると、キッチン周りには調味料もかなり揃っていた。それに調理器具もホコリを被っておらず、全体的に手入れされているとわかる。
祖父は厨房に立っていたこともあってよく料理をしていたけれど、配膳係だった祖母はどうだったろうか。少なくとも、こんなに調味料を使うほど料理家ではなかった気がする。
変だな……と思いつつ、私は缶ビールを取り出すと、そのまま口に運んだ。
リビングからは親戚たちの会話が聞こえており『結婚』なんて単語が飛び出している。今の私にとっては、最も避けたい話題だ。
ため息を吐いて、何となく祖母の部屋に逃げ込む。
すると、棚の上に小さな神棚があることに気がついた。手のひら大の透明な水晶と、ほとんど中身がなくなった水の入ったグラスが置かれている。
「なんだこれ?」
「あぁ、それね。おばあちゃんが大事にしていた水晶よ」
いつの間にか背後に母が立っていた。
「元々はおじいちゃんの形見でねぇ。ずっと大切にしてたわねぇ」
「へぇ、おばあちゃんが……」
何だかこの水晶には見覚えがある。私はそっとその水晶に手を伸ばした。
「あっ、これ……」
思い出した。
これ、満腹龍神様だ。
◯
私がまだ高校生だった頃。祖母がこの水晶を拝んでいたのを見たことがある。
グラスにミネラルウォーターを注いでお供えして、仰々しく拝んでいた。
「おばあちゃん、何やってるの?」
「満腹龍神様に手を合わせてるんだよ」
「満腹龍神様?」
聞き慣れぬどこかポップな名前に、私は興味を持った。
「そう、満腹龍神様。ご飯を授けてくださるとってもありがたい神様よ。お願いすると何でも三つだけ、好きな食べ物を食べさせてくれるの」
「へぇ、すごい」
ドラゴンボールみたいな設定だな、なんて感じながらも、興味を惹かれた。
「おばあちゃんは何か食べさせてもらったりしたの?」
「ええ。とっても大切なものを食べさせてもらったわ。とっても美味しい、かけがえのないものを」
「へぇ?」
気になるようなそうでないような、我ながら適当な返事をする。
「ご飯をもらうにはどうすれば良いの?」
「お水をあげるの。お水が大好きな神様だから。それから、毎日しっかりお祈りする事」
「お祈りかぁ、ハードル高そう。私、作法なんて知らないし」
「作法は何でも良いの。ただ、手を合わせて拝む。それだけで、神様は気持ちを受け取ってくださるからね」
◯
もうずいぶん昔の話だけれど、それは昨日のように鮮明な記憶だった。
不思議と魅力のある龍神の水晶。
見ているだけで、心が癒される気がする。
「お母さん、この水晶も処分されちゃうの?」
「えっ? どうかしら。でも、誰も引き取りたがらないでしょうねぇ、そんな古ぼけた水晶」
「そっか……」
私はじっと水晶を見つめる。何だか無性に惹かれてしまうのは、この中に祖母との思い出が宿っているからだろうか。
「ねぇ、これ、もらっても良い?」
「えっ? そうねぇ……、まぁ、別に良いんじゃないかしら。あんたなら、おばあちゃんも納得してくれるでしょ」
「やったね」
実家から戻った私は、早速水晶をキッチンにある適当な棚に飾った。
飾られた水晶を見て、私はかつて祖母がそうしていたように、両手を合わせて拝んでみる。
「そう言えば水が好きなんだっけ」
私は水晶を飾っている棚にグラスを置くと、そこに水を注いだ。
「油断しすぎて入れすぎた……」
我ながら攻め過ぎた。
グラスに注いだ水は、ほとんど表面張力で保っている。地震でも来たら途端にこぼれるだろう。
「まぁいっか。これからよろしくね、満腹龍神様」
その日はそんなことを言って眠りについた。
異変に気づいたのは、翌日の朝になってからだ。
「やばいやばい、遅刻じゃん! 連休明けで寝坊とかシャレにならないって!」
帰省で疲れていたせいか、すっかり二度寝してしまった。
顔を洗い、髪型を整え、簡単な化粧を施す。朝食は……無理か。でも、せめて水くらいは飲んでおきたい。
適当なコップに水を注いでいると、ふと棚に飾っていた昨日の水晶に目が行った。
そこで変化に気づく。
水が減っていたのだ。
グラスにあれだけなみなみと注いでいた水が、上から一センチくらい減っている。
こぼれたのかと思ったが、辺りに濡れた痕跡はなかった。
「何これ、蒸発した?」
果たしてこんな勢いで蒸発したりするものなのだろうか。
思わず腕組みしたが、そんなこと言っている余裕がないことにも気がつき、私は慌てて家を出た。
「部長、急なお休みをいただきありがとうございました」
「あぁ、構わないよ。こう言う時はお互いさま。それより、仕事が溜まってるから、また今日から頼むよ」
「アハハ……はい」
結局その日も終電まで働いて、帰宅する頃にはすっかり深夜だった。
駅からの帰り道をトボトボと歩く。帰るのが遅過ぎて近所のスーパーすら開いていない。コンビニも微妙に遠くて、寄る気力も湧かなかった。
「はぁ……復帰初日からクタクタだよぉ」
家に帰り、崩れ落ちるようにベッドに倒れ込む。
一体いつまでこんな生活が続くんだろ。
思考がどんどん負の螺旋に落ちていく。
そんな時、不意にぐぅ……と間抜けな音が鳴り響いた。疲れていても腹は減る。
「……なんか食べよ」
適当に戸棚を探す。
しかしながら、無情にも冷蔵庫は空っぽだった。カップ麺の買い置きすらしていない。
「最悪だ……」
時刻は深夜の二時で、もはや外に出るのも億劫だ。
そんな時、ふと満腹龍神の水晶が目に入る。何でも食べさせてくれる便利な神様。こういう時こそ、私に温かいものを提供してほしい。
「頼むよぉ、龍神様ぁ。ナムナム」
――その願い、聞き届けたり。
不意に、そんな声が、確かに脳裏に響いた。
次の瞬間だった。
水晶から虹色の七色の光が、強く強くにじみ出て、室内を照らした。
思わず目を背けてしまうほどの光で、その輝きは収まるどころかますます強まり、私の視界を覆い尽くした。
しばらく時間が経ち、恐る恐る辺りの様子を伺う。
先程放たれた光はもうすっかり鳴りを潜めており、広がるのはいつもの我が家の光景だった。
「夢……?」
「夢じゃないぞ」
背後から声がして、思わず振り返る。
目を疑った。
そこに、龍が居た。
まるまると太って、立派な角とお髭を生やして、全身を爬虫類の様な鱗で覆われた、二足歩行の龍が玄関に、立っていたのだ。
驚きのあまり声を無くす私を見て、目の前の太った龍は「ほっほっほ」と穏やかな笑みを浮かべる。
「おぉ、よく寝たわい。外に出るのは、かれこれもう十年ぶりくらいかのう」
「何これ……幻覚? 私、疲れすぎてとうとう幻覚見ちゃった?」
目の前の妖怪をペタペタと触る。蛇に触れた時の様な爬虫類特有の感触が、確かにそこにあった。恐怖感などはなく、むしろ物珍しさや好奇心が私を満たしていた。
すると「これこれ」と妖怪は声を出す。
「ほっほ、そう驚くもんでもない。儂を呼んだのは、お前さんなんじゃから」
「私が呼んだ……?」
「そうじゃよ」
龍は、静かに頷く。
「儂の名は満願福腹之神(まんがんふくふくのかみ)。満腹龍神と、そう呼ばれておるよ」
「あなたが満腹龍神様? おばあちゃんが言っていた?」
まさか逸話や伝説とばかり思っていた満腹龍神様が本当に居ただなんて。一体誰が信じるだろう?
こうして実物を目の前にしている私ですら、まだ信じられない。でも、これが夢でないのであれば、信じざるを得ない。
「おばあちゃん、と言うとお前さんはトメの孫かね?」
「孫の小春だよ。おばあちゃんを知ってるの?」
「もちろんじゃ。最後に儂を呼び出したのがトメじゃったからのう。トメは健在かね?」
「死んだんだ、つい最近……。それで私がこの水晶をもらったの」
「そうか、亡くなってしもうたか。人の一生は、実に短く儚いな」
龍神様は沈んだ顔をする。疎遠だった古い友達の訃報を聞いたかのような、どこか穏やかな寂しさを感じた。
「それで、あなた本当に満腹龍神様? ご飯を食べさせてくれるっていう?」
「本当じゃよ。ただし、条件がある」
「条件?」
「儂が与える食べ物は、一人につき三つまで。期限は一ヶ月じゃ。それから、毎日供え物として水を入れること。祈りも欠かしてはならん。どれか一つでも破れば、儂は水晶に帰る」
「なるほど」
祖母の話とほぼほぼ相違はない。
魂でも抜かれるかと思ってドキドキしていたから、ひとまずはホッとした。
安心したら忘れていた空腹感が戻ってくる。間抜けなお腹の鳴る音が、部屋に響いた。
「ほっほっほ。それじゃあ夢か現実か確かめるために、早速一つ頼んでみるかい?」
「食べたいものったって、そんな急には……」
そこで私はふと思い出し、パソコンの画面に先日見ていた動画を映した。
「これ、これがいい……。この画面の人が作ってる、このうな丼。いっつもこの時間に飯テロしてくるコレ! お願い満腹龍神様!」
「そう慌てなさんな」
龍神様はテーブルまでトボトボと歩いていくと、そっと机の上に手をかざす。何が起こるのかと見守っていると、瞬きをした次の瞬間、机の上にフタ付きの丼物の器が登場した。
あまりの早業に、何が起こったのかもわからない。
すると龍神様は「開いてごらん」と私を促した。
私はゴクリと唾を飲み、ゆっくりと丼のフタを開く。
瞬間、醤油の焦げたような香ばしい香りと、山椒の芳醇な香りが私の鼻孔を刺激した。
そして次に飛び込んできたのは、表面を醤油ダレにコーティングされたプリップリのうなぎの姿。
炊きたてのご飯は粒が立っており、うなぎのタレに包まれてもなおその存在感を主張する。
いかにも作りたてですと言わんばかりの、身も皮も艷やかなうなぎの姿がそこにあった。
「さぁ、食べてごらん」
「う、うん……」
私は促されるまま席に座り、恐る恐る箸を手に取る。
ほぐしたうなぎの身は箸をスルスルと受け入れ、簡単に剥がし取ることが出来た。私はそれを、ご飯と一緒に持ち上げ、恐る恐る口に運ぶ。
ハッとした。
口の中でホロリととけたうなぎは、タレの掛かったご飯と奇跡的にマッチする。
うなぎの脂がご飯で中和され、一口噛むごとに旨味は広がり、感動が脳髄を駆け抜けた。
箸が止まらない。空いていたお腹が、歓喜の声を上げる。
一口、二口、三口。
加速した箸の勢いを止めるものは、何も無かった。
やばいやばいやばい、めっちゃうまい。
食べていると、嬉しいのか悲しいのかよくわからない涙が溢れ出てきた。
かつての祖母の言葉が思い起こされる。
――疲れた時は心が寒くなっているから、温かいものを食べなさい。
「小春、美味しいかい?」
尋ねる満腹龍神様に、私は泣きながらうなずいた。
「美味しい……めっちゃ」
その日、私の凍った心は、満腹龍神様のうな丼ですっかり溶けた。
そして思う。
満腹龍神様は、本物なのだと。
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