こうた魚の名もしらず
帆場蔵人
彼岸時化
(眼を閉じるといつも、
汗が止まらない、鼻血が垂れてくる)
サガミアメフラシが町にのし掛かり、深夜の町には雪消しの雨が降り注いでいる。ぼぅやり、と紫に発光する体表が緩やかに波打ち雨雲を背負ってゆく。あれが春を呼ぶのか、春があれを迎えるのか。解りはしないのだが、確かに春が来たのだと雨のなかで木蓮の蕾から白い吐息が漏れる。水緩み、私たちの温度が近づいた分だけ春になっていくようで、私はアメフラシについて歩き、アメフラシについて考える。あれはウミウシとも言ったか。スマホにメールが着信、……の件について、とあった。件、くだん、あぁ、あれも牛だ。いつのまにかサガミアメフラシは牛の体に人の頭を持つ件に変わっていた。くだん、いや、元来はくたべ、だったろうか。そういえば小学生の頃、久田米くんという同級生が海で溺死した。件という奴は不幸に対して、こうしたら良い、と予言するのだ。久田米くんは溺れる前に何か言っていただろうか。見上げるとかつての同級生の貌をした牛が何か呟いていた幸か不幸か私にはそれが聴こえなかった。しかし、幸も不幸も避けようがないのだから私たちは久田米くんのいない、春を何度も越して来たのだ。サガミアメフラシ、ウミウシ、或いは件は雪消しの雨を吸って風船みたいに膨らみパチンと弾けて町に降りそそいだ。そのとき。潮の引いた干潟で、アメフラシとウミウシの違いについて嬉しそうに語る少年が紫の雨滴となり肩を叩いた、が振り返ることはなかった。忘れてしまったことが多すぎると紫の水に呑み込まれながら私は……。
(誰にも気にされず、死ぬということは
約束を、秘密を抱えたまま行くということ)
朝の寝床で久田米とは誰だったのか考えたが夢の産物であるのか、現実なのがわかりもせず、調べる気もさらさらなかった。もう三月だというのに窓の外では雪が廻っていた。早めに出勤して雪かきをしないと、仕事にならない。そんな時にアメフラシとウミウシの違いなど、どうでもいい話だ。僕は急いで着替え、それからウミウシとアメフラシを検索してから職場に向かう。雪消しの雨が降る気配はなく、雪かきで肩が痛む午後にはウミウシもアメフラシも綺麗さっぱり消え去った。つみあげられたもの、たなにあげられたもの、そうしてつつがなく日々は過ぎていく。業務メールに題名を書きこむ。……の件について。決してくだん、くたべ。とよぶなかれ。春を待つのならば。
(寝返りをうつこともできない狭い脳みそ
そうなっちまったら生きる意味があるか)
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