怪しみの眼差し

「まぁ、簡単なことです。この世界を変えてしまえばいいんじゃないですか?」

雅麗姫は怪しみの眼差しを向ける。何を馬鹿なことを言い出すのだろうか? ただでさえ国疫軍は厄介なのに。美玲の言葉を聞いて、雅麗姫は「はっ」と短く笑うと、助手席に座り直し前を向く。「無理に決まってるじゃない。あたし達が何年かけてもこの有様だというのに」「いえ、意外にうまくいくかもしれませんよ?」

美玲はまっすぐ前方を向いたままハンドルを握り、口の端を上げて笑っている。彼女の言葉を聞き流しながら雅麗姫は自分の思考の中に沈み込むようにゆっくりと瞳を閉じた。

二〇一九年八月三十一日金曜日 午前十一時四分 首相官邸地下会議室にて緊急閣議が開かれる事になった。総理である柳月太の召集により官房長官を除く全閣僚が集結した。

円卓を囲むようにして椅子が配置されており空席はない。だが全員が着席したわけではない。内閣総理大臣である李麗華の姿がなかった。だが彼女は来なかったわけではない。彼女がいなかったのは会議が始まるほんの少し前だった。そのわずかな間に、彼女は姿を消し、また戻っていた。

「どういうつもりかしら?」麗華の秘書官である徐詠芳は小声で独り言ちると携帯端末を取り出し電話をかけようとした。「お呼び立てしたのは、ほかでもありません」議長である総理の脇を固めている初老の男性は静かに語り始めた。「昨日、東城大学医学部付属病院の高階病院長が殺害されました。ご承知のようにこの事件では国安局が介入しておりまして我々としても大変遺憾な状況と受け止めております」

「ええ」と総理は生返事をした。

彼は眉間を押さえてしばらく考えると「その件についてだが、君はどう思っている?」

男性は肩をすくめて苦笑いした。

「その国安局と東城大学の関係が非常に悪いらしいのです」男は声をひそめ周囲の高官たちに聞こえないように配慮したが、それでも全員の耳に届いたようだ。何人かの大臣たちからは不満げな表情が浮かんでいる。「つまり彼らは国益を損ねるような行動をしているということでしょう。私は彼らの行動に懸念を抱いている次第でございます」

「うーん」総理は低くうめきながら、こめかみを押さえてさらにじっくりと熟考した。「この件について君の意見を聞かずに進めていいのかどうか。ちょっと待ってくれないか?」

そう言い残すと彼はおもむろに立ち上がった。そして「どうだね?」

と問いかけるが反応はなかった。

(あのバカ)

と徐秘書官は毒づいた。だがここで席を立って出て行くことはできない。そんな事をすればかえって失笑を買うだけだ。仕方なく、再び自分の携帯電話を手に取った。

「私は反対ですね」真っ先に手を挙げたのは法務大臣だ。禿頭に汗を滲ませつつ身を乗り出した。

「何故かね?」総理は目をつぶり軽くため息をつくと「そもそも、国のために働いてくれと頼むのが筋ではないか」

「それはそうかもしれないけど」と言いかけた女性財務大臣は、すぐに発言を撤回した。どうも、居心地が悪かったのだ。総理が自分に向かって何かを期待しているのは明らかだったが、自分が期待に応えられない事は目に見えていた。

「私もあまりお勧めできませんね」今度は経済産業大臣が挙手をして、発言の許可を求めた。「もし彼らが国のためというより自己の利益の為に働いているのであれば、それを正すことに意味があるとは思えない」

「なるほど」と総理大臣が重々しくつぶやくと、今度は農林水産大臣が挙手をした。「国安局の人間に頼らずとも我々の力でこの国の食糧自給率を高められるはずではありませんかな?」

彼の顔つきからは微塵もその意思がないことがありありと伝わってくるが、この場の雰囲気を変えようとあえて空気を読むことなく口火を切ったのだ。だがこの男も、他のどの大臣たちと同様に、総理が自分の考えに賛同してくれるとは露程にも考えていない。

「それも一案ではあるが」と総理は言って一旦言葉を止めたが「いや」と続けた。「しかし私はその提案には賛成しかねる」

その答えは、大臣たちもある程度予測はしていたが、残念そうな態度はおくびにも出さない。

その後もいくつか反対意見が出されたが、結局、総理の考えが変わることはなく「では本案件は見送りとする」と言う言葉で、その議題は終了となった。


***

午後三時三十三分 内閣法制局は庁舎内のとある部屋で、先程の閣議で出された文書をまとめていた。その書類の表題には『特殊戦略調査班報告書』とあり、その下に連なる文字が連なっている。その内容は多岐にわたるが「高度に政治性の極めて高い案件につき」詳細は割愛させていただいたと注釈が記されていた。そこに現れたのは内閣官房に所属する若手の女性官僚。「ご苦労様です」

彼女の労いに「いや、これも仕事のうちだから」と言って彼女は缶コーヒーを差し出す。「そういえば、最近柳月さん見ませんねぇ」

そう言われて女性は苦い顔をした。彼女は今、柳月総理の補佐官を務める立場にあった。つまり彼女こそが件の「高階病院長が殺された事件の調査をしていた政府組織の人間なのだ。

「まったく、どこをほっついているんだか」と、女性が鼻から大きな息を吐き出して愚痴を漏らすと、ドアが開いた。噂の主である柳月総理の登場だ。彼は挨拶をする間もなく質問攻めに遭うことになった。

彼女の報告を聞くにつれて、柳月総理の顔から血の気が引いていくのがわかった。そして一通りの話が終わると、彼は椅子の背もたれに深く背中を埋めて大きく息を吐いた後、「まさか、そんな事が本当に?」と言ったきり言葉を失ってしまった。

(さては、知らなかったんだな)

内心で呟いたものの彼女はそれを口にしなかった。柳月総理はこの国の最高権力者であるが、同時に政治家でもあるのだ。彼も政治家なら国民が求めている事を考えなければならない。だが、彼はこの事態を想定していなかったのだろうか?

(あり得ない事じゃないだろうに……いや違う、おそらく、こうなって欲しいと思いつつもどこかで現実を受け入れられなかったのか……いずれにしても私と同じか……そうでなければ……)彼女は胸の奥がずっしりと重くなるような気分に襲われた。「どう思う?」「どう思いますか?」

二人はほとんど同時に声をかけ合った。「どうやら私たちは同じことを思ってるようね」「同感だ。このタイミングでのこの事出て来ていいのかね? この国は」

彼女は唇を真横に結んで黙って首肯した。「だがこのまま放っては置けない。なんとかしなきゃならん」「私も同じ考えです。まずは東城大学に乗り込んでみます。なに、向こうには高階病院長を殺した共犯者の可能性もある」「私の部下も連れて行かせる。くれぐれもこの事は他言無用だ」「わかっています」


***

二〇一九年八月三十一日金曜日 午前十時五十八分 総理官邸地下駐車場には黒塗りのセダンが停まっていた。その運転席で彼女は腕組みをして思案を巡らせていた。

(いったい、どうやって調べたものかしら?)「何者なんですかあの女?」

助手席に座っている部下の唐木は不思議そうに後部座席にいる麗華の後ろ姿を見ていた。「知らないわよ」麗華は不機嫌に言い放った。(この役立たず!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る