聖女なんかじゃありません保育士です

城間盛平

落とし穴を抜けるとそこは異世界でした

  暗い歩道をトボトボと歩く。足取りは鉛のように重かった。ハァッ。私は数歩歩くたびにため息をついた。頬がヒリヒリと痛み、私はますます大きなため息をつく。私の名前は篠原もみじ。三十二歳、独身。職業は保育士だ。大学を卒業後、ずっと仕事をしている。仕事は好きだ、子供は可愛いし、やりがいがある。


 でも今は絶賛落ち込み中だ。私の受け持ちに関根恵太くんという男の子がいる。まわりの子供たちにイジワルや暴力をふるう、いわゆる問題児だ。だけど恵太くんだけに問題があるわけではない、恵太くんのお母さんはシングルマザーで、お仕事は水商売、つまり夜の仕事だ。恵太くんは朝お母さんに保育所に預けられ、お迎えギリギリになってお母さんが迎えに来る。だけど恵太くんはお母さんと家に帰るのではない。お母さんは夜のお仕事に行き、恵太くんは、水商売の女性たちの子供たちが預けられる夜の保育所に行くのだ。つまり恵太くんはお母さんと過ごす時間はほとんど無く、ずっと一人なのだ。


 私はいつもトゲトゲしい恵太くんを気にかけて、よく声をかけていた。恵太くんは次第に心を開いてくれた。でも私は恵太くん一人の先生じゃない。受け持ちの子供たちは他にもいるのだ。恵太くんは自分だけ構えと無茶をいってきた。私は恵太くんに分かってほしくて恵太くんの目をしっかり見ながら言った。私は恵太くんの事だけ見てはあげられないけど、恵太くんの事大好きだよ。って、でも恵太くんには私の気持ちは伝わらなかったようだ。それ以来恵太くんの暴力は私に向くようになった。私の足を蹴ったり、私の頭を叩いたり、噛みつかれた事もあった。園長先生にも注意してもらったけれど効果はなかった。


 それどころか私は、迎えに来た恵太くんのお母さんに怒鳴られたのだ。私の事を名指して、私が恵太くんに暴力をふるっていると言ってなじった。勿論そんな事事実無根だ。恵太くんはお母さんに嘘をついたのだ、お母さんは恵太くんの言葉を真に受けて、爪にゴテゴテしたネイルを付けた手で、私の頬をひっぱたいたのだ。私はひっぱたかれた頬の痛みより、恵太くんに嘘をつかれた事が悲しかった。


 子供が嘘をつく理由、それは嘘をついた時に自分の思い通りに事が運んだからだ。恵太くんの望みはお母さんに構ってもらう事。恵太くんが私から暴力を受けたと嘘をついたら、お母さんは激しく怒って恵太くんに意識を向けてくれた。恵太くんはきっと嬉しかっただろう。恵太くんは怒りがなおもおさまらないお母さんに手を引かれながら、私の方を振り向いてニヤニヤと笑ったのだ。子供なのにゾッとするような嫌な表情だった。


 私の同僚の先生たちは口々に、これは暴行事件だから警察に届けようと言った。だけど園長先生は穏便にしてくれと哀願していた。私はただただ恵太くん母子が見えなくなった校門をじっと見つめていた。


 ハァッ。またため息が出る。園長先生に言わせると、私は受け持ちの子供たちにのめり込んでいると注意された。私は子供たちが困っていたら、一緒になって解決したいと願ってしまう。園長先生はきっぱりと言っていた。保育園は親御さんが働いている間だけ、お子さんを無事に預かっておく場所です。それ以上でもそれ以下でもない。普段は穏やかで優しい園長先生だけど、園長先生の考えは、どこか冷たく感じた。


 ハァッ。今の職場を辞めた方がいいのだろうか。恵太くんのお母さんに目をつけられたら、保育園にも迷惑をかけてしまいかねない。いっそのこと、保育士すらも辞めてしまおうか、私の気持ちはどんどんネガティヴになり、この世からパッと消えてしまいたい。と、願ってしまった。それがいけなかったのか、私の足元に急に大きくて真っ黒な穴が開いて、私はその穴に落ちてしまった。



 お姉ちゃん、お姉ちゃん。私は子供たちの声で起こされた。イヤだ、私ったらお昼寝の最中に自分も寝てしまったのだろうか。私は慌ててガバリと身体を起こした。私の側にはとても可愛らしい男の子と女の子が心配そうに私を見ていた。二人は兄妹なのだろうか、年の頃は十歳くらい、青い綺麗な瞳に、髪はプラチナブロンド。ゆるくウェーブがかかっていて、外国のキッズモデルのようだ。外国?!私ははたと気がつく。私を心配そうに見ている二人は、外国の子供たちだ。何故英語のわからない私に言葉が分かるのだろう。私は気を落ち着けるために、今いる場所を見回した。そこは壁が石造りの小さな小屋だった。私の寝かされていたベッドは粗末で硬かった。私は子供たちに向き直ると、笑顔で話しかけた。


「ありがとう、あなた達が私を助けてくれたのね?私は篠原もみじ。あなた達は?」


 子供たちは顔を見合わせてから笑顔で答えてくれた。まずは男の子から、次は恥ずかしそうに女の子が。


「俺はセネカ!」

「わ、私はヒミカ」

「セネカ、ヒミカ、よろしくね。ねぇ、あなた達のお父さんとお母さんは?」


 私の問いに二人は顔を曇らせる。この家はひどく荒れていて、掃除や手入れがされている気配がなかった。セネカは意を決したように話し出した。


「父ちゃんは最初からいない。母ちゃんは、用があるからって家を出てったきり帰ってこない」


 私はハッとした、育児放棄という言葉が頭に浮かんだ。改めてセネカとヒミカのいでたちを見ると、二人ともボロボロの服を着ていた。母親がいない間、二人はどうやって暮らしていたのだろうか。私は疑問に思う事を質問した。


「お母さんのいない間、食事はどうしているの?」


 セネカは笑顔になって答えた。


「俺たち自分で獲物捕まえられるぞ!もみじ腹減ったか?なら何か獲ってきてやる」


 そう言うとセネカの身体が急に毛むくじゃらになった。私はびっくりし過ぎてヒュッと息を飲んだ。セネカはモフモフの犬になっていた。驚いた私にヒミカはしまった、という顔をした。どうやら私に、セネカが犬になる所を見られたくなかったようだ。私は二人が心配しないようにつとめて明るく言った。


「わぁ、セネカなんて可愛いの!」


 そう言われたセネカはちょっと不満そうだ。犬になっても顔の表情は雄弁だ。ヒミカは言葉を付け足す。


「もみじ、犬じゃなくて狼だよ。もみじは狼怖くない?」


 ヒミカは私が狼を怖がらないか心配したようだ。私はかぶりを振った。


「ううん、ちっとも。だってセネカが優しいいい子だって知ってるもの。セネカごめんね、とってもカッコいい狼だよ」


 私の言葉にセネカとヒミカは安心したようだ。ヒミカが言葉を続ける。


「もみじ待ってて、美味しいもの獲ってくる!」


 そう言うとヒミカも小さな狼に姿を変え、二人は、いや二頭は石造りの小屋を出ていった。後にはボロボロの服が残っていた。狼のセネカとヒミカが獲ってくる美味しいモノは、大体予想がついたので覚悟しておこう。そして目まぐるしく状況が変化して、混乱していたが、私は確信した。ここは日本じゃない!それどころか今まで私がいた所の常識が全く通用しない世界に来てしまったようだ。


 まぁそれはおいおい考える事として、まずは調理器具の確認だ。私は簡素なベッドから起き上がり、台所と思われる場所に立った。ほこりをかぶったかまどには大分火が入れられていないようだ。鍋か何かないかと近くにあった戸棚を開けてみるが、鍋はみな錆びついて使い物にならなそうだった。私は困ってしまい、鍋が欲しいと思った。すると、驚いた事に、私は大きな鍋を手に持っていたのだ。


 私は状況が飲み込めず、口をパクパクさせながら大きな新品の鍋を抱えていた。鍋をかまどの上に置き、深呼吸を一つする。ここは私のいた世界じゃない。可愛い子供たちが狼になる世界だ。私が鍋を出現させても何も不思議じゃない。私は自分で自分を無理矢理納得させてから、もう一度願った。すると、右手には大きな包丁が握られていた。少し状況が飲み込めた。どうやら私は、頭に思い描いたものを取り出せるらしい。


 次に私は油を想像した。やはり手には私がいつも自宅で使っているオリーブ油のビンが握られていた。面白くなってきて、私は次々に物を出現させた。料理酒、みりん、醤油、砂糖、酢、物が増え、小さな調理台に乗りきらなくなってしまった。私は少し思案してから、目を閉じた。目を開くと、そこには木のテーブルと、三脚のイスが現れた。私はお皿、コップ、ナイフにフォークとカトラリーまで揃えた。そこでセネカとヒミカが帰って来た。外に出て見ると、予想はしていたが、予想以上に大きな猪がセネカとヒミカの前に横たわっていた。セネカとヒミカは褒めて、褒めてというようにしっぽをフリフリしていた。私は背中に冷や汗をかきながら、二人に礼を言った。セネカは人間の姿に戻ると私に言った。


「もみじはどの部位がいい?ふともも?肩?俺が噛み切ってやるよ」

「……、ねぇセネカ、お母さんはどうやってお料理してたの?」

「母ちゃんは猪の皮はいで、肉と骨と内臓別々にしてたぞ」

「セネカできるの?」

「うん、いつも母ちゃんのやるの見てた」

「私もできるよ!」


 狼だったヒミカも人間になり、元気に答えた。私はホッとため息をついてから二人にお願いした。


「ありがとう、セネカ、ヒミカ。じゃあその前に」


 私はこと切れた猪の前にしゃがみこむと両手を合わせ、黙とうした。セネカとヒミカは、私が何をしているのか分からず目を白黒させていた。私は二人に向き直ると、二人の目を見て話した。


「この猪は今から私たちのご飯になります。つまり私たちの身体の一部になるという事なの。だからセネカとヒミカも感謝のお祈りをして?」


 セネカとヒミカは見よう見まねで私と同じように手を合わせた。私は立ち上がると、頭の中であるものを想像した。私の両手にナイフが出現した。それを見たセネカとヒミカは驚きの声を上げた。


「わぁ、もみじは魔法を使えるの?」

「うーん、台所限定かな?」


 私はあいまいに答えた。私は猪の解体をセネカとヒミカにお願いして、小屋の裏手に行った。私は地面に手をつくと、井戸を頭に思い描いた。私の目の前には石造りの井戸が現れた。セネカたちに水はどうやってくむのかと聞くと、山を下った川までくみに行くと言われたので、井戸を作ったのだ。次に私は再度地面に手をついた。地面から次々と野菜がとび出してきた、にんじん、トマト、セロリ、大根、しょうが。私はスコップを取り出すと、できた野菜を収穫した。台所に行くと私は猛然と野菜を切り出した。


 私のストレス解消法は料理を作る事だ。無心に野菜を切っているとリラックスできるのだ。そこへセネカとヒミカが大量の猪肉を持ってやってきた。私は猪肉を一口大に切ると、塩胡椒して、小麦粉をふって、油で炒めた。いったん猪肉を皿に取り出す。次に湯むきして細かく刻んだトマト、水、炒めた猪肉を入れ、アクを取りながら煮る。次に別のフライパンで炒めたにんじん、セロリを鍋に加える。本当は玉ねぎを入れたいけれど、狼のセネカとヒミカがお腹をこわすといけないので入れない事にする。赤ワイン、ソース、ケチャップ、砂糖、塩胡椒で味をととのえて煮込む。


 猪シチューを煮込んでいる間に、内臓の下処理をする。いただく命だ、無駄にするわけにはいかない。腸は綺麗に洗って、お湯でゆでる。これを何度もしないと臭みが取れないのだ。そして私は今度はパン作りに取りかかる。強力粉、イースト菌、バターを取り出してからはたと気づく、オーブンが無い。考え直して私は強力粉、イースト菌、バターの上に手を置く。するとホカホカのパンが出現した。表面はパリッとして、中がモチモチのパンだ。もしかしたらお料理の必要がないのかもしれない。だが私は料理が好きなのだ。


「わぁ!美味しそう。これ全部もみじが作ったの?!」

「ねぇ、食べていいの?食べていいの?」


 テーブルに猪のシチューの皿と山盛りのパンを目の前にして、セネカとヒミカは大はしゃぎだ。私は二人と一緒に手を合わせてからいただきます、をした。猪のシチューをひとさじ口にして、私は驚いた。獣肉だからもっと食べにくいのかと思っていたが、セネカとヒミカの処理が上手だったからか、猪肉は口の中でホロホロと溶け、とても美味しかった。セネカとヒミカは美味しい美味しいと言って、大鍋にあった猪のシチューと山盛りのパンはすぐになくなってしまった。食後のデザートに、シフォンケーキに生クリームを添えてセネカとヒミカに出してやると、二人はシフォンケーキを食べるのが初めてらしく、目をキラキラさせながら食べてくれた。紅茶を飲み終えると、私は二人に話を切り出した。このままセネカとヒミカをこの小屋にいさせておくわけにはいかない。でも私も元の世界に戻るために行動を起こさなければいけないのだ。


「ねぇ、セネカ、ヒミカ。人間のたくさんいる街に行ってお母さんを探さない?」


 私の言葉にセネカとヒミカは困ったように顔を見合わせる。セネカは意を決したように話し出す。


「母ちゃんに人間の多い所に行くなって言われてる」

「どうして?」

「俺たち獣人は数が少ないから、捕まったら売られてしまうんだ」


 私の疑問にセネカは顔をゆがませながら答えた。売られる?セネカとヒミカは狼に変身できるけれど、れっきとした人間だ。それなのにお金で売り買いされてしまうなんて、人権侵害もはなはだしい。私は怒りがわくと共に一つの考えが浮かんだ。セネカとヒミカのお母さんはすぐ帰ると行って家を出たのに未だに帰ってこない。セネカとヒミカを見ていると、お母さんに愛情を持って育てられた事がうかがえる。ならばお母さんはセネカたちの元に帰りたいのに帰れない事情があるのではないか。つまり捕まって売られてしまうような。それまで黙っていたヒミカが声を出した。


「私、お母ちゃんを探しに行きたい。もしかしたらお母ちゃん私たちが助けに行くのを待っているかもしれない」


 セネカはヒミカを見つめ、強くうなずいた。そうと決まればセネカとヒミカを早く寝かせなければ。女と子供の足では山を降りて街まで行くにはかなりの時間が必要なはずだ。セネカとヒミカはお腹がいっぱいになったためかすぐに寝てしまった。私は後片付けをした後、ミシンを出現させ、若葉色の布を取り出した。セネカとヒミカにお洋服を作ってあげるためだ。セネカにはシャツとキュロットを、ヒミカにはワンピースを。想像して出現させればいいと思いいたったのは、二人の服がもうすぐ完成する時だった。まぁ、愛情はたっぷりこもっている。私はセネカとヒミカの横に倒れこんで寝てしまった。私が異世界に来て最初の一日が終わった。




















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