第十話
「もう、びっくりしちゃった。あの部屋を開けたら、畳の上に人形が転がってるじゃない? どこから湧いて出たのかと思って」
綾子さんが笑いながら父に話しかけている。父も照れたように笑っている。私はその様子を、朝食をとる桃花の面倒をみながら聞いていた。
父と話した後、兄とも話せなかったのは残念だった。何やら慌てた様子で出かけてしまったのだ。相変わらず手回しのいい綾子さんが「委細承知」という感じでまとめた荷物を持たせていた。一晩が明けたけれど、兄はまだ帰宅していない。
そういえば夜の間、不審な物音はしなかった――と思う。鬼頭さんがくれたあの人形には、やはりなんらかの効果があったのだろうか。
「圭一、最近出かけてばっかりよね」
母が不満そうにつぶやいた。声には出さないが(きっとこの家にいるのが厭なんでしょうよ)と思っているのだろう。私も同感だった。
「今お仕事忙しいみたいよ? 休日も呼び出しなんて本人もイヤでしょうけど、しょうがないよねぇ。おかあさん、お茶いる? 今日はコーヒー?」
綾子さんが母をなだめるように声をかけた。母がふーっとため息をつき、「じゃあ、コーヒーかな」と答えた。
「お砂糖もミルクもなし?」
「そうね、ブラックで。ありがとう」
穏やかな食卓の光景を眺めながら、私は鬼頭さんの年齢のよくわからない顔を改めて思い出していた。また彼女に会いたい、と思った。この家のことを何か知っている様子だったからだ。
昨夜は確かに平和だった。私の知る限り、足音も人の気配もなかった。あの人形が仕事をしてくれたのだとすれば、鬼頭さんには何らかの力があるに違いない。何もできないかのような口ぶりだったけれど、それでも私やほかの家族よりは何かわかるだろう。
(でも、霊能者だとしたら相談料とかってかかるのかしら。あとでお父さんに聞いてみよう)
私の前に湯気のたつマグカップが置かれた。
「勝手にいれちゃった。砂糖なし、牛乳入りだよね。朝はあったかい方がいいのよね」
綾子さんがにっこりと微笑んだ。何もかもそのとおりだった。
私たちは半月ほど、平穏そのもののような日々を過ごした。
その間、あの部屋は静かだった。真夜中の足音もしなければ、なにかが部屋に入ってくることもなかった。私は母と「最近静かでいいね」と言い交わした。「ずっとこのままだったら、離婚なんかしなくていいんじゃない?」と言うと、母は首を傾げつつも「そうね」と答えた。
父とは「鬼頭さん、すごいね」という話をした。父もやはり、もう一度彼女に会わなければならないと思っているようだった。あのひとなら、この家に取り憑いた問題を解決してくれるかもしれない。たとえ彼女に無理でも、誰かもっと強いひとを紹介してもらえたら。そう思うと、希望の光が見えるような気がした。
兄は相変わらず家を空けることが多い。綾子さんは普段どおり朗らかでソツがなく、家のことをよくやってくれている。祖母はあの部屋のことをどう思っているのかわからないが、見た限りは不満もなく、穏やかに過ごしているようだ。
桃花の様子も落ち着いている。少しずつ暗闇を怖がらなくなり、おもらしの頻度も落ちた。家族が増えたおかげか、語彙が豊富になって急におしゃべりが上手くなったし、笑顔も増えた。
心のどこかでこれが嵐の前の静けさと知りながら、ずっとこんな日が続けばいいと思っていた。
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