「……こんな所で顔を合わせるなんて、随分奇遇じゃない、カティス」


 サラはキャサリンの後ろに庇われたままスッと背筋を正した。


「あなたに夜更けの森を散歩するなんていう落ち着いた趣味があるなんて、知らなかったわ」

「たまには歩きたくもなるさ」


 一歩、二歩と前へ出たカティスは気障きざったらしく前髪をかきあげると品定めをするような視線をサラに据えた。


「目障りな虫と、目障りな蛇と、我が麗しの婚約者が行動をともにしているなどと聞いた日には、特にな」

「……婚約者?」


 聞き捨てならない言葉にサラは眉をつり上げる。同時にキャサリンの肩が強張ったのが分かった。


「誰のことよ?」

「おや? 今の言葉で分からないほど君が愚鈍だったとは思わなかった」


 敵意を露わにするサラとキャサリンに気付いていながら、カティスはクスリと静かに笑った。たったそれだけのことでブワリとサラの全身に鳥肌が立つ。


「君の他にいるわけがないだろう? アヴァルウォフリージア・サルティ・ヴォ・フローライト」

「ふざけないでっ!」


 その悪寒を振り払うようにサラは腹の底から叫んだ。


「私は誰の婚約者でもないわっ! そもそも今提示されているアクアエリア第二王子との婚約だって、私自身は了承していないっ!」

「おやおや。フローライト王が極秘裏にアクアエリアに密使を立てたという話は本当だったのか。やれやれ、未来の義父上ちちうえも随分な抜け駆けをしてくれる。……まぁ」


 カティスは言葉を切ると視線をわずかにそらした。侮蔑ぶべつを隠すことがない視線が今度はキャサリンに向けられる。


「こちらから派遣した密使と連絡が途絶えた時点で、フローライト王がこちらに従っているのは形だけだということは分かっていたが。ゆえに常に監視の目を光らせ、君の突拍子もない行動にも即座に対処できたわけだ」


 ──どういうことなの?


 サラは唇を引き結ぶとあふれ出しそうになる疑問を飲み込んだ。


 そもそもサラとカティスは同じ夜会に出席したら挨拶くらいはする仲だが、取り立ててそれ以上の交流があるわけでもない。


『本の国』の王族であるサラは血に宿る力の性質上『火の国』の王族は元ー本能的に苦手だし、カティスに関してはそれに輪をかけて本人の性根が好きになれなかった。


 こちらが女であるだけで最初から一段見下して接してくる所も、己以外はすべて踏みにじっても構わないという考えが透けて見える所も嫌いだし、何より操る言葉のすべてが野心と打算と虚栄心と顕示欲に彩られていて不快だった。今だってできることならば張り手の一発でもかましてさっさと立ち去りたいくらいだ。


 ──北の軍事大国の王太子にそんな真似したらフローライトが滅びると思って今まで我慢してきたのに、今度は何なのよ……!


 吐き気を堪えて必死に思考を回してみるが、それでもカティスの発言はどれも意味が分からないことばかりだった。


 ──私がカティスの婚約者だった? 密使を送り込んで監視していた? その密使と連絡が途絶えたからさらに監視をつけていて、だから私の家出も把握していた?


「……姫様のことは、諦めていただけませんか?」


 サラが混乱していることは、サラを背に庇ったキャサリンが誰よりも分かっていたのだろう。


 スイッと一歩前に出たキャサリンが片腕を高く上げ、その指先から『水下シェーリン・ハラルの龍・アクアエリア』をシャラリと下げて示す。説明されなくてもそれが敵国アクアエリアの至宝だとカティスには分かったのだろう。キャサリンの意図いとを推し量るかのようにカティスの瞳が細められる。


「タダで引いてくれとは言いません。代わりにこちらを差し上げます。交渉材料にするなり砕いて捨てるなり、好きになさればよろしい」

「キャサリン……!?」

「この場を見逃していただくだけで構いません。何なら、今この近くに逗留とうりゅうしているアクアエリア御一行様に関して詳細な情報もお渡しいたしましょう。代わりに私達が無事にフローライトまで帰り着くまで見逃していただきたい」

「はっ! ボルカヴィラ王族の出来損ないが。俺達を裏切った後はアクアエリアまで売るか。とんだアバズレだな」


 ──ボルカヴィラ王族の出来損ない? キャサリンが?


 思わぬ言葉にサラは思わずキャサリンを凝視した。だがキャサリンはカティスに集中していてサラにまで気を配っていられる余裕はない。サラがいる位置からはわずかにしか見えないキャサリンの横顔には冷たい汗が流れている。


「私はそもそも、自分がボルカヴィラ王族の血を引いているとは、最初から考えておりません」


 それでもキャサリンは凜と声を張った。サラをいつも支えてくれた人の声は、こんな局面にあってもサラの耳に心地よく響く。


「はっ! どの口がそれを言う。お前がここまで生きてこられたのは、その血があったからだろうが」

「お言葉ですが。私を産んだ母は私を捨て、私の母をはらませたあなたの父は私を道具として扱った。各国王家へ派遣する暗殺者兼監視者の一人として」


 キャサリンは『水下の龍』を持つ手とは反対側の手を首元に置いた。その手が首から下げた飾りを握り込み、一気に横へ振り抜かれる。


「私を生かしてくれたのは……私を人として産み直してくださったのは、敵の手先であったはずである私を哀れみ、慈しみ、人としての基本を教え、最後には大切な娘子むすめごまで預けてくださった、フローライト国王陛下夫妻です!」


 キャサリンの手に現れたのは、柄が長く伸ばされた木槌だった。言葉に実体を与える『詞繰ライティーディ』の力でサラによって創り出されキャサリンに与えられた武具は、キャサリンの意志を受けて自在に形を変えることができる。普段は首飾りのペンダントトップとして胸元に揺れている武器を、キャサリンは明確な殺意とともにカティスに向けた。


「私のことはどのように言っていただいても構いません。姫様を守るためならば、私は国だろうが神だろうが売ります。アバズレ? それで結構」


 キャサリンの言葉に、サラは嘘を見つけることができなかった。


 ──知らなかった。


 ずっと、一緒にいたのに。父が『今日からお前に仕えることになった子だよ』とキャサリンを連れてきた時からずっと、キャサリンはサラに一番近い場所にいてくれる腹心だったのに。


 キャサリンがボルカヴィラ王の庶子であったことも、フローライト王家を監視するために送り込まれてきていたことも、……サラを守るためにそんな覚悟を抱いていたことだって、サラは今この瞬間まで知らなかった。 


「……なるほど? あいつらから今このタイミングで離れたのは、この交渉をするためだったのか。自分達の身の安全をはかるために、あいつらを俺に売る、と」


 ──考えて、サラ。考えるの。私が知らない残りのピースを。この状況を打破するための策を。


 キャサリンはフローライト王家を監視するためにボルカヴィラから送り込まれた人間だった。あえて子供だったキャサリンを送り込んできたのは、恐らく同じくらいの年齢の人間が監視対象で、そのかたわらに自然な形で潜り込ませたかったからだ。


 つまりボルカヴィラが監視したかったのは最初からサラだったということになる。ならばその理由はサラがカティスの婚約者として名前が挙がっていることに原因があるのだろう。


 だがキャサリンはボルカヴィラを裏切った。理由は先程言っていた通り、キャサリンがフローライト国王夫妻に心を開いたからだろう。


 キャサリンを味方につけた父は、最強の護衛としてキャサリンをサラに付けることにした。これが10年ほど前のことだというのだから、サラとカティスの婚約話は相当昔からあったということだ。


 ──だけど私はそんな話、今まで一度も聞いたことがなかった。婚約や結婚に関する話をお父様から振られたのは、今回の騒動が初めてだもの。


 思い返せばサラの周囲には不自然なくらいサラの結婚に関する話題がなかった。


 先の王の子はサラの母だけで、母の子供はサラだけだ。つまり直系の血を引いている人間は、正真正銘サラしかいない。その貴重な血筋を絶やさないためにも、本来ならばサラには幼い頃からしかるべき婚約者があてがわれていてもおかしくなかったのに、次期国王候補にサラの父方のいとこ達の名前が挙がる頃になっても、サラは婚約者候補の名前さえ聞かされていなかった。


 その理由がこの一件にあるならば。『婚約者』の枠はカティスで埋まっていたが、何らかの事情でそれがサラに明かされていなかったとしたら。


 ──お父様はなぜ私にそれを伝えなかったの? そんなに早くボルカヴィラ王室が私に目をつけた理由は何?


 もしかして伝えなかったのは、話の内容が変わる可能性があったから、ではないだろうか。もしくはフローライト側から白紙撤回を求めていたとか。


 先程キャサリンは『各国王家へ派遣する暗殺者兼監視者の一人』としてボルカヴィラ王がキャサリンを扱ったと言っていなかっただろうか。とはどういうことなのか。直系の姫として目をつけられていたのはサラだけではないということか。


 ──直系の姫にこだわりがある? 直系の姫ならば、誰でも良かった?


 直系王族と婚姻を結ぶ利点とは何だ。


 いずれできる子を介して他国に干渉が可能になるからか。縁故を利用して外交を有利に進めるためか。


 あるいは……


「そうです。たったこれだけで婚約そのものを白紙に返せとは言いません。……姫様はこの件に関して一切関知しておりません。一度フローライトへ戻り、事情を説明するための時間を……」

「無駄よ、キャサリン」


 サラはそっとキャサリンに呼びかけると、キャサリンの横をすり抜けるように前へ出た。今度は自分の背でキャサリンを庇うように立ち、真っ直ぐにカティスを睨みつける。


「カティスがここで私を見逃す手はない。だって、時間がないもの」

「姫様?」

「カティス、あなたが求めているのは私じゃない。『詞梟ミネバ』ね?」

「ほう?」


 サラの言葉にカティスの瞳がギラリと輝く。その瞳を嘲笑の形に細めて、カティスは面白そうにサラを見遣った。


「気付いたか」


 返った言葉は、肯定。その声にサラはうめくように呟いた。


「なんて罰当たりなことたくらんでるのよ、あなた……!」


 今、ボルカヴィラ王家には国守くにもりの神がいない。『炎狼ヴィヴィアス』の声が聞けたエルザの母は存命のまま王家を出奔してしまった。王はエルザの母の行方を血なまこになって探したが、見つけ出すことはできなかったのだろう。


 ならば、どうやって『炎狼』を王家側に取り戻すか。とりあえず手っ取り早いのは、『炎狼』の声を聞ける人間を新たに王家側に生み出すことだ。


 当代のボルカヴィラ王は近隣諸国にも大の女好きだと知られている。その実態が『炎狼』を取り戻すために王が手当たり次第己の種をばら撒いた結果なのだとしたら、その理由にも説明がつかないだろうか。


 だがどれだけ子を産ませても『炎狼』の声を聞ける子は産まれなかった。そして王の『焔繰ボルカヴィーディ』の力と命も、徐ーに弱まり始めた。


『炎狼』を取り戻すために、エルザの母とその血縁の抹殺は必須。


 だが王は、考えたのではないだろうか。


『たとえエルザの母を殺せても、神は自分の血統にある者を指名しないのではないだろうか』と。どうあがいても『炎狼』を取り戻すことはできないのではないかと。取り戻せなければ、時機に自分達は玉座から追われ、今まで権力によって押さえつけてきた者達の反発を受けて一家諸共もろとも消されてしまうのではないかと。


 ならばもう、違うモノで穴を埋めるしかない。


 他国から、他国の神の声を聞く姫を連れてこれば、ひとまずその姫と他国の神の力で王家としての対面は保てるはずなのだから。


「我らに従わない、使えない神なんてこちらから願い下げだ。神に国のまつりごとなど何もできまい。ひとまず国守としての穴は人の努力で埋めてやろうというのだ。感謝してもらいたいくらいだね」

「っ、破綻してる……!」


『炎狼』に守られていない国など、もはやボルカヴィラとは言えない。だがカティスと当代ボルカヴィラ王は自分達の玉座を守るために他国の国守の神と王家を利用してでも現状を……自分達の栄華を維持しようとしている。


 ボルカヴィラがカティスの婚約者にサラを指名し、監視まで送り込んでこの婚姻を強引に推し進めようとしているのは、『炎狼』の代わりに『詞梟』を据えるためだ。サラごと『詞梟』をフローライトから奪い取るためなのだ。


 ──お父様がこんな無茶苦茶な話を呑むはずがない。だけどボルカヴィラの軍事力は強大。力の相性から言ってフローライトが誇る最強兵団『虚像兵』もボルカヴィラの軍隊の前では無力。即刻国を滅ぼされないためには、ひとまず婚約を呑むしかなかったんだわ……!


「聡明なアヴァルウォフリージア姫になら分かったはずだ。もう時間がないと。父の力と命は今にも尽きようとしている」


 カティスがフワリとサラに向かって片手を差し伸べる。その瞬間、今までどこに潜んでいたのかザッと周囲に人影が現れた。キャサリンさえその気配に気付けていなかったのか、キャサリンがとっさにサラの背中を守るように立ち位置を変え、長く伸ばした木槌を構える。


「さぁ、一緒に来てもらおうか」

「お断りよ! 誰があんたなんかと……っ!!」

「この戦力差を切り抜けられるとでも?」


 いきなり現れたカティスの配下はサラとキャサリンを取り囲むように配備されていた。


 完全武装の兵士が、少なくとも10人。いくらキャサリンが腕の立つ護衛であっても、武器が木槌かつ一人でどうにかできる人数ではない。


「……姫様、最悪の場合、私のことはお捨て置きください。ハイト様達と合流して……」

「あぁ、言い忘れていたが、もちろん目障りなあいつらの所にもこいつらを送り込んでおいた」


 キャサリンが背中越しにささやくが、カティスはその言葉さえをも笑みとともに噛み砕いた。その声にキャサリンの肩が震える。


「あいつらも無念だったことだろうなぁ? 至宝が手元にありさえすれば、『水龍シェーリン』に加護を求められたかもしれないものを」


 その震えさえ踏みにじろうとするカティスは、どこまでも愉悦に顔を歪めていた。それを真正面から見ているサラははらわたが煮えくり返って仕方がない。


「ハイト達がそんなに簡単にやられるわけ……っ!」

「……刺し違えてでも、姫様をここから脱出させます」


 激情にかられかけたサラの意識を引き戻したのは、低く響いたキャサリンの声だった。はっと背後を振り返れば、キャサリンは正面を見据えたままヒリつくような殺気をまとっている。


「私の浅慮が引き起こしたこの不始末、私の命であがないます」

「キャサリン……っ!?」

「やれ」


 グッ、とキャサリンの体が地面を踏みしめて沈む。その瞬間、カティスの号令が響いた。殺気が森に充満し、弾かれたように兵が間合いを詰める。


 だがキャサリンが木槌を振るう瞬間は訪れなかった。


 それよりも夜気を切り裂く銃声が幾重にも響き渡り、サラとキャサリンを周囲から切り取るかのように土煙が上がる方が早かったから。


「サラッ!!」


 視覚にも聴覚にもしゃがかかる中、それでも清涼で力強い声ははっきりとサラの耳に届いた。


「こっちだっ!!」


 短い言葉だったが何を求められているのかは不思議なくらいよく分かった。


 サラは考えるよりも早くキャサリンの手に飛びつくと『水下の龍』をむしり取った。そのまま声が聞こえた方向へ、全力で首飾りを投擲とうてきする。


「姫様っ!?」


 キラリと月光を反射しながら、首飾りは山なりに砂煙の向こうへ消えていく。その先で伸ばされた手の中に首飾りが綺麗に収まったのが、なぜかサラには分かった気がした。


「確かに」


 少しだけ笑った声が、サラの行動は正しかったと教えてくれる。


 次いで銀と淡青の輝きは隣へ移り、同じ声が凜と緊張感をまとって仲間の名前を呼んだ。


「リーフェ、任せたっ!」

「はい、任された」


 こんな時でも緩く響く声が返った瞬間、ブワリと周囲の空気が湿気を帯びた。突如うるんだ空気に砂煙が巻き取られ、急激に視界が晴れていく。


 その視界が、今宵の空よりも深い濃藍に染め替えられた。


「サラ、無事かっ!?」


 濃藍を引き連れたハイトはサラを背中に庇いながら声を上げる。そんなハイトの姿に鼻の奥がツンと痛んだ気がした。


「ええ、私は大丈……」

「ハイト!」


 だが周囲はそんなサラとハイトに安堵の息をつくいとまを許してくれない。


 リーフェの絶叫とともに火薬が爆ぜる音と、何か金属が弾かれるような鋭い音が響いた。ハッとハイトとサラが声の方を振り返った時には、白煙がたなびく銃を両手に構えたリーフェと手にスローイングナイフを忍ばせたカティスが対峙している。


「僕の前でハイトに対して随分な御挨拶だねぇ、ボルカヴィラ王太子」


 リーフェが構えているのは、銃身がリーフェの指先から肘までの長さと同じだけありそうな大きさの二丁銃だった。見ているだけでも重さが分かるような代物をリーフェは口元に笑みを浮かべたまま二丁ともカティスに向けている。どこにこんな大きな武器をふたつも隠していたのかと、サラは思わず目をみはった。


 ──カティスがハイトに向かって投げたナイフを、リーフェが銃弾で弾いて防いだ?


 この暗闇の中でとっさにそんな芸当ができたのだとしたら、リーフェの銃の腕前は相当なものなのだろう。リーフェはどうやら天然の皮を被った策士というだけではなかったらしい。


「これが俺達の間では正しい挨拶だろうよ、ロベルリン伯」


 カティスは手の中でナイフをもてあそびながら忌々しげにリーフェの言葉に答えた。対するリーフェはいつも通り口元に笑みを浮かべているが、メガネと前髪に隠された瞳は決して笑っていない。そのアンバランスさがリーフェの殺意を一段と濃くしている。


「……なぜお前達がここにいる。お前達の元にこいつらを仕掛けたタイミングの方が、こっちが動き出すよりも早かったはずなのに」

「あっは! あの程度、ヴォルト一人で十分さ。『アクアエリアの雷刃らいじん』舐めてんの?」


 リーフェの挑発にカティスは分かりやすく顔を引きつらせた。そんな二人の様子を冷静に観察していたハイトが『ゆっくり下がって』と空気に溶かし込むようにサラへ囁きかける。


「僕達が今この場ですべき事は、お前を抹殺する事だよ、ボルカヴィラ王太子」


 完全にカティスの意識を自分に引きつけたリーフェはさらにカティスを挑発する。……いや、挑発などではなく、案外本心からそう言っているのかもしれない。それくらいリーフェがカティスに向ける殺意は濃い。


「何せ取り巻きを連れていない今なら、お前なんて簡単に殺せるし」


 だが次の瞬間、場の空気はカティスが放つ憤怒に染め替えられた。


「やれるものならやってみろ」


 グッ、と一瞬場の空気が冷え込み、次の瞬間には熱が爆発する。ギロリとリーフェを睨みつけるカティスの周囲の空気がユラリと真紅の燐光とともに揺れ、そのまま勢いよく燃え上がった。


「来るぞリーフェっ!」


 ハイトの声にリーフェが手にしていた銃を二丁とも後ろ腰に戻す。次にリーフェが構えた時、リーフェの手には『水下の龍』が握られていた。


「灰も残さず消え去れクズどもがっ!!」

「我が身いやしき凡俗なれど、尊き御身にもうさく事、御子みこの慈悲に免じて許したまえ」


 リーフェの静かな声に呼応するようにリーフェの周囲に青い燐光が舞う。まるで雪が降るかのようにしらしらと舞っていた燐光は、リーフェの詠唱が完成するとリーフェを中心にして逆巻く竜巻のように強くなった。周囲から水滴が滴り落ちそうなほど空気が潤み、熱が暴れていた空気と真正面からぶつかる。


 炎と水、それぞれの空気を引き連れた両者は、攻撃先を示すかのように互いに向かって腕を振り抜いた。


「『煉獄カルタグラ』っ!!」

「『清瀧フェイロン』っ!!」


 凝縮された炎と水の力が互いを飲み込もうと真正面からぶつかり合う。相反する強大な力が衝突する衝撃にサラは思わず息を詰めた。のどがしまってまともに息ができない。ドレスや髪を引きちぎられそうな衝撃に耐えて何とか立っているだけでやっとだ。


 ──苦しい……!


 そんな衝撃が、ふと軽くなった。え、と目を薄く開けば、視界は濃藍に塞がれていて、サラの体を覆うように温かな腕が回っている。


 ──ハイト?


 ハイトの腕の中に庇われている、と分かった瞬間、呼吸が楽になったような気がした。


 ──不思議ね。


 ハイトの身から感じるのは、水の力だ。『本の国』の姫であるサラにとっては水も炎と同じくらい苦手なもので、現に今サラはカティスの力と同じくらい、リーフェが行使する力に恐怖している。


 ──それなのに、ハイトの『水』は、怖くない。


 場違いにもそんなことを思った瞬間、鈍い音とともに足元の感触が消えた。力のり合いに耐えきれず地面が崩落したのだと分かったのはリーフェの絶叫が聞こえたからだった。


「ハイトっ!!」


 独特の浮遊感に捕まった瞬間『落ちる』という恐怖が全身を貫いていった。だがパニックになるよりも早くサラの体に回ったハイトの腕がすべてを押さえ込むかのように抱き込む力を強くする。ハイトの右腕がサラの肩から後頭部を守るように回って深く胸元に抱き込んでいるせいで、周囲を見ることもできなければ悲鳴を上げることもできない。


「後は任せたっ!!」


 そんな力の向こうから、こんな時でも涼やかに響く声が聞こえた。血の臭いが微かにするのは気のせいだろうか。


「我が血をって、我等が神に願いたてまつる」


 視界が塞がれているはずなのに、なぜかサラはその言葉とともに青い燐光が舞う様を見たような気がした。


「我が腕の中の姫に、我が命の加護を」


 庇われていても伝わってくる衝撃に意識が遠ざかっていく。


 その中でサラは、自分の体が清らかな水に包み込まれる幻想を見た。

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