海の底の月

mino

はじまりのおしまい

 深い海の底へ、沈んでゆく。静けさがじんわりと、胸の中に染み込んでいき、まどろみの中に溶けていくような心地よさに包まれていた。

 僕はずっと、浅瀬の方に住んでいた。しかし、詳しいことはあまり覚えていなかった。


 海を沈んでゆくたび、記憶が剥がれ落ちていくような気がした。

 剥がれ落ちた記憶は、溶けて海の一部になっているのだと思った。だから消えてなくなったわけではない。その記憶の鱗が、僕の生きる世界を作っている一部でもある。僕の目には見えないどこかで、僕を支えてくれているのだ。


 かろうじて覚えているのは、「眩しい」と感じたことだった。水面に揺れる白い光が、きらりと光る。僕は少し眩暈がして、瞼を閉じた。

 水面に揺れる光は、少し眩し過ぎるから、もう少し静かで、薄暗いところへ行きたい。そう思っていると、気付けば僕の体は、勝手に沈んでいった。

 一体、どこまで沈んでいけるのだろう。このままずっと、沈んでいけるんじゃないかとさえ思った。


 宇宙を彷徨うというのは、こんな感覚なのだろうか。このまま沈み続けたら、どこか遠くの星に辿り着くのかもしれない。

(ずっとこのまま、どこまでも沈んで行けたらいいのに)

 僕の体が沈んでゆくたび、少しずつ息がしやすくなった。こんなにも息のしやすい場所があるのかと、僕は初めて知った。


 しばらく沈んでいくと、僕は果てしなく思えるような暗闇の中に迷い込んでいった。あたりは真っ暗で何にも見えず、しんと静まり返っているというのに、僕の思考はとめどなく溢れてきたので、退屈することはなかった。むしろ、こんなにもゆっくりと何かを考える時間は久しぶりのような気がした。
 僕は海に身を委ねながら、ゆっくりと、じんわりと、沈んでいった。


 そうして沈み始めてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 深海の良いところは、底が深いから、どこまでも沈んで行けるところだ。だけどあるとき、それが途切れることもある。

 こつん、と体が地面に触れた。不思議と痛みはなかった。柔らかい砂と、海の中に漂うふわふわとした感覚が、クッションの代わりになってくれたようだ。まるで母親が、眠った赤子をそっとゆりかごにそっと置くみたいな優しい感触だった。


 僕はしばらくの間、海の底でぼんやりと横たわっていた。


 ついに海の底についたようだ。周りには暗闇が広がって、しんと静まり返っている。僕はずっと長いこと、海を沈んでいたらしい。

(ここが、海の底なのか)

 海の底は、何か特別なものがあるわけでもなく、かといって何もないでもなかった。
思っているよりもずっと、しんと静まり帰っていた。けれども、僕はどこか、その静けさを好きになった。



 沈黙は、一つの音楽のようにも感じた。静けさの中で奏でられる音楽は美しくて、しばらくの間、ずっとそこで僕はその音楽を聴き浸っていた。

 しかし、ふと疑問が頭をよぎった。
(あれ……僕はどうしてここにいるんだ)


 その瞬間、その音楽は鳴り止んでしまった。それまで美しい音楽を奏でていた沈黙が、突然、恐ろしい海の魔物に変わってしまったのだ。


 世界にひとり、ぽつんと置き去りにされた、迷子になったように思えた。


(これからどうすればいいのだろう)


 すると、どこからか歌声が聞こえた。それは言葉じゃない、形にならない、「何か」だった。何かとしか言い表せない、不思議な感覚を覚えた。歌声が鼓膜を通って、その不思議な感覚が僕の心に何かを伝えようとしているのがわかった。

 僕はいてもたってもいられなくなって、僕はこの声に向かって歩き始めた。


 僕はこの歌声を追いかけなければいけない気がした。この歌声の方へ歩いて行けと言われているような気がした。

 僕はその声が、僕の行き先を知っているような気がした。それは言葉でも形でもない、「何か」だった。しかしその声は「こっちへきて」と伝えようとしているのを、僕はそれを確かに感じた。


 きっと、長い旅になる。どこまでも続く暗闇の中、微かに聞こえてくる歌声だけを頼りに歩いて行く。それがどういうことなのか、その時はまだ何も考えていなかった。

 その時に感じた自分の心を、僕は信じることにした。ただ、それだけだった。


 こうして、海底を歩き続けるという、途方もない旅が始まった。

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