第4話

 ひと一人分しかない食糧で、このまま進むのは不安があった。

 この山を抜けぬあとは、この国で唯一の大川であるサージャルに突き当たる。そこに沿って行けば小さな村や街、アオシスに巡り合えるだろう。

 本当は山に入る前に食糧と水を買うつもりだったのだが、この犬を連れては街をうろちょろもできない。

 予定が多少狂ってしまったが、それでもこの山にも村はあるだろうとタカをくくった。

 坂道の手間前で昼休憩のため小さな岩に腰を落ち着けて休んでいると不意に犬がエレツの前で伏せをしてみせた。まるで乗れとでも言っているようだ。

 いくら犬が、かなり体格はよくてもエレツは躊躇い、無視して立ち上がろうとした。すると犬は素早くエレツの腰にまとわり付いてきた。一瞬足をとられて後ろに下がったときを犬の背に腰を置いてしまった。潰してしまうかと肝を冷やしたが、犬はエレツを背に乗せて意気揚々と歩き出した。

 犬は賢く、背に乗せたエレツを落とさないように気をつけながら人が歩くのに二日はかかるだろう坂道を歩き切ってしまった。

 エレツが言葉を発すと犬はそれが理解できるように待て、右も、左も、しっかりと応じたので並の馬より扱いやすい。

 山の下り坂にさしかかる頃には空は紺碧色と染まりはじめていた。

 適当な樹の大きな場所を見つけてそこで野宿となった。

 犬はエレツを背から降ろすと大きな欠伸をして、近くの潅木の下に身を丸めた。そんな犬を傍目にエレツは薪になる枝を集め、焚き火の用意をした。

 砂漠地帯は昼間は恐ろしく熱いが、夜はぐっと冷え込む。焚き火をして毛布で包んでも肌寒さに震えがくるほどだ。

 夕食は干し肉の味気ない食事していると、眠っていた犬がすくりと立ち上がりエレツの横に擦り寄った。

 思えば、犬は朝から何も口にしていない。さすがに疲れたらしくくぅんくぅんと物欲しそうに鳴いてくる。

 一日の労働を労うために手にある干し肉を差し出すと犬は嬉しそうに食べた。

 あっという間になくなってしまうと、犬はエレツの手をあたたかな舌で惜しむように嘗めた。

「すまんな、もうないんだ」

 頭を撫でて、水を少し与えてやると犬は再びエレツから離れて、潅木の下に身を丸めて寝てしまった。


◆ ◆ ◆


 奇妙な気配を感じてエレツは目を覚ました。

 長年の習慣で、エレツは寝るときは谷底に落ちるようにすっと眠りにつく。逆に目覚めは、さっと浮き上がるように覚醒する。

 知らない気配を覚えたエレツは水を顔にかけられたようにさっと起きあがった。一瞬の油断が死へと繋がる。

 すでに燃えるもののなくなった焚き火は弱まり、僅かにちりちりと赤く闇を照らしているだけであった。

 視線を彷徨わせて、そこで犬がいないことに気がついた。

 犬の名前を呼ぼうとしたが、そのときになってエレツは自分があの犬の名前をまったく知らないことに気がついた。サザノメから預けたとき、犬をどこまで連れていってほしいかの具体的なことを聞いてないことも。

 なんとも間の抜けた話だ。

 仕方なく傍らに置いていた剣を片手に握り締めた。

 これがどれほどの役に立たないかは彼自身がよくわかっているが、最低限の用心は必要だ。出来れば山賊などと鉢合わせしないように心の中で祈りながら立ち上がった。

 犬が消えたことをエレツには奇妙に思っていた。確かに普通の犬ならば、どこかふらりといなくなることだってあるだろうが、今までのことを考えるとどうも不安を感じた。

『変な気配がする』

 更が姿はあらわさずに、エレツの耳元に忠告を送ってきた。

「なんなのかわかるか?」

『わからない。あの黒い獣の気がする』

「そうか」

『あの獣は少しおかしい』

 エレツの身を案じて、更はさらに声をひそめて忠告する。

 ほっておけ、それが利口だ。

 しかし、自分はサザノメから酒を渡されて頼まれたのだ。それに今日、一緒に過ごすうちにあの犬に愛着を感じはじめていた。

 エレツは息を殺し、周囲を警戒しながらゆっくりと歩き出した。

 気配がする方向にゆっくりと足を進め、水の匂いを鼻孔に覚えた。耳に神経を集中すると水音も聞こえる。

 この先にオアシスがあるのか。

 もしかしたら犬は喉が渇いてそちらに行ったのかもしれない。昼間よく働いたのだから、それは十分にありうる話だ。

 アオシスの周辺には木々が生えており、闇の中で目を凝らすと、そこに人がいることがわかった。

 その人物はエレツに気がついたらしい、慌てて立ち上がった。

「げっ」

 第一声。その声をエレツは知っていた。

 空を泳ぐ雲から顔を出した月に照らされてはっきりと見える。

 全身をずぶ濡れの姿で、驚いたように片目を見開いてエレツを見ている男。彼には人間としてはありえないものがついていた。人間の本来耳がある箇所には獣の耳、腰にはふわふわの毛のついた尻尾。

「起き、た、の」

「サザノメ?」

 どうして、ここにサザノメがいるのか。エレツが疑問に思うことを口にする前にサザノメの深いため息が遮った。

「あーあ、一日か」

「どうしてお前がここに……それに、あの犬は」

 サザノメがギィーと小声で呟くとエレツを見た。

「あの犬、俺」

「……そんなことがあるのか」

「えっ、この世界では、ないのか。そういうの」

 サザノメが不思議がった。

「魔獣」

 呟いた言葉にエレツは目を瞬かせた。

「魔獣? お前が?」

「ここ、そういうの、ない?」

「魔獣はいるが、人になるものは聞いたことがない」

「……っ! ギィイイ!」

 サザノメは地団駄を踏みしめるとエレツのわからない言葉でさんざんに吼えた。言葉はわからなくても、それが悪態だということはわかる。

「……先ほど、この世界といったが、どういうことだ……それに、お前は魔獣として、どうして、犬の姿をしていたんだ」

 自分の常識の範疇外だが、目の前の真実を受け入れないほどにエレツは愚かではなかった。

「そうしないとあんたは連れて言ってくれそうになったからさ」

「なぜだ」

「探し物」

 サザノメは皮肉な笑みを浮かべた。

 それ以上に言うことはないと黒い瞳がエレツを見つめて語る。

「俺は、ここ、詳しくない」

「どういう意味だ」

 エレツの警戒にサザノメはギィーと再び悪態をつく。たぶん罵りの言葉だろうとその顔と口調からエレツは理解した。

「俺は、ここの、生き物じゃない。俺、自分の、故郷、魔獣と呼ばれる。……魔って言われる。それで、ここに、来た。エレツ、ひどいこと、しない」

 たどたどしくだがサザノメは語るとエレツに視線を向けた。言葉が通じたかと不安がっているようだ。

 エレツがサザノメの言葉を理解するのに数分ほどの時間が必要だった。

 二人は睨むように黙って見詰め合った。互いの視線が宙でぶつかりあい、交じり合う。

 無言のなかで、冷たい風が木々を揺らし、どこからか零れ落ちる水音だけが木霊する。

「……信じよう」

 そう言ったあとエレツは目を細めた。あまりにも現実離れしているが、そもそもサザノメの今の見た目からして現実的ではないのだ。ならば、サザノメの言葉を全面的に信じるしかない。

「だが、どうして俺なんだ」

「いろいろと行く、いった」

「ああ」

「あと」

 サザノメの口元が悪戯っ子のように歪んだ。

「好みだった」

「好み?」

 言葉の意味を理解しかねてエレツが尋ねるとサザノメはエレツの態度を面白がるようにくすくすと笑った。

「そう、好み。俺さ、あなた、好み」

 その意味合いを理解してエレツはしごく真面目な顔で言い返した。

「俺は男だぞ」

「俺、男、好き」

 普通の者ならば恥として隠しておきたいことをサザノメはさらりと肯定した。

 水からあがりサザノメはエレツの前に近づいてきた。サザノメの体からはしとしとと水の雫が零れ落ちる。

「ずぶ濡れだな」

「水浴び。気配がしたから、人に戻った。……心配しなくてもいい」

 そこでサザノメは言葉をきり、エレツをしげしげと見つめてさらりととんでもないことを口にした。

「……うん。好み」

 サザノメが一歩前に出るとのに合わせてエレツは一歩後ろへ下がった。

「いきなり襲い掛かるなんて、ない」

「……」

 無言のエレツにサザノメは噴出した。

「俺、役立つ。お前を移動するのに、何日もかかるのを……一日で行ける。すごい?」

「……ああ」

 旅の足としては、黒い犬は申し分なかったことは否定できない。

「だったら俺を」

『エレツに触れるな、魔!』

 鋭い声が二人の間に割って入った。


 不意にサザノメとエレツの間に更が現れた。

 精霊は総じて美しい。それは更も例外ではない。

 はっと息を飲むほどの美貌はしかし、両目を黒の布で覆っているためか、完全なる美にはなれず、どこか欠けてしまっている印象がある。

 両目が隠されていて表情が読みづらいというのに、その顔にははっきりと激しく憎悪を湛えられていた。

 慈愛深い精霊が、そのような顔をするのは稀だ。その稀の中に主に対する激しい庇護欲がある。更にとってエレツは、既に主ではないが、それに等しい存在だ。エレツの身に及ぶ危険は、すなわち、更の逆鱗だ。

『貴様にエレツはやらん、去るがいい、魔!』

 サザノメは面食らった顔をして更を見つめた。

「……これ、なに」

「更だ。連れている精霊だ」

「エレツの、精霊? 契約?」

「……連れだ。もう契約はしていない」

 エレツの必要なことだけをすくいあげた説明にサザノメは納得したように頷き、胡乱な眼差しを更に向けた。

「過保護な精霊」

 肩をすくませたあと、サザノメはエレツから更に視線を向けた。

「エレツは、いらん。体はほしい」

「なっ……!」

 にやりとサザノメは笑って、先手必勝とばかりにつけたす。

「精霊が口出するのは、余計なお世話! お前なんて怖くもない」

 あまりの物の言いに精霊は言葉を失い、サザノメは小馬鹿にしたように笑っている。

 エレツは奇妙なものを見たといいたげに片眉を持ち上げた。

「……精霊が恐ろしくないのか、魔だというのに」

「これが怖いの?」

 サザノメが平然と聞き返すのにエレツは目を細めて頷いた。

「普通はな」

「俺は、ここのじゃない」

 サザノメは言い返したあと犬でも払うように手をふった。

「消えろ」

『貴様は』

 更は不満と不服げにわなわなと全身を震わせるのに、腕組みをしたサザノメは勝ち誇った笑みを浮かべた。

「お前たちは何の話をしているんだ」

 話題の当人が困惑して尋ねるとサザノメは噴出し、更は苦い顔をした。

「エレツ、口説く話」

 そこでサザノメはエレツを指差した。

「俺は、男を相手にしたことないぞ」

 エレツの言葉にサザノメは今度こそ豪快に笑いだし、慌てて自分の口に手をあてて押さえ込むんで、笑いの発作を抑え込んだ。

 エレツが奇妙なもの見る目で見つめてくるのにはサザノメは咳払いしながら手をひらひら振った。

「二人、話そう」

「わかった……更」

 エレツの言葉に更は渋々、姿を消した。

 サザノメはエレツを見つめたまま、濡れて冷たい肉体のまま傍に寄ってくると、顔を近づけてきた。

 あと少しで唇が触れてしまいそうな距離なのにエレツは思わずサザノメの肩を掴んで押し留めた。

「油断も隙も」

「俺はいや?」

 エレツが困惑しているのをサザノメは笑って眺めた。

「男だろう」

「エレツは、男、いや?」

「当たり前だ」

 エレツが至極真っ当なことをいうのにサザノメはふぅんとつまらなさそうな顔をした。

「俺は男だぞ」

「俺は、それでもいい」

 男が好きだと宣言するサザノメには、その問いは愚問と言ってもよい言葉だ。

 サザノメはエレツの腕をとり自分の傍に引き寄せた。

 エレツが息を飲むとサザノメは魅力的な笑みを浮かべて、地面に押し倒してきた。軽い衝撃からの痛みにエレツが渋い顔をするなか、視界いっぱいにサザノメの顔があった。

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