第10話 ドクトルさんのお礼

 そこは地獄だった。


 石造りの大きな砦から出撃した健人は、目の前に広がる光景を見て戦慄していた。


 足元には、地面を覆いつくすほどの兵士の死体。その先で、残存する兵士たちが魔物の軍勢と戦っている。人と獣を合成させたような化け物が、雄叫びを上げながら次々と人間を屠っていた。


 血の匂いが立ち込める戦場にて、兵士長の号令が響き渡る。


 突撃。たった一ヶ月しか訓練していない新兵に向けて、魔王軍を押し留めるだけの壁になって来いと、彼は無慈悲な命令を下した。


 恐怖を吹き飛ばすように叫び声を上げ、加勢に走るクラスメイトたち。だがしかし、足が竦んでいた健人はみんなから一歩出遅れてしまっていた。


 それが幸運だったのか、それとも不運だったのか。今になっても分からない。


 前方から飛んできた火球に身を焼かれて蒸発する者。プテラノドンのような姿をした魔物の鉤爪に首を刎ねられる者。槍を装備した兵に胴体を貫かれる者。ほんの一ヶ月前まで机を並べて談笑していたクラスメイトたちが、ほんの数時間前まで肩を並べて不味い朝食を共にしていたクラスメイトたちが、次々と殺されていく。


 自らの元へ徐々に迫り来る『死』を見ていたからこそ、健人は逃げる決心ができた。


 人類側の砦ではなく、魔王軍が押し寄せてくる正面でもなく、誰も争っていない方向へとただひたすら走って行く。


 しかし途中から何故か上手く走れなくなった。


 振り返って見れば、何人ものクラスメイトが自分の脚を掴んでいることに気づいた。死体と化した彼らは、一人で逃げた健人を雁字搦めにしてくる。


 ずるい、ずるい、ずるい! お前も一緒に死ね!


 クラスメイトたちの死体は健人を責め立てるように叫び、地獄へと引きずり込もうとする。もちろん健人も必死で抵抗するのだが……心のどこかで、それでもいいかという諦めがあるのも事実だった。


 みんなと一緒に死ねたなら、どんなに楽だったことか。


 そう受け入れるのと同時に、健人の身体が無数の槍で貫かれた――。


「――ッ!?」


 夢の中で自らの死を体験し、健人は声も無く飛び起きた。


 またいつもの悪夢だ。


 果たしてクラスメイトは何人死んで、何人生き残ったのか。


 街の関所の役人は、ほとんど全滅と言っていた。全員殺されたのなら、『ほとんど』なんて表現は使わないだろう。ならば何人かは生きている……はず。


 いや、仮に生きていたところで、次の戦闘に向けてまた奴隷の如く訓練させられているに違いない。実際に一ヶ月も体験した健人には、城の奴らのやり方は容易に想像できた。


 だからこそ、健人は自分自身に苛立ちを覚えてしまう。


 自分だけこのような安穏とした生活を送っていていいのか……と。


「……くそっ!」


 思考が悪い方向へ入りそうになり、彼はベッドを思い切り殴りつけた。






 日課の素振りを終えた後、ドクトルと一緒にいつものような朝食が始まった。ほんの少しだけ豪勢となった食事の中で、彼女は淡々と今日の予定を口にする。


「今日はシーツを洗いましょう。これで今貯水している水が無くなると思いますから、その後はまた沢へ水汲みですね。陽が沈むまでに時間があれば、薪拾いか木の実の採集でもしようかと思っています」


「……ああ、分かった」


 健人の応答の鈍さに、ドクトルは食事の手を止めて怪訝な顔を見せた。


「……ケントさん、大丈夫ですか?」


「何が?」


「あまりお顔が優れないようですが……」


 心配そうに覗き込んでくるドクトルを見て、今の対応があまりにも素っ気なかったことに気づいた。


 自分の顔に触れる。どうやら寝不足のようだ。まあ、あんな悪夢を毎日のように見ていれば当然といえば当然の健康状態なのだが……健人はドクトルを心配させないよう、粘土を捏ねるように表情筋を弄り、無理やり笑顔を作ってみせた。


「大丈夫だよ。ちょっと寝ぼけてたみたいだ」


「寝ぼけてる、ということは、寝不足の可能性もあります。ケントさんは私よりも早く起きられていますので、今日は少しお休みになられた方がいいかと」


「いや。居候させてもらってる身で、手伝いをサボるわけにはいかない」


 梃子でも動きそうにない健人の物言いに、ドクトルは早々に黙り込んだ。


 文句を言いたそうに唇を尖らせるも、相手の意見を尊重するため彼女はぐっと言葉を飲み込む。実際、健人が強がっているのは見え見えだった。真正面から彼の顔を窺っているドクトルにとっては、心配するなと言う方が無理な話である。


 説得を諦めたドクトルは、大きくため息を吐いた。


「分かりました。私も魔法で体力回復くらいはできますが、眠気を覚ましたり疲労感を取り払うことまではできませんので、そこは承知しておいてください」


「怪我をしてもいないのに、魔法に頼るつもりはないよ」


 ドクトルと一緒に街へ行った時のことを思い出す。


 彼女は大々的に白魔法を使うことを拒んでいた。ならば、なるべく魔法を使わせない方がいいだろう。頼るのは、日常生活に支障が出るくらいの大怪我や命に関わる時くらいだ。


「大丈夫だって。あんまりにも無理そうだったら、すぐに休むから」


「……ならいいんですが」


 あまり信用していない目つきで睨んでくるドクトルに対し、健人は空元気で微笑みかけるのだった。






 だがしかし、誰もが自分の限界を心得ているのなら、過労死なんて言葉は生まれない。わずか十七歳という年齢にして、健人はそれを知ることになった。


 朝食を終え、予定通りベッドのシーツを洗って庭先へと干す。そして前と同様、ドクトルと一緒に水汲みを行っていたのだが……二往復目にして、健人の身体は限界を迎えてしまった。


 沢から水を汲み、バケツを持ち上げたところで足元が揺らいだのだ。


「えっ――?」


 呆気に取られた声を上げるも、もう遅い。バランスを崩した身体を支えようと咄嗟に片足が出たが、ここは川の上流。握り拳以上のごつごつした石で足首を挫き、健人の身体は無慈悲にも傾いでいく。


「ケ、ケントさん!」


 遠くでドクトルの叫び声が聞こえたような気がした。


 しかし沢縁で倒れた健人の意識は、彼女の呼び声で引き上げられることはなく、そのまま深い眠りの底へと堕ちていってしまった。






「笹岡。おい、笹岡! 起きろ!」


 脳天に衝撃が奔り、健人は弾かれるように飛び起きた。


 頭を上げれば、そこは学校の教室だった。健人が座る席の横には、鬼のような形相で睨み下ろしている教師が。そして授業中の居眠りという失態を犯した健人に向け、クラスメイトたちは呆れたり、バカにするように笑ったりしていた。


 寝ぼけ眼で周りを見渡した健人は、呆然としたまま呟く。


「みんな……生きてる?」


「生きてる、だと? 何を寝ぼけたこと言ってるんだ? 誰かが死ぬ夢でも見ていたのか?」


「……夢?」


 ああそうか。異世界に召喚され、戦場に駆り出されたみんなが次々と殺されていく光景は、全部夢だったのか。そりゃそうだよな。異世界なんて存在するはずはない。何もかもが元通りで、一安心一安心。


 ……そんなわけがないことは、自分が一番よく知っていた。


 健人が現実を認めるのと同時に、教室内が眩い光に包まれる。あの日、あの時間、健人たちを異世界へと導いた光だ。しかし夢の中で起こった召喚魔法は、混乱と訓練に満ちた一ヶ月間が省略される。次に現れたのは、亡骸へと変わり果てたクラスメイトの姿だった。


 頭部が無かったり、槍で串刺しにされていたり、全身が黒焦げになっていたり。健人の中に潜む亡霊たちが、静かに彼の方を見つめていた。


 心の底から戦慄した健人は、机の上へ額を押し付けた。


 夢の中でする謝罪に意味はないと分かりながら。


 ごめんなさい、ごめんなさいと、彼は繰り返し謝り続けた。






 胸が締め付けられるような不快感を抱きながら、健人はゆっくりと目を開けた。霞んだ視界には、青空と、誰かが自分の顔を覗き込んでいる姿がある。


「ドクトル……さん?」


「あぁ、ケントさん。起きられたのですね。よかった……」


 夢にうなされたように名前を口にすると、ドクトルが安堵のため息を漏らした。


 ただ、視界がちょっと変だ。彼女の顔があまりに近いのと、まるで背面に光源があるかのように影が差してしまっている。そのため徐々に鮮明になってくる視界でも、彼女の表情を読み取ることは難しかった。


 また全身に意識を向けてみると、自分が仰向けで横になっていることに気づいた。さらに頭を包む、枕みたいに柔らかい物体。これらを総合して、己の状態を導き出したところ……。


「わっ……」


 ドクトルに膝枕をされていることに気づいた健人は、慌てて頭を上げた。


 頬にひんやりとした水しぶきが触れたため、周囲を見回してみる。どうやらここは、いつも水汲みで来ている沢の岸辺。大きな岩の上で、健人はドクトルの膝に身を預けていたのだ。


 昏倒と膝枕。二つの意味で恥じらいを感じた健人は、照れ臭そうに頭を掻きながらドクトルに訊ねた。


「……俺、何分くらい寝てた?」


「だいたい十分くらいですね」


 意外と短かったなと思いつつも、彼女を心配させた事実には変わりがない。健人は岩の上で両手をつき、深々と頭を下げた。


「ごめん」


「まったくです。あれだけ忠告したのに……。もう少しでケントさんを抱えて家まで戻るところでしたよ」


「……本当にすみませんでした」


 返す言葉も無く、健人は目を泳がせた。


 ドクトルもドクトルで、ぷんぷんと擬音語が出そうなくらいに頬を膨らませる。ただ本気で怒っているわけでもなく、すぐに目尻を下げた彼女は健人の方へと両手を差し伸べてきた。


「はい」


「?」


 優しく微笑んでいる顔からして叩かれるわけではなさそうだが、両腕を大きく広げる意図が分からず、健人は呆然としたまま首を傾げた。


「はい、って?」


「ケントさんが倒れたのは寝不足が原因だと考えられますが、その寝不足自体が精神的な落ち込みによるものだと思われます。だから抱きしめてあげます」


「抱きしめてあげます、って……」


「人肌に包まれると、幾分か楽になりますよ。小さい頃はよく、不安で泣き喚く弟を抱きしめて宥めていましたから」


「ドクトルさんって、弟がいるのか?」


 問うと、口が滑ったとでも言わんばかりにドクトルが表情を歪めた。


 その反応を見て、健人も反省する。咄嗟に出た疑問だったとはいえ、今のはあまりにプライベートすぎた。バツが悪そうに頭を掻きながら、岩の上へと視線を逸らす。


 気まずい雰囲気が訪れたのも束の間、咳払いをしたドクトルが気を取り直して再び健人の方へと腕を伸ばしてくる。


「ささ、遠慮なさらずに」


「うわっ」


 健人の頭を掴んだドクトルが、強引に自分の胸へと押し付けた。


 ふわりと舞った甘い匂いが鼻腔をくすぐり、頬が柔らかな感触に包まれた。最初は緊張からか身を強張らせていた健人だったが、ドクトルの優しさが彼の硬直を徐々に解いていく。身体が弛緩していくのをドクトルも感じたのか、包み込んだ両手で赤ん坊をあやすように、健人の頭を撫で始めた。


 心地良い感触に、ついつい眠ってしまいそうになる。


 ただもちろん、健人も健全な男子。ドクトルの行為は彼を精神的に癒そうとしているものだと理解しつつも、どうしても少しは考えてしまう。いつも厚手のローブを着ているから分からなかったが、ドクトルさんって意外と大きい……。


「ケントさん」


「は、はひ!?」


 卑しいことを考えていた最中だったためか、声が裏返ってしまった。


 胸に埋もれながら、軽く頭を傾ける。ドクトルは特に気にした風もなく、優しく問いかけてきた。


「ケントさんは誰に謝っていたんですか?」


「誰にって?」


「眠っている間、ずっと寝言で謝っていましたよ。ごめんなさい、ごめんなさいって」


「…………」


 まさか口に出ていたとは思わなかった。


 少しだけ躊躇った後、正直に答える。


「クラスメイト……俺の友人たちにだよ。前にも話したけど、俺は死ぬのが怖くて、戦ってる友人を見捨てて逃げてきたんだ。だから謝ってたんだと思う」


「では、どうして謝ってたんですか?」


「どうしてって、そりゃ……」


 当たり前じゃないか。と答えようとして、言葉に詰まった。


 改めて言われて、疑問に思う。どうして謝っていたのだろう。見捨てたから? 一人で逃げたから? 生き残ってしまったから?


 そもそもクラスメイトは本当に自分を責めているのか?


 いや、さらに大前提として、健人が逃げたことすらも知らずに死んだのでは?


 結局のところ、クラスメイトから恨まれているという感覚は錯覚であり、健人の謝罪も自己満足に過ぎなかった。胸の内に抱いているものは、ただの後悔なのだから。


「自分を追い込むほど思い詰めてても、実は思ったより重大じゃないことの方が多いんです。後悔も悪いことではないのですが、今の自分を大切にしてください」


 さらに力強く抱きしめたドクトルが、健人の耳元で囁いた。


「泣いてもいいんですよ」


「え?」


「ケントさん、私の家に来てから泣いていないでしょう? 思う存分、我慢せずに泣いてください。私が許します。一度大声で泣いたらスッキリしますよ」


 どうして彼女は今一番欲していることが分かるのだろうか?


 ただそう疑問を抱くのと同時に、健人は自分が泣きたいんだということを自覚してしまう。決壊した涙腺は抑え込むことができず、健人はドクトルの胸の中で大声を上げて泣き叫んだのだった。






 沢縁の岩の上でしばらく休んだ後、二人は家へ向けて森の中を歩いていた。


 ただし水の入ったバケツを持っているのはドクトルだけだ。健人は泣き腫らした目をこすりながら、ひたすら彼女の後ろをついて行く。


「……本当に手伝わないでいいのか?」


「構いません。今日の水汲みは一人でやりますので、ケントさんは家で休んでいてください」


「でも……」


「反論は許しませんよ。休むのも仕事の内です。それに、また倒れられても面倒見きれませんからね」


 手厳しいなぁと思いつつ、健人はドクトルに見えないように苦笑いを浮かべた。


 そして何度も口にした感謝を、もう一度言葉にする。


「ドクトルさん、本当にありがとう。おかげでだいぶ楽になったよ」


「そう言っていただければ幸いです。ただ先日のジャムのお礼も兼ねていますので、そんなに畏まらないでください。お互い、持ちつ持たれつですよ。ケントさんが居ることで、私も助かっていますから」


 肩越しに振り返ったドクトルが、不意に微笑んだ。


 その笑顔が眩しかったからか、それとも役に立っていると言われたからかは分からないが、健人は照れ臭そうに頭を掻いた。


「にしても、やっぱりドクトルさんの白魔法はすごいな」


「……? 魔法なんて使っていませんよ。ああ、挫いた足首を治したことですか?」


 本当に伝わっていない様子で、ドクトルはきょとんとしていた。


 あれだけ心に蔓延っていた鬱屈が、今ではすっかり晴れていた。しかも治療方法は、抱きしめて泣かせただけ。これを魔法と言わずして、なんと言うか。


 誰が何と言おうと、ドクトルの白魔法は最強だ。健人は心の中で、そう断言した。

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