第12話   櫛 と 簪

 此度の地揺るぎで火が出たのは内神田だけではなかった。昼餉時だったため、あちこちで火の手があがったが、真昼間で、火の気のあるところに人が多くいたせいか、それとも防火用水などの普段の用心が効いたのか、大火事になったのは数えるほどだった。

喜市はそれを一つ一つ訪ね歩いた。

お圭のような娘が一人で行けるはずのない遠くでも、念のために歩き回った。。

お圭は・・お圭はなぁ、手前ぇの身売りの借財を、追い借りするような女だぞ、朋輩女郎のために女郎の啖呵売するような女なんだ。

死ぬわけねえ。あいつがそう易々と死んでたまるか・・もうそれは、取り憑かれたかのようだった。


江戸の町の復興は素早い。地揺るぎから三日目には火事跡は更地になり、引き取られなかった遺体は無縁仏として葬られた。

あちこちに避難していた者も、知り人を頼ったり、御救い小屋に移ったりしていなくなり、五日目には、早くも長屋の建て前が行わるという速さだった。

探すところも無くなった喜市は、いつもの明神様の手水舎にいた。

柱にもたれて、ぼんやりしていると、石灯篭の後ろに人の気配を感じた。

まさか・・・

バアッとお圭が顔を出して、えへへと照れ笑いをするのではないか。

儚い思いで、灯篭の後ろに回ると、小柄な中年増が灯篭下の地面から赤い手拭を取り上げたところだった。

「おい、それは・・」

声をかけると、女はびくっとしたように立ち上がり、手拭を差し出した。

「い、いえね、ネコババしようとしたんじゃないんですよ。まだ取りに来てないのかなあって、心配になって・・」

赤い手拭には、宗助の黒漆の櫛と喜市の唐辛子の簪が包まれていた。

「ど、どうしたんだ、これ・・」

声が裏返っていた。


内神田の、橋のたもとで中年増はお圭らしき女と出会ったらしい。地揺るぎのすぐ後で、女は明神様にお参りに行った母親を案じて橋を渡ろうとしていた。

「明神様の方に行くのかい」

お圭らしき女はそう聞いてきたという。

そうだというと、これを鳥居から見て右の石灯篭の下に埋めておいてほしいと頼まれたのだそうだ。

「うっかり落として汚れたり、残ってた火種に当たって焦げたりしたらいけないだろ。すぐ取りにいくからさ」

そう言った女は、しくしく泣いている三つばかりの女の子の手をひいていたという。

「この子のおっ母さんを探してやらなきゃならないんだよ」

そして、火の出ている町に戻って行った。


喜市は震えていた。

叫びだしたいのをこらえ手拭に包まれた櫛と簪を握りしめていた。

恐らく、怖い顔をしていたのだろう。中年増は“じゃ、渡したよ”と口の中でいいながら逃げるように去って行った。

喜市は思わず膝をついた。それから向きを変えて灯篭にもたれ掛った。

お圭は、あの女は、そうやすやすと死んだりはしねえ。そう思って、諦めずまだ探して歩くつもりだった。しかし、あれから六日、生きているのなら、これを取りに来たはずだ。

体中の力が一気に抜けてしまって、喜市は目を開けていられなくなった。そのまましばらく気が遠くなっていたのかもしれない。


「さあお立ち合い、御存じ七色唐辛子だ」

お圭の、あのちょっと掠れた、けれどよく響く低い声が聞こえる。

三年前のあの声だ。

目を開ければ、赤い手拭で頭を包み、赤い襷を掛けた牛蒡娘がにっと笑いかけてくる。

いや、いや、いや。

目を開けては駄目だ。分かっている、空耳だ。

その証拠に、もう聞こえない。

手には、櫛と簪を包んだ赤い手拭がある。

お圭、橋の袂まで来てたんじゃねえか。もう一足、橋を渡ればおいらと宗助に会えたのに。ばかやろう、おおばかやろう。

涙ってなあこんな風に、次から次に出てくるもんなのか。きりがねえ。きりがねえけど、どうやって止めるのかわからねえ。

喜市は身動きもせず、ただ涙を流し続けた。

 

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