棋士道

ろくいち

棋士道

 俺は高校入学の日、人生で初めての恋をした。校門での一目惚れだった。

 名前もわからないその子とは同じクラスになれなかったが、特殊な子のようで、すぐに噂が耳に入ってきた。


 将棋でしか会話できない。


 それが彼女の特徴らしい。

 有名な将棋の棋士だったお父さんが、数年前に病気で亡くなり、それ以来、言葉を失ってしまったが、唯一、将棋では気持ちを伝えることができるのだそうだ。

 俺は将棋には触れたこともなかったが、そんなことで諦められる恋ではなかった。

 将棋で語り合うためには、相当なレベルに達する必要があるのだろう。第一印象で、こいつはできるやつだ、と彼女に思われたくて、俺は将棋の勉強を始めた。


 近所の将棋教室に通い詰め、ひたすら対局を繰り返した。

 奨励会に入り、なんとか三段リーグに上がって、プロ昇格も期待された。

 これで彼女と将棋で語り合えるはずだ。気づけばもう高校三年になっていたが、俺は絶大な自信を得ていた。

 満を持して彼女のクラスに乗り込んだ。

 彼女の机の前まで行って、初めて話しかけた。

「俺と将棋しないか」

 彼女は一瞬きょとんとしたが、黙ったまま将棋の駒を取り出した。

 ようやく、ようやくこの時が来たと高揚していたら、彼女は、王将と桂馬を手に持って見せてきた。

「王将と桂馬……?」

 彼女は、コクリと頷いた。

 王将と桂馬。王と桂。おうけい。……。

「──オーケー!?」

 彼女は、にこりと笑った。


 将棋で会話するってそういうこと!?


 今までの努力とか、かかった時間とか、そんなことはどうでもよくて、彼女とコミュニケーションが取れたことが嬉しくてたまらなかった。


 その後、俺は、彼女にたくさんの話をした。その度に、彼女は、駒を使って色々な反応をくれた。

 高校を卒業しても交際は続き、プロポーズにも王将と桂馬を両手に持って最高の笑顔で応えてくれた。

 子供も二人できて、しっかりとした大人に育った。

 87歳で癌が見つかり、彼女の余命はわずかとなった。

 もう明日も厳しいと言われた日の夜、病室で彼女に聞いてみた。

「来世でも俺と結婚してくれるか?」

 彼女は、弱々しい手で、香車と飛車を持って見せた。

「──拒否ってことか?」

 彼女は、小さく首を横に振った。

「…………こんな質問するのは卑怯だってか?」

 彼女のシワシワの顔に、若干口角が上がったように見えた。

 俺は涙を必死に堪え、何気なく取った香車と歩兵を強く握りしめていた。

 彼女がまた手を伸ばし、歩兵を二つ持った手が、そのままベッドに落ちた。

 ピーーという電子音が部屋に鳴り響く──。


 しばらくしてから、彼女の歩兵を一つだけ取って、ナースコールを押した。

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棋士道 ろくいち @88061

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