第8話 ドクトルさんとお買い物3

 少しだけ誤解をしていた。


 ゲーム中に登場する白魔導士の主な役割は、パーティのHPを回復させたり、状態異常を治すなど、モンスターと戦う前衛の援護にある。その前衛がいなければ敵を倒すことはできないし、白魔導士がいなければパーティは徐々に疲弊し、いずれは全滅する。バランスの良いパーティとは、前衛と後衛、持ちつ持たれつの関係で成り立っている。というのが、健人の中での常識だった。


 だがしかし、それはあくまで戦闘時でのこと。


 街などのモンスターが出ない地域に足を踏み入れれば、前衛は途端にお荷物となる。もちろん次の戦闘までの休憩であることは重々承知ではあるが、前衛が街の中で役に立つことなどほとんどない。なぜなら戦う必要が無いのだから。


 ただ白魔導士だけは違う。ここがゲームではあり得ない盲点だった。


 モンスターがいなくとも、人間は怪我を負うし病気も患う。それらを治せるのは白魔法を使える魔導士だけ。つまり街への帰還を最も期待されているのは、勇者でも英雄でもなく、白魔導士なのだ。ゲームの中のNPCは怪我も病気もしないため、健人も今まで気づかなかった。


 そしてそれはこの世界でも同じこと。


 誰もが普遍的に魔法を使える世界。紛争地帯でもない街の中では、高等な白魔法を使える魔導士は何よりも頼れる存在なのである。


 否、頼られすぎていた。ドクトルに限っていえば、頼る域を越えていた。


 昨日の朝、ドクトルが口にした言葉を思い出す。誰だって死ぬのは怖い。そんなことは当たり前だ。この世界の住人だって、死にたくないのは誰もが同じ。


 だが、ドクトルが居ればどうか。どんな大怪我を負っても死ぬことはないし、仮に死んだとしても蘇生すら可能なのだ。そんな都合の良い存在を近くに置いておきたい街の人たちの気持ちは、痛いくらいに理解できる。


 だから彼らは、ドクトルを街に住まわせたかった。


 ドクトルのことを想ってではなく、自分たちのために。


「ケ、ケントさん……ちょっと痛いです」


「あっ……」


 気づけば街の外の平原にいた。


 頭に血が上っていたため記憶は曖昧だが、ドクトルを引っ張ったまま街の入り口まで一心不乱に歩き、彼女の指示に従って関所の役人へと許可証を返した後、来た道をそのまま戻っている途中だったようだ。


 強く握りしめていたドクトルの手を放す。城壁はだいぶ遠い所にあった。


「歩き疲れましたので、少し休みましょう」


 やや緩やかな土手となっている川の側で、ドクトルが腰を下ろした。


 気まずく頭を掻く健人も、素直に彼女の横へと座る。


「……ドクトルさん。勝手なことして、すみません」


「いえ、ケントさんが謝るようなことではありませんよ。むしろ私がお礼を言わなければいけません。本当にありがとうございました」


 目を細めたドクトルが、健人に向けて柔らかく微笑んだ。


 澄んだ瞳でまっすぐ感謝の気持ちを伝えられた健人は、ついつい顔を背けてしまう。気恥ずかしさからか、それとも無理やり街の外へ連れ出した申し訳なさからか。ただ彼女の瞳を直視できない理由がどうあれ、心音が聞こえそうなほど鼓動が高鳴ったのは確かだった。


 そのまま静かな風に揺られ、しばらく二人の間に沈黙が降りる。


 川に落ちた雑草の端が街へと流れ着く頃、ふとドクトルが訊ねてきた。


「そういえば、卵は割れていませんか?」


「あっと……」


 まったく気にも留めずに黙々と歩いてきたため、かなり心配になった。


 横に置いたバスケットを覗く。藁で包まれている卵たちは、罅一つ無いようだった。


 安堵のため息を吐いた健人は、ドクトルへと問う。


「さっきの騒ぎって、なんだったんでしょうね? まるでドクトルさんが怪我を治すこと前提の演技みたいな印象を受けましたけど……」


「やはりケントさんも気づいていましたか。たぶんその通りです。街の人々は、あの少年にお小遣いか何かをあげて、わざと馬車の前へ飛び出させたのでしょう」


「なんでそんなことを?」


「おそらく、我々はあなたを必要としているというアピールです」


「?」


 それ以上は特に説明も無く、彼女は再び黙り込んでしまった。


 言いたくもないことを無理やり口にさせるのも悪いなと思った健人は、別の話題を振った。


「ドクトルさん。その……質問してもいいですか?」


「ええ、どうぞ」


「ドクトルさんが街に住もうとしない理由って、人を治すのが嫌だからなんですか?」


「…………」


 少しの間の後、ドクトルが静かに首を横に振った。


「私としても、人助けになるのなら存分にこの力を使いたいとは思っています。ただ……」


 言い淀んだ彼女は、抱えた膝の間に顔を埋め、ぽつりと呟いた。


「私は少し……人が怖いのかもしれません」


「人が怖い?」


「だいぶ昔の話です。初めてペペナ草を売りに行った時、先ほど会った医者の青年に頼まれて患者の病をすべて完治させました。みんな大喜びで、ものすごく感謝されて、私も人の役に立ったことで鼻が高かったのですが……ふと感じてしまったんです。私に街に住まないかと勧めてくる彼らの目が、森に棲む魔獣みたいで……すごく怖かった」


「…………」


 川の対岸を見つめながら紡いだ言葉は、罪を告白するかのように震えていた。


 だが、ドクトルを街へ留めようとする民衆に対し、彼女が恐怖心を抱いてしまうのも無理のないことだった。


 まるで神を崇め奉るかのような民衆の振る舞いを思い返してみれば分かること。人の欲には際限が無い。あらゆる傷や病気が治る万能薬を側に置いておきたいという欲求は当然のものであり、また多くの人々の欲望に晒されるには、齢十八の彼女ではあまりにも幼すぎた。


 人間の汚い部分を目の当たりにし、耐えられなかったからこそ、彼女は今でも森の中に住んでいるのだろう。事情も知らず街に住めばいいのにと口走ったことを、健人は後悔していた。


「……だからさっき、病院に入ろうとしなかったのか」


「そう……ですね。入院患者が私の姿を見てしまえば期待してしまうでしょうし、私も見て見ぬふりはできませんから……」


 もう二度とあの目を見たくはない。尻すぼみになる言葉が、そう物語っていた。


 気丈に振舞ってはいるが、彼女は普通の少女だった。いや、普通以上に、他人の痛みがちゃんと分かる優しい心の持ち主なのだ。だからこそ、まるで自分を責めるような呟きが漏れてしまうのだろう。


「やっぱり……私が間違っているのでしょうか?」


「間違ってる、って?」


「私には、いろんな怪我や病気を治す力があります。にもかかわらず、入院している患者ですら治すことを拒んでしまっている。私がもっと積極的に魔法を使っていれば、救われた命もあったはずなのに。私が街に住むことで多くの人が幸せになるのなら、それが正しい選択なのではと思いまして……」


 あぁ、この少女は洗脳されていた時の自分と同じだ。と、健人は思った。


 治す力があるのに治さないことへの罪悪感。自分が白魔法を独り占めしているという思い込み。拒絶したいほど嫌なはずなのに、他者の為と言い聞かせて己を犠牲にしようとする精神。今のドクトルは間違いなく、戦場に出ることは己の使命だと洗脳されていた、数日前の健人と同じ状態だった。


 ならば……と決心した健人は、大きく息を吸った。


 洗脳の解き方は、彼女自身からすでに学んでいるのだから。


「いいや、それは違います」


 力強い健人の断言に、ドクトルは目を見開いた。


 そして「あんまり偉そうなこと言える立場じゃないですけど……」と断りを入れてから、言葉を続けた。


「街の人がドクトルさんを求めるのは理解できるし、ドクトルさんが治療を拒むのも間違いじゃない。お互いの要望がすれ違ってるからって、ドクトルさんが気負う必要はないんです」


「でも……私が治療をすることで、多くの人が救われるのは確かではありませんか?」


 それは昨日、まさに彼女自身が否定した返答だった。


 あの時は、どちらの陣営に付けばいいかなどと言われてはぐらかされた。しかし健人に言われ、街の人に言われ、本当に自分が正しいのか揺らいでしまったのだろう。そうなった責任は健人にもある。


「ドクトルさんが動けば多くの人の命が助かるのは事実です。でもその前に、まず最初に救わなきゃいけない人がいるんです」


「最初に救わなきゃいけない人? 誰ですか?」


「ドクトルさん自身です」


 喉を震わせながら放った言葉は、ドクトルの呼吸を止めた。


 じっと見つめる健人の視線から逃げるように、彼女は目を泳がせる。


「私は……怪我なんてしていません」


「そうは見えませんけどね」


 ビクッと揺れた肩は、落ち込んだように小さく項垂れてしまった。


 ただ健人としても、ドクトルを言葉攻めしたいわけではない。できるだけ高圧的にならないよう、彼は口元を綻ばせた。


「正確には、怪我をしようとしている……というか、自分を殺そうとしている。嫌々他人に従うってのは、そういうことだと思います」


「…………」


「もちろんドクトルさんが患者を治したいのであれば、そうすればいい。でも治療しないからといって、誰かが責めるわけじゃない。だってドクトルさんは自由なんですから」


「自由……」


 まるで初めて耳にした単語であるかのように、彼女は同じ言葉を繰り返した。


 それほどまでに、自由という言葉はドクトルにとって馴染みのないものなのだろう。いや、健人だって自分が自由だなんて意識したことはない。改めて口にしてみたところで、その意味は漠然としていた。


 だがしかし、一つだけ確かなことがあった。


 馬車に轢かれた少年を治療し、民衆から褒め称えられた時、ドクトルは笑っていなかった。それどころか、自分の行いが間違いであると不安がっているように、顔が青ざめていた。それは自由な人間のする顔では……なかった。


 だからこそ健人はドクトルに向けて笑いかける。彼女にももっと笑ってほしい、もっと自由になってほしいと願っているから。


「自分を犠牲にしてまで他人に尽くす必要なんてない。まずはドクトルさん自身が自由になってから……と、俺は思います」


「…………」


 ドクトルの視線が健人から外れた。ただ先ほどみたいに、痛い所を突かれたような動揺があるわけではない。定まっていない焦点は、健人の言葉を深く噛み締めているようだった。


 膝を胸の前へと抱き寄せながら、彼女はゆっくりと視線を伏せる。そして今度ははっきりと答えを求めるように、健人へ向けて問いを投げた。


「本当に……それでいいのでしょうか?」


「何が正しいかなんて、俺にも分かりませんよ。でも……少なくとも、俺はドクトルさんの味方です。ドクトルさんがどんな選択をしようとも、俺は尊重します」


 命の恩人の進むべき道は、できるだけ応援する。それもまた恩返しだと健人は思った。


 話を終えると、ドクトルは完全に顔を膝の中へと埋めてしまった。健人の方からは耳しか見えなくなる。そのまま数十秒、お互いの間に穏やかな時間が訪れたのだが……長い沈黙が、健人に冷静さを取り戻させた。


 いくらなんでも今のセリフは臭すぎた。


 出会って間もない相手にするような説教じゃない。しかも相手は女の子。無条件で味方をするなんて宣言、告白したようなものじゃないか。


 なんてことを自覚するやいなや、徐々に顔が熱くなってくる。それと同時に軽蔑されたらいやだなという不安が募っていき、恐る恐るドクトルの方を窺ったのだが……彼女は何故か座ったままの姿勢で両足をバタバタとさせていた。


 これはどんな感情なんだ? っていうか悶絶したいのはこっちなんだが。


 などと健人が不満に思っていると、唐突に足の動きが止まる。そして大きく吐き出されたため息とともに、ドクトルから辛辣な言葉が返ってきた。


「……まったく。味方だというのなら、約束の一つくらい守ってみせてくださいよ」


「約束?」


 はて、何か約束なんてしたっけかな? と惚けていると、膝を崩した彼女が身を乗り出してきた。ほんのりと赤く染まった顔が迫り、健人は思わず仰け反ってしまったのだが……それ以上に、首が後ろへと弾かれる。


 ドクトルが人差し指で健人の額を小突いたのだ。


「敬語、戻ってますよ。ペナルティ一つです」


「あっ……」


 言われて気づいた。いつの間にか敬語になっている。


 一体いつから? と問おうとしたものの、跳ねるように立ち上がったドクトルが背を向けたため断念した。


「あんまりのんびりしてると日が暮れてしまいますので、早く家へ帰りましょう」


「……そうだな」


 まあ、元気になってくれたのなら何よりだ。


 ちょっとばかし鼓動の高鳴った胸を押さえながら、健人もまた自分のバスケットを手に取って立ち上がった。


「ところで、ペナルティって何なんだ?」


「ふふっ」


 明確な答えを示すことなく、ドクトルは意地悪な笑みを浮かべるのみ。


 そして『早く来ないと置いてくぞ』とでも言わんばかりに、森へ向けて早足になる。


「いや、ふふっ……って。なんか怖いんだけど……」


 未知なる罰則に怯えながらも、帰る場所が一つしかない健人は、足早に帰路を歩むドクトルの背中を追いかけるのだった。

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