【書籍化】稲荷神の満福ごはん~人もあやかしも幸せにします!~
烏丸紫明
一品目 夏と京町家とおけいはん
1-1
『美味しい』
それだけのことに、人は容易く魅了され――囚われる。
僕――
僕にとっては、お金をかけず食べられて腹もちがすること。それが重要で、それ以上のことなどなかった。繰り返すが、味などさほどこだわることではない。二の次三の次。
だけどそれは、別段僕が特殊だったわけではないと思う。貧乏学生なんて、大体そんな感覚なのではないだろうか? 食えればいい。そして、腹いっぱいになればいい。
今思えば、なんてもったいない考え方をしていたのかと頭を抱えたくなる。いや、僕が大学で日本文化や日本文化史を専攻していることを思えば、それだけじゃ足りないだろう。実に愚かだったと言わざるをえない。なぜなら日本人の伝統的な食文化である『和食』は、二〇一三年に『ユネスコ無形文化遺産』に登録された、立派な日本文化だからだ。
ただ、腹が満たされればいい。必要な栄養を摂取できればいい。そんな考えでもって、日本が世界の誇る素晴らしきこの文化をないがしろにしていた一年前の自分には、本当に恥じ入るばかりだ。
あの時――『神さま』に出逢わなければ、僕はきっと、その愚かな考えを改めることができなかっただろう。
「さて、と……」
時刻は、午前六時。すでに澄んだ青空が広がり、蝉の鳴き声があたりに響いている。
八月一日。まごうことなき、夏真っ盛り。
一年を二十四分割して、季節の言葉を当てはめた『二十四節気』では『
ちなみに明日からは、『
かといって、『大暑』も決して、今の人を殺す勢いの暑さを示した言葉ではなかったのだろうけれど。
玄関戸から顔だけ出して、燦々と輝く太陽に目を細める。ああ、今日も暑くなりそうだ。
古都・京都――。千年以上もの古より反映を続ける、美しき都。
その紡がれ続ける歴史に、今日という日を重ねる。
「はじめますか……!」
パチンと両頬を叩いて、中に戻る。
昔ながらの美しい京町家。玄関から中戸を通って、敷地の奥へと真っ直ぐに走る土間は、『ハシリ』と呼ばれる。最奥の勝手口も大きく開けて、美しい石畳のハシリに風を通す。
今は封じられている石造りの四角い井戸。その隣には、石造りの流し台が。井戸の反対側には、漆喰で塗り固められた
中戸を入って、すぐ右側にあるのが『カミダイドコ』。そのままハシリに沿うように、『ダイドコ』へと続く。『ダイドコ』という名前だけれど、本来は台所――キッチンではない。『カミダイドコ』は今でいう居間――リビングで、『ダイドコ』はダイニングだ。
だけど、この店では、『ダイドコ』は厨房となっている。『カミダイドコ』も板の間で、この店の一番の『売り』を置く、大事な場所。
『ダイドコ』から漂ってくるいい香りに胸躍らせながら、『カミダイドコ』の掃除の最終チェックをする。――よし。完璧。
まだ涼やかな風がハシリを通り抜ける。おくどさんには、三升炊きの羽釜が二つ。僕は中の米の状態をチェックすると、その前に膝をついた。
それぞれの羽釜の下――竈底に細い小枝を盛って、その上に太い薪を数本置く。小枝の下に新聞紙を潜り込ませ、火をつけたマッチ棒をそこに投げ込む。
指先ほどだった小さな火が、見る間に新聞紙を呑みこんで大きくなってゆく。
この火付けの瞬間が、好きだ。本当にワクワクする。
「火種は分散させない。慌てず、火が徐々に大きくなってゆくのを待つ」
教えてもらったことを小さく復唱しながら、火吹き竹に手を伸ばす。
新聞紙から小枝へ火が燃え移り、次第に大きくなってゆく。煙が立ちはじめ、焚口からもくもくと天井へと上がってゆく。それを目で追いかける。
『ハシリ』の上部は、『
太い見事な梁が何本も行き交う火袋。それらはもちろん、壁た柱も、長年煙に燻されて真っ黒になっている。
長い時をかけて積み重ねられた歴史がなければ、生み出すことができない味だ。そこにまた煙が上がってゆく。その煤が、またこの建物の歴史を深めてゆく。
何度見ても、たまらない光景だった。
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