第9話

 あまり嬉しくもない褒め言葉をエレツは憤然と聞き流し、食事を終えた。食器類は置いておけばいいというのでまとめて台所に置いておいた。

 オークは部屋にあるステッキをとるとそれを支えに億劫そうに立ち上がる。部屋の隅にまとめている白いシーツをとって、エレツを部屋に奥の部屋に案内した。

 ドアはエレツがかがまなくては頭を打ってしまいそうなほどに小さいが、幸いにも部屋の天井は高かった。

 左側の壁には何かしらの小難しい本がびっしりと置かれた棚と小さな薄汚れたベッドだけの埃ぽい粗末な部だが、今まで野宿であった身からすれば、雨露しのげれば十分だ。なによりも、ここだけ他の所と違い床に紙類が散乱することもなく、綺麗であった。

「母の部屋なんだ」

 オークが言いなから、ベッドに白いシーツをかけた。

「埃さえ気にしなければいい部屋だよ。僕は、もう一つ奥で寝るから」

 それだけ言ってオークは出ていってしまったのに、エレツはベッドに腰掛けた。エレツの膝に不意にあたたかな前足が乗せられたのを見ると、サザノメが顔を伸ばしてエレツの顔を覗き込んでくる。エレツは半ば無意識にサザノメの頭を撫でた。

「エレツ」

「なんだ」

「俺も一緒に寝ていい?」

 ちらりとエレツはベッドを見て口を開いた。

「スペースはないぞ」

「……あのなぁ、こういうときは色気だして一緒に寝てもいいよとか、誘えよ。いろっぽくなくていいけどさぁ」

「馬鹿言うな」

 エレツはサザノメの言葉を察すると、そのふわふわの毛で覆われた顔を手で押さえ込むようにして引き離して、すぐに立ち上がり、服と腰の剣を外して傍らに置いてベッドに滑り込む。

 剣だけは何があっても無くすことがないようにといつも傍らに置いて眠る。剣を抱いて寝なくは寝れないわけではないが、その冷たい鞘は、いつもエレツを包み込み、眠りへと誘う。

 だが、すぐに横にあたたかなものが入ってきた。背中にもぞりと動く毛の感触にくすぐったさを感じた。

 サザノメがベッドに忍び込んだことはわかったが、邪険に扱うつもりもない。

 隣で眠るあたたかさにエレツは目を伏せた。


 物音がしたのにエレツは目を覚ました。精神はとっくに覚醒していたが、その音が致命的な目覚めの合図となった。

 本能がいつ、何時襲われてもいいようにと備えているせいか、他人の気配があると本当の意味で寝ることはできないのだ。

 これが長年、彼が培ってきた生き方であった。なによりも、眠った世界は常に彼に優しい安堵をくれるわけではなかった。むしろ、眠ることが怖いとすら思う。あの夢が自分を追い詰めるから。

 夢の内容は、過去に自分のしてきただからこそ、エレツは怯える。あの夢が自分を追いかけてくる。自分のしてきた罪を忘れるなと、あいつが自分を嘲笑っているようだ。

 暗闇に目が馴染むのもそれほどに時間はかからなかった。ゆっくりと起き上がる。そのとき隣に寝ている相手を起こさないように細心の注意を払った。

 黒い犬がベッドに伸びきった寝姿は、人を思わせるほどに無防備で愛らしい。

 サザノメは実にあたたかい。

 その背中を軽く撫でてやると、サザノメがもぞりと動いたのにエレツは身をかたくした。起きるかと思ったが、サザノメは前足で顔をかいたあと安らかな寝息をたてて起きる気配はなかった。

 思えばこのあたたかさを手に入れてから、まだあの暗い夢は見ていない。

 村人に襲われてからサザノメは何も言いはしないが感じているものがあるはずだ。それに自分だってあんなことがあったのだから、あの夢だって刺激されて見るかもしれなかった。たが、今はまだ彼は横にいて、夢も追ってきていなかった。

 またしても音がしたのにエレツは剣を持ってベッドを出た。暗い建物の中から外へと続くドアが開いているのに、エレツは導かれるようにして歩み寄った。

「オーク」

 家から数メートル離れたところに立っているオークにエレツは声をかけた。オークは驚いたようにふりかえって、笑った。

「起こしちゃった?」

「いや……何をしている」

「薬を取りに行くのさ」

「こんな深夜にか」

 エレツは警戒を強めた。オークが自分たちを村人に売るかもしれないという可能性がないわけではなかった。

「夜でないと取れないものもあるんだよ」

 オークは笑って言い返した。悪びれることのない態度にエレツは眉を寄せて、じっと真実を見極めようとオークを見つめた。

「こんな足だし、来てくれると嬉しいかな」

「俺に手伝えと……?」

「お願いします」

 オークの押しの強い笑顔にエレツは一瞬、この男は本当にただ薬の材料をとりに行こうとしているだけなのかと思った。

 仮にオークが何かを企んでいたとしても、エレツには退けられる自信はあった。

「わかった」

「ありがとう。じゃあ、こっち」

 オークが意気揚々と歩き出すのにエレツも従って歩き出した。

 空を見れば、よく冴えて美しい月が空に君臨して、淡いクリーム色で世界を包み込んでいる。

 暗闇の中を慎重に歩いていくと暗い湖にたどり着いた。

 夕食の席でオークが近くに水汲み場があると言っていたことを思い出す。

 この地で、これだけの水を確保するのは容易いことではない。もし、他が知れば奪い合いとなるだろう。

「輝いているな」

「それは、水草が月灯りを吸収して輝いているんだ。この泉の中の水草をとってほしいんだ。はい。お願い」

 オークはいうと透明な硝子瓶をエレツに差し出した。エレツはそれを受け取り、肩をすくめた。

「はじめから俺にやらせるつもりだったな」

「こんな足だしね。使えるものは客だって使うよ」

 オークは悪戯が成功した子供のように笑って言い返すのにエレツは観念して、靴を脱ぐと、ズボンを膝までまくしあげて水の中に足をいれた。

 昼間は生き物の命を奪おうかというほどに暑いというのに、夜は命を凍りつかせようというほどに寒い。水の中の例外ではなく冷たさは肉食獣の牙のようにエレツの体から熱を乱暴に奪っていく。はやく、この瓶をいっぱいにしてしまおうとエレツは決めた。

 冷たさに目を眇めながらエレツは水の中をゆっくりと歩き、光る水草を手にとると、瓶の中に押し込んだ。

 自分のお願いを律儀に聞く男をオークは見つめたまま、ゆっくりと、その場に腰を下ろした。

「どうして、僕がこんなところで一人で研究してると思う?」

「さぁな」

「ちょっとは考えなよ。君って無愛想だね」

 オークの声は夜に不似合いなほどに意地悪いほどに楽しげに弾んでいた。

「というよりも、変わってるって言われるだろう」

 硝子瓶を水草で満たしていたエレツは動きをとめて、ふりかえった。

「ときどき」

 サザノメは、真面目だと言ってくれるが。

 オークはエレツの返答に笑いながら頷いた。

「だろうね。……面白い昔話をしてあげようか。ある女は気狂いの人だったんだよ。男は孤高の人だった。そんな二人が出会って、自分たちは同じだと思う。そしたら、恋とか愛とかまったく別物をそれと思ったわけだ。二人は結婚して、子供が出来た。けど、子供が出来ることで、二人はわかったんだ。自分たちは一緒にいられない。だって愛していてもそれは一般的な男女が抱くものではなかったから。相手が大切だけども、一緒にいてはいけない。だから、二人は別れた」

 エレツはただ黙々と作業を続けた。もう、瓶の中はいっぱいになりつつあった。

「終わったぞ」

 エレツはオークの言葉を無視して言い返し、水からあがると、今や淡い輝きを放っている草でいっぱいになった瓶を差し出した。

 オークは、立ち上がると、それを受け取った。

「昔、ここで村一つ消えた」

 オークは淡々と、過去を口にした。

「恐ろしい化物が、村人を殺していってしまった、みんなそう言っていた。人々から嫌われている僕は平然と生き残った」

 じっとオークがめがね越しにエレツを見つめた。

「ざまぁみろと思ったよ」

「……」

 そのときだけオークの顔が皮肉に、黒く歪んだのをエレツは見た。しかし、それも一瞬のことでオークはすぐに人の食えない笑顔を浮かべた。

「大丈夫。君たちのことは誰にも言わない。そんな義理なんて僕にはないから。それに君たちは命の恩人だ。もし誰かに尋ねられても、僕はきっと嘘を言うよ。だっておしゃべりは平気で嘘をつける生き物なんだ……もっとも、こんな気狂いの人間の元に尋ねてくる村人がいるとは思えないけどね。さぁ帰ろう。君の犬が心配しているかもしれない」

「そうだな」

 オークと連れ立って部屋に戻ってみると、ベッドには黒い獣ではなく、人が横になっていた。

「サザノメ?」

 背を向けたまま、片手をあげる。起きてはいるが、返事をするつもりはないらしい。

 エレツは黙ってベッドに腰掛けた。ベッドは一人と一匹が身を小さくして寝るには十分だが、さすがに二人の男が寝るにはいささか、小さいように思えた。仕方なくベッドから離れようとしたとき、腕を掴まれた。

 咄嗟に振り払うことも考えたが、出来なかった。掴まれたままベッドに倒され、自分の上にのしかかる重み。

 暗闇の中で視界いっぱいにサザノメの顔があった。意地の悪い微笑みを浮かべているのは、まるで自分がこの部屋から出ていったのも彼は知っているようにすら思える。

 サザノメは黙ってエレツの首に顔を埋めた。とたんに生暖かな舌が首筋を嘗める。ぞくりと肌が粟立つが、ここはオークの家であることを思い出してエレツはサザノメの肩を掴んでいた。

「よせ、今日は」

 首筋にかすかな痛みが走ったあと、サザノメが顔をあげた。その顔はやはり笑っている。ほっとしたのもつかの間、耳たぶにあたたかな舌が這うのは不愉快とも快楽ともつかない、奇妙な感じが広がっていく

「抱かれるとでも思ったか?」

 サザノメの声は笑っていた。

 自分をからかっているものだとエレツは知り顔を険しくさせた。からかうにしてもタチが悪い。

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