第5話 妖精の誘い

 夕食を終えて部屋に戻る頃には、陽は完全に落ちていた。


『太陽石』の入ったランタンに布を被せ、ベッドへ横になる。昼間の労働の疲れもまだ残っているため、早々に眠れるものだと思っていたが……残念ながら、巡りに巡った思考は意識を眠りへと導いてはくれなかった。


 思い出されるのは、夕食で語ったこと。


 どれだけのクラスメイトが生き残っているのか。自分一人だけ助かってよかったのか。これからどうするか。


 そう、いつまでもドクトルの世話になるわけにはいかないのだ。何とかして元の世界に戻る方法を探さないと。やはり一度城へ侵入し、座標とやらを見つけるのが一番確実か? だが脱走兵の自分が、再び城へ入ることなどできるのか?


 懲罰はもちろんのこと、さらに強く洗脳されるかもしれないし、最悪処刑されるかもしれない。のこのこと城へ戻るのは得策ではない。


 そんなことを考えているうちにも、うとうととし始めた。意識が朦朧とし、夢と現の区別がつかなくなる。


 だが次の瞬間、耳元で囁かれた声により、一気に現実へと引き戻された。


「ケントさん。ササオカケントさん。起きてください」


 重い瞼を強引に開けながら、ゆっくりと身体を起こす。


 暗闇の中、ベッドの横でドクトルが立っているのが分かった。


「ドクトル……さん? どうしたんですか?」


「ケントさん、元の世界に帰る方法があります」


「えっ?」


 あまりの唐突な宣言に、一気に目が覚めてしまった。


 ただ理解はまったく追い付いていない。思考能力を夢の中に置いてきてしまったのか、約束も忘れて敬語になってしまう。


「それは……本当ですか?」


「ええ。森の中にある泉が、ケントさんの世界と繋がってるみたいなんです」


「はあ!? そんな偶然が……」


「とにかく、急いで来てください」


 促されるまま、健人はベッドから立ち上がった。


 何が何だか分からない。そういった意味の表情を全面に押し出している自信はあったが、ドクトルは詳しい説明もせずさっさと家から出て行く。未だ半信半疑ではあるものの、健人も仕方なく彼女の背中を追った。


 周囲の木々が輪郭でしか捉えられないほど真っ暗な森の中を、足元に気をつけながら走る。昨夜はよく木にぶつからず走り続けられたなと思うのと同時に、ドクトルを追う足をさらに加速させる。また昨日のような目には遭いたくなかった。


 昼間の薬草採集や沢とは真逆の方向へ数分ほど走ると、急に視界が開けた。


 茂みの向こうには、大きな泉があった。広さは外野も含めた野球場程度だろう。空が葉っぱで遮られていないため、丸々と大きく浮かぶ月の光を余すことなく反射し、まるで泉自体が一つの宝石のように美しい輝きを放っていた。


「この泉が?」


「はい。ケントさんの世界のどこかの泉と繋がっているはずです」


「なんでいきなり……」


「今日が満月だからです」


 空に浮かぶ大きな月を見上げたドクトルに釣られて、健人もまた顔を上げた。


「月光には強力な『宝氣』が宿っていて、それが満月くらい強いものになると、異世界への扉を開けてしまうんです」


「でも、座標は……」


 異世界へ繋がってる云々はまあいい。だがそれが本当に健人の世界なのかどうかは、昼間の説明と明らかに矛盾していた。


 ただドクトルの顔を見た途端、それを問う気が失せた。真剣な眼差しでこちらを見つめる彼女を、手放しで信頼しないといけないような気がしたのだ。


「……分かった」


 力強く頷いた健人は、ドクトルに向けて深々と頭を下げた。


「今日一日、本当にお世話になりました。ありがとうございます」


「ええ、こちらこそ。元の世界に帰っても、お元気で」


 頭を上げ、泉の方へ向き直った健人は、水の中へ一歩踏み出した。


 靴の中が浸水し、身を震わせる。だが耐えられないほどの冷たさではない。我慢しろと自分に言い聞かせ、歯を食いしばりながら一歩一歩泉の中へ進んでいく。


 水面が腰の高さまで来たところで、健人はふと立ち止まった。


 もう一度、最後にもう一度だけ、ドクトルの顔を見たい。


 その欲求のまま健人はゆっくりと振り返った……その時だった。


「ふふっ、お馬鹿さん」


「えっ……?」


 人を小馬鹿にした声とともに、トンっ、と背中に衝撃が奔った。バランスを崩した健人は、足を縺れさせて泉の中へダイブしてしまう。


 何が起きたのか分からず、慌てて両手両足をバタつかせる。一瞬パニックに陥ったものの、元々水の中に潜るつもりだったので冷静になるのは早かった。


 体勢を整えるため、呼吸を止めて自ら水中へ頭を潜らせる。そこで彼は見てしまった。腰までしかなかった水深はいつの間にか底が見えないほど深くなっており、さらに黒い触手のような物体が健人の足に絡みつこうとしている光景を。


「――――ッ!?」


 慌てて足を引くも、もう遅かった。


 絡みついた触手が、健人を水底へと引きずり込もうとする。


「がはっ……がっ……」


 今度は完全にパニックになってしまっていた。抗えないほどの力は『死』を連想させ、自由に身動きの取れない状況が酸素とともに思考能力を奪っていく。意味も無く、ただひたすら手足を動かすのみ。


 せめて、せめて何か掴まる物があれば……。


 月がたゆたう水面に向けて必死に手を伸ばした、その時だ。


 突然、腕に何か紐状の物が巻き付いてきた。それは手首で自動的に片結びになると、健人の身体を引っ張り上げるためにピンと張る。同時に、脚に絡みついていた触手の力が緩んだ。


 そのまま網にかかった魚のように、健人はゆっくりと岸へ引き上げられた。


「げほっ、げほっ……」


「ケントさん、お疲れ様です。大丈夫ですか?」


 四つん這いになって水を吐き出す健人の頭に、ドクトルの声が落ちた。


 手首に巻かれている紐を伝うようにして、健人は顔を上げる。目の前で健人の顔を覗き込んでいるドクトルの表情は、特に心配した様子も無く、仕事を終えた部下を労うようなあっさりとしたものだった。


「ドクトルさん……これは、いったい……」


 未だ軽く咳き込みながらも、健人は問いただす。


 すると気づいた。ドクトルの手から伸びている紐は二つあり、健人の手首とは別の方向へもう一本伸びていることを。そして……。


「こらー、ドクトル!! 放しなさいよ!!」


 もう一本の先端が、非常に賑やかだった。


 そちらに視線を移す。羽の生えた小さな人が空中で紐に縛られ、ドクトルを罵倒しているようだった。


「ククルゥさん。少し静かにしてください。ウンディーネさんが起きてしまいます」


「だったら放さんかい! ドクトルのボケー!」


 ハスキーな声で喚く小さな人が必死で逃げようとするも、ドクトルの紐からは決して逃げられそうにはなかった。


 状況の理解が追い付かず、健人は震えた声とともに小さな人へ指を差す。


「えっと、この小さいのは……?」


「小さいって言うな、ボケー!」


「ククルゥさん、黙ってください。……この方は妖精のククルゥさんです。ケントさんに説明したいのは山々なのですが……すみません、少し泉から離れましょう」


「え? あ、あぁ……」


 辺りを警戒するように首を回したドクトルに促され、健人は立ち上がった。


 ただそれほど離れる必要はなかったみたいだ。茂み一つ越えたところで、彼女は再び健人の方へと向き直る。


「まず最初にお教えしておきます。たぶんケントさんは私を追ってここまで来られたのだと思いますが、それはククルゥさんが魅せた幻覚です」


「幻覚……」


 呆然としたまま聞いていた健人だったが、とある事実に気づいた。


 そういえば部屋で起こされた際、暗闇にもかかわらずドクトルの顔がはっきりと視えていたのだ。つまりアレはドクトル本人が立っていたわけではなく、健人自身が脳内で作り上げた幻影だったのだろう。


 そこで今までのやり取りを思い出し、健人は絶望の声で訊いた。


「じゃ、じゃあ、元の世界に帰れるってのは……」


「このククルゥさんが付いた嘘ですね」


「そ、そっか……」


 そんな都合の良いことあるわけがないと理解しつつも、一度希望から突き落とされた反動は大きかった。


 膝をついた健人は恨みがましげな目つきで、縛られている妖精を睨みつける。


 体長は人の頭よりやや大きい程度。起伏の緩やかな体つきは男性とも女性とも見分けがつかず、肌全体がエメラルド色にぼんやりと輝いている。また顔つきは人間のそれとほとんど変わりないが、目の虹彩だけは比較的大きいようだった。


 健人の視線に気づいているのかいないのか、妖精のククルゥは蝶のような羽を羽ばたかせ、腕を組みながら機嫌悪そうにそっぽを向いていた。


「妖精の幻覚ってのは分かったけど、なんでそんなことしたんだ?」


「妖精は例外なく悪戯が好きな種族ですからね。新参者のケントさんが悪戯の標的になるのは当然です」


「と、当然なのか……」


 まだまだこの世界の常識に慣れていないことも含め、健人は肩を落としたのだった。


 ただ、一つだけ納得のいかない点があった。


「ドクトルさんはどこら辺から気づいてたんだ? そりゃ助けてくれたことは感謝してるんだけど、できればもっと早く助けてほしかったなぁって……」


「私は最初から知っていましたよ。具体的に言えば、ペペナ草を採集してる時ですかね。ケントさん、ククルゥさんから名前を問われていたでしょう?」


「あっ……」


 思い出した。昼間、ペペナ草を採っている時、誰かに名前を呼ばれたはずだ。あれが幻聴ではなく、まさか妖精が側にいただなんて……。


「幻覚は相手の名前を知っていれば掛けやすいですから」


「……だからドクトルさんは、本名を名乗らなかったんですか?」


「それもありますが、私のはまた別の理由もあります」


 そう言って、ドクトルは不意に視線を逸らした。


 まあ、幻覚対策として偽名を使うのはまだいい。だが昼間の時点でこうなることが分かっていたのなら、どうして教えてくれなかったのか。口を尖らせた健人は、責めるように呟いた。


「先に言ってくれればよかったのに」


「すみません。ケントさんが警戒してしまえば、事が上手く運ばないと思いましたので」


「警戒? 事?」


 不穏な単語が飛び出し、健人は訝しげに眉を寄せる。


 すると側で不貞腐れているククルゥを見上げながら、ドクトルが説明を始めた。


「満月の夜は『宝氣』を多量に含んだ特殊なペペナ草が採れることがあるのですが、残念ながら人間の目だけで探すのは困難を極めます。そこで協力してもらうのが妖精なのです。妖精は『宝氣』の流れに非常に敏感でして、特殊なペペナ草も簡単に見つけることができるのですが……問題なのは、すばしっこくて捕まえにくいことと、頭が悪いはずなのに協力した対価を求めてくることです」


「頭が悪いって言うなー! アホー!」


 叫び声を上げたククルゥを黙らせるように、ドクトルは繋がっている紐を勢いよく振り回した。悪口を言われたことに対する正当な抗議のはずなのに、ちょっと可哀想だなと健人は思ってしまった。


「妖精を捕まえるタイミングは、悪戯に集中している時が一番ですからね。対価のために貸し一つにもなりましたし」


「貸し……?」


 皆まで言われずとも、健人はハッと気づいた。


 ドクトルは健人が悪戯されると知りながらあえて見逃し、妖精を捕まえるために利用したのだ。だからこそ完全に溺れるまで見過ごしていたのだろう。悪戯に成功した妖精が喜び勇んでいるところを狙うために。


 そして妖精にとっては、ドクトルの客人を罠に嵌めた事実に変わりはない。ドクトルからすれば、貸しと称しても何らおかしくはなかった。


「っていうか、昨日の夜、森にいたのもそのためなのか?」


「そうですね。どうやってククルゥさんを捕えようか悩んでいたところ、偶然ケントさんを発見しましたので利用させていただきました」


 最初からドクトルの手の平で踊らされていたことを知り、健人は脱力した。


 ただまあ、それで死にかけていたところを助けられたのだから、怒る気にもなれない。むしろ妖精を捕まえるために利用されたことは恩返しの一環と自分に言い聞かせ、健人は大きくため息を吐いたのだった。


「ちなみに泉の底から触手みたいなのが伸びてきて、引きずり込まれそうになったんだけど」


「それはこの泉に住むウンディーネさんの防衛機構ですね。ウンディーネさんはとても気難しい方でして、眠ってる時は起こされたくないから、侵入者を自動的に排除するよう罠を張っているんですよ」


「なるほどな」


 だから水を汲むのもこの泉ではなく、沢まで足を運んでいたという訳か。


「……まさか二日連続で死にそうになるとは思わなかったよ」


「お疲れ様です」


 どっと疲れたように肩を落とす健人に向け、ドクトルは労うように頭を下げた。


「もう! ドクトル! ペペナ草を探してほしいんなら、早く行くわよ!」


「はいはい、分かりましたよ」


 ご立腹の様子で急き立てるククルゥを、ドクトルは軽くあしらった。


 まさか今からペペナ草の採集に向かうのか? と思いつつ、ドクトルの背中に続こうとした健人だったが……「へっくしゅ!」と、当然のように大きなくしゃみをかましたのだった。


「ケントさんは休んでいた方がよさそうですね。一度家に戻りましょう。暖炉に火を点けますので、温まっててください」


「あぁ、そうしてくれ」


 夜風に触れ、凍えそうな身体を震わせながら、健人とドクトルは来た道を戻る。


 その途中、ふとドクトルが健人の服を軽く引っ張った。


「あの……」


「?」


 歩を緩めてまで引き留めるとは、まだ何かあるのか? そう疑問に思いながらドクトルの顔を見下ろしたのだが、彼女と視線が合うことはなかった。なぜならドクトルは、恥ずかしそうに俯いたまま、口をもごもごとさせていたからだ。


「……どうかした?」


「えっと、その……今回の件は本当にごめんなさい。もちろん最初から助けるつもりで、見捨てるなんてことは考えもしませんでした。そこは勘違いしないでほしいかな、と……」


 そう言って顔を上げたドクトルの瞳には、謝罪の意と困惑が含まれていた。


 対人関係の少ない彼女は、おそらくあまり謝り慣れてはいないのだろう。形式的に謝罪を口にすることはあっても、心の底から謝ったことはほとんどない。だからこそ、今の言葉がしっかりと健人に伝わっているかが不安である、といった感じだった。


 小動物のように愛くるしい美貌に見つめられ、健人はふと表情を緩めた。


「ちゃんと分かってるよ」


 初めて見せてくれた素直な感情は、利用されたことを許すには十分な対価だと、健人は思ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る