第5話 《大和》悪口
もう戻らない日々ほど、美しいものはない。
最近、嫌になるほどそう思う。
「――大和様? いかがなさいましたか?」
心配そうな顔で俺を覗き込む呉羽を見て、現実に引き戻される。
「ううん、何でもないよ。少しぼんやりしていただけ」
大塔宮様が鎌倉へ送られることが決まって、数日経った。
期限は刻一刻と迫ってきている。
「そうですか、お体に障りますから、早くおやすみなさいませ」
「うん。今日はもう寝るよ」
呉羽に促されて、立ち上がる。
寝所に向かうと、綺麗な満月がぽっかりと暗い空に浮かんでいた。
途端に過去に引き戻される。
そう言えば、あの日もこんな満月だった。
* * *
「ああー! 疲れたっ! もうここにいるの嫌だよ!!」
真白が喚きながら、俺が本を読んでいた狭い部屋に駆け込んできて、傍でばたりと仰向けに倒れる。
今日は満月。
月光を浴びながら、ゆるい風を受けてゆらめく高燈台の炎で本を読んでいたけれど、突然の侵入者のせいで、集中力が切れる。
「うるさい、真白。静かにしてくれ」
「それはこっちの台詞だよ。何を読んでるんだよ」
「漢詩だよ。さっき書庫で見つけたんだ」
真白は俺の読んでいた本を覗き込んでため息を吐く。
「太一は暇があれば本ばかり読んでいるけど、楽しいの?」
「楽しいよ」
現代にないものが沢山あるから。
原文のままで読めたりするから、非常に貴重なものを読んでいると感動する。
「ふうん。俺はそんなに本ばっかり読んでいたら、腐りそうになるよ」
「腐ればいい」
素っ気なくそう言うと、真白は俺を小突く。
鈍い痛みに目を向けると、構って欲しそうな顔をして、俺を見上げている。
小さなため息を吐いて、仕方なく本を閉じる。
「……ここにいるのが嫌だって、何かあったのかよ」
尋ねると、真白はさらに苦い顔をする。
伊賀の藤林家に大塔宮様や真白たちと一緒にお世話になって、しばらく経つ。
戦の間の小休止。
藤林家では穏やかな時間が流れていて、戦もないし、俺は単純にもう少しここにいたい。
でも、どうも真白は、戦なんて厭わずに、早くここから出たいと思っているみたいだ。
「何もないよ」
そう言って不貞腐れたように顔を背ける真白を見て、何となく対処法を思いつく。
「あったんだろ? 何があった?」
真白は月子に似ている。
月子も何かあった時に限って、何もない、って言うんだ。
それでいて放っておくと拗ねるし、構ってあげないとへそを曲げるから、扱いが難しい。
黙つたままの真白に根気よく尋ねると、への字に歪んだ唇が渋々開く。
「呉羽、嫌い……」
「え? 呉羽さんが?」
元々真白と呉羽さんの仲が良くないのは知っているけれど、真白のそれは重症だった。
どちらかと言えば真白が一方的に嫌っている。
真白がよく向ける、女性に対する嫌悪感以上の何かがあるのは、傍いると何となく伝わってくるものがあった。
「呉羽さんとは、昔からの知り合いなんだろ? それなら今更だろ」
「確かに数年前からの知り合いだけどさ」
どんな知り合いなのか。
そう思って尋ねようとしたけれど、それよりも先に真白が一気に眉を顰めた。
「……あいつ雛鶴のこと悪く言ってる、から」
その言葉に、目を瞬く。
嫌い、に拍車をかけたのは、それが原因?
考えてもいなかった理由に、ごくりと唾を飲み込む。
真白は幼い子供のように、唇を尖らせて俯いている。
「……それは最近の話?」
「そうだよ。さっき聞いた。だから俺はこんなところにいたくなくて――!」
語尾を荒げた真白は、俺と目が合うとばつが悪くなったのか、言葉を切ってそのまま黙り込む。
姉ちゃんのことを呉羽さんが悪く言っているのは、確かに俺も知っている。
呉羽さんがいろいろと姉ちゃんのことを裏で調べているのは、もちろん大塔宮様もご存じで、この間直接大塔宮様から釘を差されていた。
だからもう姉ちゃんに矛先を向けるのはやめたのかと思ったけれど、どうもそうではないみたいだ。
冷静に考えれば、呉羽さんが釘を刺されたくらいで手を引くなんて確かにありえないよな。
「あの人が簡単に大塔宮様を諦めるわけがないだろ」
「それはわかってるよ。でも腹が立つ」
腹が立つのは、姉ちゃんを悪く言われて?
それとも、呉羽さんが大塔宮様に纏わりついているから腹が立つ?
答えは前者だってわかるけれど、この際だから真白の口から言わせたい。
そう思うのは、あまりにも真白が健気だから、どうにも意地悪したくなる。
「……ねえ、どうして真白が怒るの?」
「えっ……」
尋ねた俺に向かって、真白は目を見張る。
「雛鶴姫の悪口を聞いて、大塔宮様が怒るのはわかるよ? でも何で真白が怒るの?」
「そっ、それは……」
途端に真白はしどろもどろになる。
「ひ、雛鶴を悪く言うのは、大塔宮様を悪く言うのと同じだし! だから、俺は――」
その答えに、笑ってしまいそうになる。
単純明快な問いであるはずなのに、真白は自分でその答えを認められずにいる。
「馬鹿だな。悪口なんて相手にしなければいいのに」
「なんだよそれ。大塔宮様が俺は一番大事なんだよ! それに誰かの悪口なんて、聞いていて苛々する」
ぎろりと俺を睨みつけたのを見て、怒りの矛先がこちらに向いたのを知る。
誰かの悪口、と真白は言ったけれど、俺の悪口を呉羽さんが言っていたって、そんな風にはならないくせに。
真白の態度に、おいおい、と呆れ返ったけれど、もしかしてこいつは本気で――……。
すでに真白の一番は、別のものになっている?
真白が露骨だから、言葉にしなくてもどう思っているかくらい俺でもわかるけれど、明確に言葉にさせたくなる。
「なあ」
「え?」
「雛鶴姫の、どこがいいの?」
尋ねた俺に、真白は目を丸くする。そしてぴくりとも動かない。
唐突な問いに心底驚いたのか、そのまま固まったみたいだった。
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