3-7
「はい……」
「――お前は」
一陽さんの神がかった美貌に何も言えずにいる藤堂をにらみつけて、一陽さんが静かに告げる。
「出て行ってもらおう。迷惑だ」
「っ……な……」
「ここは食事を楽しむ場所だ。それ以外にはない」
「待……ちょっ……」
それだけ言って、問答無用で藤堂を引きずってハシリへと下り、表に出て行く。
茫然とその後ろ姿を見送って――僕はハッとして客席を見回し、深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。汚してしまったところも、すぐに片付けます」
気のいい常連さんたちが、「いいのよ」とか、「大変だったね」と声をかけてくれる。
僕はもう一度頭を下げ、その場に膝をついた。
「っ……」
思わず、唇を噛み締める。一陽さんの玉子焼きは最高なのに。誰の口に入ることもなく、捨てられてしまうのが悔しい。
なんてことしてくれたんだよ。あの野郎。
今すぐ追いかけて行って怒鳴り散らしてやりたい気持ちを必死に抑えながら玉子焼きを拾っていると、水色の着物の裾と真っ白の足袋が視界に入る。
ハッとして顔を上げると、あのご婦人がひどく申し訳なさそうに僕の前に膝をついた。
「ごめんなさいね。うちの子が……」
「いえ、お客さまが謝ることではないと思います」
きっぱりと首を横に振ると、ご婦人が少し驚いた様子で目を丸くする。
「でも、私はあの子の母親で……」
「ええ、知っています。でも、彼は小さな子供ではありませんから」
僕と同じ大学生だ。長瀬さんと同じ学年なら、成人していたっておかしくない。
だったら、親が謝罪をする――あるいは責任を取る必要なんてない。
そんな甘えは、許さない。
「謝るべきは、息子さんです。これは、彼が起こしたことなので」
だから、一陽さんも彼だけを引きずり出したんだ。
ご婦人に、迷惑だから出て行ってくれなんて言わなかった。
「お客さまが責任を感じる必要はありません。どうぞ、食事を楽しんでください」
にっこりと笑うと、ご婦人が申し訳なさそうにしながら俯く。
「でも……」
「店や僕らのことを慮ってくださるのであれば、なおさら食事を楽しんで行っていただきたいです。そんな悲しい顔をして帰ってしまわれるのは、僕らとしてもつらいですから」
その言葉に、ご婦人がハッとした様子で顔を上げる。
そして、僕の笑顔に少しだけホッとした様子で表情を緩めた。
「……ありがとう。では、いつものように楽しませていただきますね」
「ええ、そうしていただけると嬉しいです」
ただそうは言っても、玉子焼きを片づけている横で食事をはじめる気にはなれないのか、ご婦人はそのまま動かず、僕の手もとを見ている。
僕は小さく息をついて、廃棄が決まった玉子焼きの山を見つめた。
「息子さんは……親のありがたみをわかっていませんね」
「え……?」
「僕は、早くに母親を亡くしていますし、僕を育てるのに必死だった親父を見ているので、親父に『ジジィ』だのと酷い言葉をぶつけることは、嘘でもできませんよ」
それが最期に交わした言葉になるかもしれないのに。
母は物心つく前に亡くなってしまったから、思い出らしい思い出は一つもない。
母の代わりに世話をしてくれた祖母の死もあまりにも突然で、実は最期に何を話したか覚えていなかったりする。『日常』をとくに意識するものだと思っていなかったからだ。
感謝の気持ちをもっと伝えておけばよかったと、とても後悔している。
そして、あのトラウマ――。
僕は奥歯を噛み締めた。
「だって、怖い。それが最期の会話になってしまったらどうするのか……。大切な
両親が、兄弟が、友達が――大切な者すべてが、昨日も今日も明日も生きていることを当たり前だと思っている。だから、そんなことができてしまうんだ。
でも、実際は当たり前なんかじゃない。
それは素晴らしく幸運で、幸福なことなんだ。
謝ることもできないまま喪ってしまったら、いったいどうするつもりなのか。
そうなってから後悔しても、遅いのに。
「……店員さん……」
ご婦人が気遣わしげに眉を寄せる。
僕は「すみません」と無理やり微笑んで、玉子焼きの大皿を持って立ち上がった。
そのまま軽く頭を下げて、ハシリへと下りる。
「……っ……」
本当に、アイツに声を大にして言ってやりたい。
これが最期かもしれないと、常に頭の片隅でいいから思っておけと。
じゃないと、僕と同じ間違いをするハメになっても知らないぞ――と。
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