第15話 銭湯
「石森氏、銭湯に行かないか」
守也氏が僕の部屋の襖を開けた。
「いえ、ちょっと、僕、いったん家に帰ります」
なんだかんだいって、急にトキワ荘に連れて来られて、そのまま三日が経っていた。当然家には帰っていない。君子さんに連れて来られて、そのまま、居ついてしまった格好になっていた。
「まあ、いいじゃない。銭湯に行ってからでも遅くはないよ」
守也氏は気軽に言う。
「はあ・・」
守也氏に手拭いを借り、僕と守也氏はトキワ荘を出て、銭湯に向かって歩き出す。結局、何ごとに対しても断ることの苦手な僕は、守也氏に誘われるがまま、銭湯に行くことになった。そういえばこの丸三日、風呂にも入っていない。丁度いいといえば丁度いい。
「商店街の向こうにあるんだよ」
守也氏が商店街の向こうを指差しながら言った。
「そうなんですか」
今時、銭湯なんていうのも、なんだか懐かしい。さっきまでの当惑を忘れ、僕は少しわくわくし始めていた。
そして、商店街を通り過ぎ、住宅街の角を二回曲がると、そこに目的の銭湯、鶴の湯はあった。
「近いですね」
「うん、そうなんだ。かなり利便性にもすぐれているんだ」
鶴の湯。その堂々としたたたずまいは、この平成の時代にあって、昭和初期の頃の面影をそこだけまだ残していた。オール木造建築と思しき、その重厚な作りは現代には絶対にありえない風格とたたずまいを見せていた。
「この町にはこんな銭湯があるのか」
僕はなんだかうれしくなってしまった。
「二人で七百円」
古風な番台に座る、しなびたように体の小さくなったおばあさんが僕を見て言った。
「はい?」
僕が慌てて守也氏を見ると、いつの間にか、もう脱衣場に上がってしまっている。
「やっぱり、僕が払うんですね・・」
仕方なく、僕は守也氏の分と二人分払った。守也氏はこういうところが異常にうまい。たかりの天才。おかしいおかしいと思いつつ、つい、僕は払ってしまう。
かぽ~ん
昼間の銭湯は、そこだけ別世界のように、のどかでゆったりとした時間が流れていた。
「気持ちいいですね」
「ああ」
僕は来てよかったと思った。湯船に浸かると、すっかり気分はリラックスモードに入り、今までやらなければと思って、あれやこれやと考えていたことなどすべて忘れてしまった。
だが、そんな平日の真昼間から銭湯で湯船に浸かる僕らいい若い者を見て、多分近所のおじいさんたちであろう他の客たちが、何かもの言いたげに露骨に不快の表情を浮かべて僕らをジロジロ見て来る。
「贅沢な話ですよね。真昼間から銭湯なんて」
「ああ、これ以上の贅沢はないよ」
だが、そんな視線も気にせず、僕たちは、湯船から立ち上る湯気の中に溶け込むように、とろけるような愉悦に沈んでいった。
「やっぱり、彼ここには住みこまないみたいだね」
守也氏が言った。
「鵺野くんですか」
「そう」
「そうなんですか。部屋は空いてるんですよね」
「うん、でも、あれで案外君子さんも人を見ているからね」
「そうなんですか」
「うん、やっぱり何かあるのかもしれないな」
「何かって何ですか」
「何かだよ」
「・・・」
銭湯から帰ると、なんだか心地よくて、なんだかもう実家に帰るのもどうでもよくなってしまった。僕は自分の部屋に帰ると、畳の上に横になって、そのまま寝てしまった――。
「石森くん、石森くん」
「ん?」
何か僕を呼ぶ声に、僕は目を覚ました。
「石森くん」
顔を上げると、入り口の襖が半分開き、その隙間から美咲さんが顔をのぞかせている。
「石森くん」
「はい」
「あんた暇でしょ」
「は、はい?」
「ちょっと漫画描くの手伝ってくれる?」
「えっ、は、はい・・」
いきなりの申し出に驚くのと同時に、美咲さんの絵を手伝うほどの力量などない僕はちょっと戸惑う。が、しかし、やはり頼まれると断れない僕は考える前にもう立ち上がっていた。
「でも、僕・・」
廊下を歩く美咲さんの背中に僕は声をかける。しかし、美咲さんはスタスタと行ってしまう。
「あの、僕、そんなに絵が・・」
「大丈夫よ」
「は、はあ」
しかし、不安だ。美咲さんのあの超絶テクニックを見てからでは、どうしても臆してしまう。
「これちょっと、消しゴムかけてくれる」
「えっ?あ、はい」
心配などしなくとも、結局手伝うのはベタと消しゴムとホワイトだった・・。
「ありがとう助かったわ。意外とめんどくさいのよね。こういう細々したとこが」
半日ほど手伝って、美咲さんの漫画は完成した。
「いえ、なんのお役にも立てない感じで・・」
僕が恐縮する。
「石森くんの漫画見せてよ」
美咲さんが突然僕を見た。
「いや、あの・・、君子さんにつまらないって破かれて、そのままゴミ箱に捨てられました・・」
「そう」
美咲さんは笑った。
「君ちゃんらしいわ」
「笑い事じゃないですよ」
「はははっ、ごめんごめん、でも、また描いたらいいじゃない」
「はあ・・、まあそうなんですが・・」
「描きたいことはあるんでしょ」
「はい、もうそれはいっぱいあります。あり過ぎて困るくらいです」
「だったらいいじゃない」
「まあ・・」
描きたいこともアイデアもいっぱいあった。
「でも、美咲さんみたいにあんなにぱっぱかぱっぱか描けないですし、描いた漫画だって、高校に通いながら一年くらいかかって描いたんですよ。それを破かれてゴミ箱に叩き込まれて・・」
その前に出版社に初めて持ち込みに行って、自分の漫画を完全否定されたことは黙っていた。
「それでも描いて描いて描きまくるのよ。誰が何と言っても描きまくるのよ」
美咲さんが僕を見て力強く言った。
「・・・」
僕は美咲さんを見た。
「人の意見なんか気にしてちゃだめよ。自分が面白いと思ったものが一番なんだから」
「・・・」
「自分の漫画を描くのよ。自分がいいと思ったものをひたすら描くのよ」
「・・・」
この時、美咲さんの言葉が僕の胸に大きく刺さった。美咲さんは人から評価されなくても、それでも描いて描いて描きまくっていた。人からおもしろくないといくら言われても、自分を信じて描きまくっていた。
美咲さんは、やっぱりすごい。なんてすごい強靭なメンタルなんだ。
「どうしたのよ」
突然立ち上がった僕を美咲さんが見上げる。
「美咲さんはやっぱりすごいです」
「はい?」
鼻息荒く言う僕を美咲さんがポカンと見つめる。
「ありがとうございます。どんなにつまらない漫画でも描きまくります」
「ん?それってあたしの漫画がつまらないってこと」
「あ、いえ、そうじゃなくて、人からそう言われてもってことで・・」
僕は、それからすぐに自分のうちに飛んで帰った。僕の中にやる気の固まりのようなものがマグマのように沸々と沸き立っていた。なんか急にやる気が沸いて来た。漫画を描きたくて描きたくてたまらなくなっていた。へこんでいる暇なんかない。漫画を描くんだ。とにかく描くんだ。
家に着くと二階の自分の部屋に駆け上がり、画材をかき集めバックに放り込むと、またすぐに階下に下りた。
「ちょ、あんた」
母が何日も家を留守にして、突然舞い戻ってきた僕に声をかけようとする。が、そんな母にろくろく説明もしないまま、僕はまた家を飛び出し、トキワ荘に舞い戻った。
「よお~し、描くぞぉ」
自分の部屋に戻った僕は腕をまくった。
「おっ、なんか気合いが入っているね」
守也氏が入り口から、そんな僕の背中を覗いた。
「ええっ、僕は描きますよ。描いて描いて描きまくりますよ」
僕は何か薬物でもやってそうな勢いで、興奮気味に言った。
「おおっ、すごい気合だね」
「あっ」
その時、僕は重要なことに気づいた。
「どうしたの?石森氏」
驚いて石森氏が僕に訊ねる。
「机がない・・」
机がなかった。というか生活に必要な物すべてがなかった。
「・・・」
僕は守也氏を振り仰ぐ。
「いや、そんな悲し気な目で僕を見られても困るよ、石森氏・・💧 」
困惑気味に守也氏が言う。
「貧乏で机の無かった赤塚不二夫先生は、本を積み重ねてそれを足にして、その上に板を乗せて机にしたそうよ」
その時、突然、守也氏の後ろから声がした。
「えっ」
僕たちは、慌てて守也氏の後ろの部屋の入り口を見た。
すると、入り口に立つ守也氏のその後ろから、何とも言えないスモークのような空気がどこからともなく流れてきて、そして、その空気を切り、時代劇のヒーローが見栄を切って現れるように、ゆっくりと君子さんがスーっと現れた。
「わっ」
僕たちはのけぞるように驚く。
「つまり、なんでも机になるってことよ」
だが、君子さんはそんな僕たちの反応などまったく意に介さず、僕をギロリと見下ろすように言った。相変わらずとても偉そうだ。そして、相変わらずどこに売っているのか、全身ド派手なセレブ服でその身を包んでいる。
「つまり、あなたにないのは、机じゃなく気合よ」
そこで君子さんは、笑うセールスマンの喪黒福造がドーンとやるように、力を込めて僕たちに指を差した。
「わああっ」
僕たちは、その迫るような勢いにその場にひっくり返った。
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