第28話 健人の選択

 森の入り口に見覚えのある黒い靄があったので、二人はカーシャの厚意に甘えることにした。


 移動魔法を抜ければ、そこはドクトルの家の前だった。たった一日留守にしていただけなのに、どこか懐かしい気分になった。


 軒先にはカーシャが立っていた。二人の顔を見るやいなや、彼女は安堵の息を漏らす。そして涙で瞳を濡らしながら、我が子を迎えるような優しげな笑みを見せた。


「おかえり。ドクトル、ケント君。本当に無事でよかったわ」


「ただいま」


「ただいまです」


 カーシャもまた心の底から二人の身を案じていたのが伝わってきた。


 しかし二人の無事を確認し、涙を拭った後はいつもの顔つきへと戻る。まっすぐこちらを見据える眼差しは真剣そのものだった。


「いきなりで申し訳ないけれど、私はここへ己の義務を果たしに来たの」


「義務?」


 そこで気づいた。カーシャの足元に、大きな魔方陣が描かれていることを。


 彼女がその魔方陣に向けて手を伸ばすと、中心に白い光が現れた。


「私はガルディア兵士長からケント君を元の世界へ帰す役目を譲ってもらった。その役割はしっかりと成し遂げなければならない。悪魔にとって、契約は絶対だから」


「そんな……」


 呆然としたままカーシャを見つめる健人。だが彼女の言葉は至極当然だった。


 なぜなら健人はドクトルと別れの挨拶がしたくて、元の世界へ帰る条件を先延ばしにしてもらっていただけなのだから。


「もちろん荷物をまとめるくらいの時間は待つわ。急ぎでもないから、気の済むまでドクトルとお話ししてても構わない」


「…………」


 カーシャなりの優しさなのだろう。ただ、どのみち健人にはまとめるような荷物はない。


 拳を握りしめた健人は、背後に佇むドクトルの方へと振り返った。


 健人が顔を向けると、ドクトルは何か言いたそうに口を開けた後、何も言わずにすぐ閉じてしまう。そして少しだけ瞼を閉じてから、諦めにも似た儚げな笑みを見せた。


「ケントさん。短い間でしたが、本当にありがとうございました。ケントさんと一緒に過ごした日々は、とっても楽しかったです」


「……ああ」


「元の世界に帰っても、元気でいてください。できれば……私のことは、ずっと覚えていただければ嬉しいです。忘れられるのは……辛いですから」


「……ああ」


「それに……」


 ドクトルがぐっと言葉を飲み込んだ。抑えていた涙が零れそうになったのか、彼女は顔を背ける。


「すみません。なんでもないです……」


「……ああ」


 同じく顔を伏せた健人は、小さく頷くだけだった。


 そしてこれ以上ドクトルの涙声を聞きたくないとでも言いたげに、身体を反転させる。ゆっくりと魔方陣の縁まで歩いた健人は、その中心でぼんやりと揺らめく白い光を見つめた。


 あの光に飛び込めば、元の世界に帰ることができる。クラスメイトの多くは死んでしまったけれど、それ以外にも友達はいるし、家族だっている。もう会うことのできないと思っていた大切な人に、もう一度会えるのだ。それは健人がずっと望んでいたこと。


 だけど……だけど!!


 血が滲むほど唇を噛み締めた健人は、魔方陣の側で両膝を付き額を地面へと擦りつけた。


「父さん! 母さん! 本当にごめん! 俺は……そっちの世界には帰れない!」


 それは嘔吐しそうなほど悩み続けた、健人なりの決断だった。


 どちらにも傾きそうな天秤というのは、支柱が両側に引っ張られているということ。身を引き裂かれそうなほどの葛藤が、健人の感情を爆発させる。


「俺、この世界で守りたい人ができた! ずっと側にいたい人ができた! だから……帰れない。本当に、ごめん。こんなバカ息子で……ごめんなさい……」


 謝り続ける声に、嗚咽が混じっていった。


 傾かなかった方の天秤を我慢するかのように、健人は地面を強く握りしめる。指が土を抉るのとともに、小石に当たった爪が割れた。さらには何度も何度も頭を地面に擦りつけ、声の届かない相手に向かって自らの罪の許しを乞う。


「本当に……ごめん……」


「ケント君。貴方、本当に理解しているのかしら?」


 魔法陣に向かって土下座を続ける健人の頭に、見かねたカーシャの声が降ってきた。顔を上げれば、冷ややかな瞳で見下ろしているカーシャと視線が交わう。


「私は別に善意でやってあげてるわけじゃない。契約内容を成立させるための義務なのよ。私はケント君を必ず元の世界に帰さないといけない」


「でもッ!」


「そう、実はこの契約には穴があるわ。そもそもケント君は契約者本人ではなくて、ただの契約材料にすぎないのよ。だからケント君には拒否権がある。もし貴方が拒否しても、契約は成立するでしょう」


「なら……」


「だから理解して。もう一度言うわ。私は善意で貴方を元の世界に帰そうとしているわけではない。いつでも貴方を帰してあげられるわけじゃないの。もしここで拒否をするのであれば、次はいつその機会が巡って来るのか分からないわ」


「それでも構わない。俺は……この世界に残ると決めたんだから」


「そう……」


 カーシャが深く息を吐くのとともに、その場が静まり返った。


 と、カーシャの矛先が今まで沈黙を保っていたドクトルへと向いた。


「ドクトル。それを聞いて、貴方はどうするの?」


「……えっ?」


 健人の決断があまりにも予想だにしていなかったため、ドクトルは放心状態のまま聞き入ってしまっていた。故に、カーシャに話を振られたところで戸惑ってしまう。


「わ、私は……」


「そもそもの話、ガルディア兵士長とは貴方が契約したのよ。貴方が提示した条件を取り下げれば、ケント君を元の世界に帰す私の義務も無くなるんだから」


「…………」


 カーシャの言葉の意味を理解していないわけではないだろう。だが視点の定まらない彼女の瞳は、未だ迷っているようでもあった。


「ケントさん、は……本当に、それでいいんですか?」


「ドクトル。そうじゃないでしょ?」


 恐る恐る健人の背中に向けた言葉を、カーシャがピシャリと遮った。


 内心を見透かされ、ドクトルがビクッと肩を揺らす。


「ケント君は、その人生を投げうって決断した。貴方と一緒にいることを選択したのよ。そうやって自分の願いを示した。じゃあ、貴方はどうなの? それに対する貴方の応えは? 貴方の願いは、なに?」


「私は……私は……」


 するとカーシャの顔が唐突に優しくなる。


 それはまるで、素直にならない妹を宥めるような眼差しだった。


「バカね。こういう時くらい、自分の我が儘を言ってもいいのよ」


 その言葉が、ドクトルの涙腺を決壊させた。


 彼女の目からは止めどなく涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちる。そしてドクトルは、嗚咽混じりに自分の願いを口にした。


「私も……ケントさんと一緒にいたいです。ずっと、ずっと側にいてほしいです! だから……どこにも行かないで……」


「ドクトルさん……」


 彼女の望みを聞き届けた健人が、ゆっくりと立ち上がった。


 涙で顔を濡らしたドクトルが駆け寄ってくる。自分の人生を引き換えにしてでも守り続けたい一番大切な人をその胸に収めた健人は、二度と放さぬよう、強く強く彼女の身体を抱きしめたのだった。

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