第24話 健人の決断
水晶玉で事の成り行きを見守っていたカーシャが、絶望の表情を露わにさせていた。
言葉を交わさずとも、『万能の魔女』が浮かべるその顔がすべてを物語っている。一つも無いのだ。あの状況を打開させる策が。
「カーシャさん。あの魔人は……いったい何なんですか!?」
健人の怒号にビクッと肩を震わせ、カーシャはゆっくりと顔を上げた。
「……奴の名はギルティ・ローズ。魔王軍の最高戦力の一人として数えられている魔人よ。あまり表立って出てこないから情報は少ないけれど……ドクトルと同様、彼も悪魔との契約者らしいわ。しかも彼一人いれば、人類側の領地の半分は取れるとも言われているほどの実力者」
「なんで……そんな奴が……」
「さあね。今回、魔王軍側にとっては自陣の砦へ補給物資を届けるだけの任務だから、単に視察に来ただけなのかもしれない。……それとも、どうして今までこれほどの力を持った魔人が戦争に参加しなかったのかって疑問かしら? それは何も分からない。もしかしたら戦うには何か制約があるのかもしれないわね」
あまり表に出て来ないというのは納得できた。水晶玉に映し出された状況を見る限り、ギルティ・ローズが頻繁に出撃していたのなら人類側はすでに滅亡していただろう。なんせ砦を落とした精鋭たちが、一瞬にして皆殺しにされてしまったのだから。あれはほぼ災害である。
「ドクトルさんは……どうなるんですか?」
喉を震わせたまま問うと、カーシャは心苦しそうに首を振った。
「どうもこうもないわ。私たちにできることは、彼女が運よく生き残ることを祈るだけ」
「そんな……」
カーシャの絶望が伝染したかのように、健人の足元から力が抜けていく。
「何とかならないんですか!? 例えばカーシャさんの転移魔法で、ドクトルさんだけこっちに連れて戻ってくるとか……」
「ごめんなさい。残念だけど、それはできないの」
「なんで……」
「さっきも言ったように、ドクトルはもう他の悪魔と契約しちゃってるから」
「……?」
カーシャの返答から少し遅れて、健人は「あっ」と声を上げた。
ドクトルは、契約した悪魔から死後千年の労働という債務を負っている。穿った見方をするならば、その悪魔はドクトルに早く死んでほしいと思っていたとしても不思議ではない。それだけ早く労働力が手に入るのだから。
「日常的な世話程度ならともかく、生死を分けるような場面で私が手を差し伸べるようなことはできないわ。他人の契約に横やりを入れるということは、私自身がその悪魔に消されても文句が言えなくなってしまうもの」
「…………」
拳を握りしめた健人は、吐き出したい言葉をぐっと飲み込んだ。
カーシャ自身、悪魔の中では最底辺の存在だと言っていた。おそらくドクトルと契約した悪魔とは、天と地ほど力の差があるのだろう。カーシャを責めるのはお門違いだ。
他に何か方法はないのかと、健人は混乱で沸き立つ脳みそを必死で回す。
だが名案は浮かばない。無力な自分に対して苛立ちが爆発した健人は、歯を食いしばると唐突に駆け出した。
「待ちなさい! どこへ行くの!?」
カーシャが慌てて椅子から立ち上がった。
止まりはしたものの、背中で返す健人の言葉は氷のように冷たかった。
「ドクトルさんを助けに行きます」
「無駄よ。貴方が駆けつけたところで無意味なの。ただ死にに行くだけだわ」
「だからって、じっとしてなんかいられない!」
健人もすべて理解しているからこそ、ムキにならざるを得なかった。
自分が力になれないことは知っている。そもそも間に合わないかもしれない。いや、辿り着くことさえできない可能性だって十分にある。
だがそれらを差し引いたとしても、健人は感情を抑えることができなかった。
何がそうまでして自分を駆り立てているのか、それは健人自身にも分かっていない。恩か、それともドクトルに対する好意か。
否、そんな難しいことは考えていない。もしここでドクトルに何かあったら、今までお世話になったお礼も言えなくなる。それだけは……絶対にイヤだった。
無言のまま睨み合う二人。しばらくの後、折れたのはカーシャの方だった。
諦めたように肩を竦めた彼女は、ゆっくりと息を吐く。
「どうしようか迷っていたけど、そうまで言うのなら仕方がないわ」
「?」
「落ち着いて、ケント君。そしてこちらへいらっしゃいな」
有無を言わせないカーシャを訝しんだものの、健人は警戒しながら彼女の元へと寄る。
カーシャが健人の頭を無遠慮に触れる。その瞬間……あれだけ煮え滾っていった頭の中が、みるみるうちに鎮まっていった。
「な、何をしたんですか!?」
「貴方に掛かっていた洗脳を解いてあげたのよ」
「洗脳?」
その単語に心当たりがあるのは、ドクトルと出会った当初。彼女と言葉を交わすことで、自分は従順な兵士として働くよう洗脳されていたことに気づいたのだ。
「その通り。貴方は城の中で徐々に洗脳されていた」
「でも、それはドクトルさんが解いてくれたんじゃ……」
「いいえ、あの子は何もしていないわ」
数日前を思い出してみる。確かにドクトルも洗脳に関しては何も言っていなかった。
だとしても疑問はある。今の今まで城の奴らに対して恨みや憎しみを抱いていたし、二度と従うものかという反抗心もあった。カーシャが頭に触れる前から洗脳が解けていたと見て間違いないだろう。
しかしカーシャは、ゆっくりと首を横に振ることで健人の回答を否定した。
「違うの、洗脳が解けていたわけじゃないの。城へ誓っていた忠誠の対象が、そのままドクトルへ移行しただけ。だから貴方は、自分の命よりもドクトルを優先していた」
己の内側に意識を向けてみて気づく。カーシャの言う通り、ドクトルに対する執着心が薄くなっているような気がした。
「無理に助けに行って、二人とも命を散らす必要なんてない。貴方だけでも生き延びて……」
ドクトルのことは諦めなさい。
優しい言葉とともに健人を諭そうとするカーシャが、ハッと息を呑んだ。
心を読むまでもない。カーシャを見つめる力強い眼差しから、健人の意志が伝わってきた。
「そういうこと……なのね。洗脳なんて関係なく、貴方はすでにドクトルを……」
「はい。冷静になれたことには感謝します。でも、俺の頭の中はドクトルさんでいっぱいなんです」
きっかけは洗脳だったかもしれない。だが数日間ドクトルと生活を共にした思い出が、健人の心を本物へと変えていった。
自分の負けを認めたように、椅子に座ったカーシャが脱力する。
そして数秒あまり頭を抱えた後、彼女は投げやり気味に言った。
「……分かったわ、好きにしなさい。勝手に行って勝手に死ねばいいわ」
「……はい」
「それと、森の出口までは転移魔法で送ってあげる。魔獣に襲われて死んでしまうのもバカらしいしね」
「えっ」
健人が呆気に取られている間にも、書斎の中央に黒い靄のようなものが現れた。
「手助けするのはマズいんじゃありませんか?」
「問題ないわ。だって私が助けるのはドクトルじゃなくて、貴方だもの」
自分に協力することで、間接的にドクトルさんを助けることになるんじゃないか? と思った健人は即座に気づいた。カーシャは言外に言っているのだ。健人が助けに行ったところで、どうあがいてもドクトルの命を救うことはできない、と。
「一つだけ助言をさせて。さっきの見立て通り、ギルティ・ローズの能力には絶対に何か制約があるわ。攻撃範囲が狭いとか、時間制限があるとか……今のところは何も分からないけど、それを発見することが突破口になると思う」
すでに諦めていようとも、カーシャは真に健人の身を案じているのだ。
彼女の想いが伝わってきた健人は、靄の前で深々と頭を下げた。
「カーシャさん。本当にありがとうございました」
後悔はない。とでも言いたげに吹っ切れた笑みを見せた健人は、後ろ髪を引かれることもなく黒い靄の中へと飛び込んでいった。
その姿を見ながら、カーシャは成長した我が子を見送るような慈愛に満ちた笑みを溢す。
「本当に良い子ね。だから死なせたくはなかったんだけど……無理よね」
ドクトルとギルティ・ローズが対峙する水晶玉に目を移す。
まるで現実から目を逸らすかのように目を閉じたカーシャが、両手を組んだ。
悪魔が神に祈るなんて……などと自嘲することもなく、カーシャは二人の無事を心の底から願ったのだった。
数日ぶりのウェルリア東区は、一部だけ大きく様変わりしていた。
薄暗い荒野に浮かぶ、砦のシルエット。ほとんど何もなかったはずの東門付近で、巨大な軟体動物のような触手が何本も蠢いている。先ほど水晶玉で見ていた通りなら、あれがギルティ・ローズが放った根っ子なのだろう。
それらは未だ何かを襲うように激しい動きを繰り返している。人類側に生き残りがいるという何よりの証拠だ。
『ケント君、聞こえるかしら?』
「カ、カーシャさん!?」
突然、虚空からカーシャの声が聞こえ、健人は慌てて周囲を見回した。
しかし姿はどこにも見えない。おそらく通信魔法のようなものなのだろう。
『貴方がやろうとしていることを、私はすでに知っている。実を結ぶかどうかは別として、貴方がきっちりと完遂できるようナビゲートしてあげるわ』
「本当ですか!?」
『とにかく急いだ方がいいわ。ドクトルも、もう長くは持ちそうにない。今のところ砦方面に回り込んでいる魔人は見当たらないから、全力でダッシュしても気づかれることはないでしょう』
朗報だ。砦の中に敵がいないのなら、アレが回収できる。
お礼を言った健人は、ドクトルが生きていることを信じて一目散に駆け出していった。
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