耽美譚
小西オサム
第1話、華やかな末路
私は橋を歩いていく。それは近代的な造りで、吊り橋のように揺れることもなければ、木橋のように橋脚が軋むこともない。私はこれが私の人生だと直感した。どこまでも手堅い道ではあるが、渡りきるだけのありきたりな道。ただ黙々と歩き切るだけの道だ。
私はあえて歩調を緩めてみた。それは私なりの抵抗だった。しかしゆっくりと進めば進むほど自分が惨めになっていく。きっと今まで早歩きをしていたのは、この哀れな私に気づきたくなかったからだ。今、私は私を生ごみと一緒に捨ててしまいたい。
ある時もう名前の忘れた先生が私の文章を読んで、すごいねと褒めた。それが私の思い上がりの始まりだった。私はどんどん文章を書くようになった。文章を書いてはこれは革新だとつけあがった。それでも、どんなにあがいても誰一人として振り向かないことに気づいてしまった。
賞にはひたすら応募していた。いつもひどい評価だった。無評価だったこともあった。そして熱情が乾いでしまった。気がつけば私は何一つのめりこめなくなっていた。あれだけ読んでいた小説も全部捨てた。あの日から目の前に近代的な橋が架かった。
今もその橋を歩いている。時間を見つけては主人公が思い人と結ばれる物語に耽り、我に返ってまた歩き出すのを繰り返す。それだけの道のりだ。誰かと深い関係になることなどない。いつか渡り切ったときにほっとすることだけは確信している。
話し相手はいるが友人はいない。それは私が無趣味だからだろう。共通の趣味がない人間にあえて関わろうとする人などいないはずだ。それは分かっているのに、どうして人が交じり合う物語を求めているのだろうか。一人には慣れ切っているはずなのに、どうして他人の物語を渇望しているのだろう。
私は思考を強引に振り払おうとして、違うことを考えようとした。それでも事実は私に迫り、立っていられなくなった私は欄干にもたれかかって足を広げて座り込んだ。頬を滑り落ちていく悲しみを無造作に服でぬぐう。通行人が迷惑そうに私の脚をまたいで横切っていくのが分かる。
「あぁ歩かなくちゃいけないのに」
私はこのままでは不法廃棄物のように処理されることに気づいていた。それでも悲しみが流れなくなっても、私は歩き出せなかった。橋を渡る人間がいなくなった。もうそれぞれの明るい家に帰っていったのかもしれない。私を待つ家は真っ暗だ。
一人、向こう岸から歩いてくる人がいる。私はその人を力の抜けた眼差しで見ている。その人が女性か男性かは分からなかった。今までと同じように私を見ないふりをするのだと思った。私はそれでもなぜかその人がどんな人間か見てみようと思った。
その人が唐突に立ち止まって目線を上げる。私も思わずその方角を見やった。何かが迫ってきた。それは水だった。私は避ける間もなく全身に水を浴びて、びしょ濡れになる。生臭い。何が起きたのか、のみ込めない。私は立ち上がって状況を理解しようとする。橋には二人しかいないはずだ。
「あっ」
その声は私の声ではなかった。同様に水にまみれたその人の、若い女性の声だった。私は声の主である女性が指を掲げる先を見上げる。そこにいるのは巨大な黒い人影だ。巨人だと気づく。巨人の体からは川の水が流れ落ち続けている。巨人は全身に星々のように輝く粒をまとっている。
川から立ち上がっていた巨人は、右足を持ち上げて水しぶきとともに一歩進み、ゆっくりと川の上流を目指していく。そして水音を立てながら流れに逆らって私とあの女性から離れていく。巨人の体はわずかに透けていて体の向こうから、川岸に沿って並ぶ常夜灯の光もうっすらと見えている。
きっと巨人は下流の汚濁を嫌ってかつていた上流の清明を求めているのだ。人間の電燈にその体を照らされながら、月に見守られながら、巨人は私とあの女性に見向きもせず進んでいく。
この巨人に声はないのかもしれない。それでも全身がかつての清純さに飢えている。その身を汚れまみれにしながら懸命に力を振り絞って故郷に還ろうとしている。海に行けば雨雲になり、山に戻れるにもかかわらず、その運命に抗ってかつてを取り戻そうとしている。
巨人はゆっくりだが大きな一歩で遠のいていく。私はその巨人の一挙一動を記憶に残していく。巨人は歩き続けていたが、私とあの女性の立つ橋から十分に離れたところで体が崩れだし、右足がなくなっていき、川に倒れこんだ。水しぶきが遠くで飛散する。私は巨人の死を疑わなかった。
それでもまだ巨人は生きていた。巨人が両手だけで這い進んでいく。頭を上げて、右の手を天に向けて川に叩きつけ、左の手も前に勢いよく突き出して、下半身がなくなってきていても構わずに突き進んでいく。それでも体は失われていき、最後まで残っていた右手が虚空にかき消えた。
巨人は消え、夜が平静を取り戻す。私は何をしていたのだろうか。同じくこの光景を見ていたあの女性に視線を送ると、彼女は私に近づいてきて話しかけてくる。
「あの巨人は何だったのでしょう?」
「あなたも見ていたのですか。きっと誰もあの巨人のことを信じないでしょう。これを小説にできるだけの文章力があったなら」
「小説を書いているのですか?」
「昔の話です。もう諦めました。才能がなかったので」
私は彼女から目をそらして、巨人の目指した上流を見る。二人の沈黙がしばらく続いた。彼女が、あの巨人、死んでしまいましたねと呟いた。私はその言葉につい反論してしまう。
「巨人はまだ生きています。あの巨人は大気にくるまれて、いつか故郷に帰り、その時は酸性雨になっているのでしょう。そうしてあれだけ望んだ森を枯らしてしまうのです」
「そうですか」
「あっ。すみません。つい余計なことを」
「いえ。でも。そうですね。もしあなたの小説が読めるのなら、きっと私は見つけます。」
未来の読者がそう言って水滴をこぼしながら立ち去っていく。衝撃を隠せない私はその姿が見えなくなるまで目で追っていた。それから何かに急かされるかのように慌ただしく家路についた。水が私の熱情に命をもたらしている。何かを文章にしてみたいという心が噴き上げている。
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