月の裏側

雅麗姫は呆気にとられて口を開けた。「氷の下が本体って事?」

「はい、本当かどうかは知りませんけど」

「うっそぉ、信じられない!」

「人類は火星で大失敗を犯しました。資源不足を補うために、天宮計画を前倒しにしたのです。その結果、天宮計画は暴走しました。地球を脱出するはずだった船は軌道を外れて大気圏に突入しました」

「何があったの?」

「わかりません。当時の記録は抹消されましたから。それで、まあ、色々あって、天宮はバラバラになって燃え尽きました。ところが、氷の下には宇宙船の一部が残っていました」

「どこにあったの?」

「海底に沈んでいました。海の底に眠る都市の遺跡。それが天宮五号テングウゴウの正体」

雅麗姫はすっかり興奮していた。「ねぇ、その話をもっと聞かせて」

「いいですよ。ただし、退屈な話になりますが」

「全然OK! だって、おもしろそうだもの」

「じゃあ、お茶でも飲みながら話しましょうか?」

二人は近くの休憩室に入った。自動販売機で温かい飲み物を買って、テーブルについた。

「それで、どんな風に始まったの?」

「天宮計画が凍結されたのは知っていますね?」

「うん、確か核戦争を想定した環境整備だったよね」

「そう、その通り。核戦争で文明が崩壊しても生き残れるように、大量の物資を備蓄する。そのために大陸間弾道弾の発射プラットフォームが必要だった。しかし、それは同時に宇宙移民計画への備えでもあった」

「つまり、宇宙開発競争に勝つために?」

「そう、でも、負けちゃった」

「どうして?」

「アメリカは自国主導の宇宙ステーションを建造し始めたから」

「あっ、それって」「そう、ケネディ大統領暗殺事件をきっかけにアポロ計画が中止されて、アメリカの主導権は失われてしまった」

「それって、もしかして」

「ええ、日本は独自に有人宇宙飛行を実現する必要があった。そこで、月面基地の建造に踏み切った」

「じゃあ、この天宮も月面に?」

「いいえ、最初は金星を目指そうとしたらしいですが、断念したようです」

「どうして?」

「当時の技術力ではとても無理だったから」

「でも、今の技術なら?」

「可能でしょうね。だけど、日本の科学者たちは誰も挑戦しなかった」

「どうして?」「理由はいくつかありますが、最大の理由は資金不足でした。月ロケットの開発費だけでも天文学的な数字だった。おまけに金星まで行くとなると、予算が足りなくなる」

「じゃあ、なぜ、月へ?」

「そこが天宮計画のキモだからです。月に何かを降ろせば、必ず話題になる。マスコミの注目を集められる」

「だけど、月には何もないでしょう? それに月の裏側は何もない死の世界だって聞いたことがあるわ」

「表向きはそうです。だけど、裏側には巨大な空洞がある。月の表側よりずっと広い空間が。その奥深くには、太古の昔に忘れ去られた世界が広がっている」

「そんなの眉唾だわ」

「私も半信半疑でした。でも、今は確信を持って言えます。あの人たちも同じ意見です」

「誰のこと?」

「特調です」

雅麗姫はゴクリと生つばを飲み込んだ。「その人たちは何をするつもり?」

「それは教えられない。だけど、貴女にも協力してもらいます」

美玲は懐から一枚の写真を取り出した。

雅麗姫は絶句した。そこには雅麗姫自身の姿があった。しかも、全裸で。

「こ、これは……」

「貴女の身体を隅々まで調べさせていただきました。その結果、興味深い事実が判明しました」

「な、なによ、あたしを脅すつもり?」

「いいえ、貴女が協力的になるようにお願いします」

美玲は妖艶な笑みを浮かべた。「私たちと一緒に世界を救いましょう」

雅麗姫は言葉を失った。

天宮計画はその後、国家一級機密に指定され、ごく一部の人間しか知らない。特調は天宮計画に深く関わっている。

美玲の言うことは本当かもしれない。少なくとも嘘はついていないだろう。だが、彼女の背後にいる特調の狙いは何なのか? 雅麗姫は必死に考えた。だが、何も思いつかなかった。

その時、ふと思い出したのは、妃花の言葉だった。

――私はこれからどうなるのでしょうか。

彼女は言ったのだ。自分は医学の進歩のために利用されるのだと。

(まさか……)

雅麗姫の顔から血の気が引いた。

「ど、どういうこと?」

「おやおや、まだ気づいてなかったんですか?」

美玲が呆れた顔でため息をつくと、携帯端末を操作してある動画ファイルを開いた。

そこに映し出されたのは雅麗姫自身の姿だった。それも素っ裸のまま横になっている。

「これって、あたし?」

「そうです。貴女が氷漬けにされた時の映像です」

「なんでこんなものが?」「それは秘密です」

美玲はにっこり微笑んだ。「これでわかっていただけたと思いますが、貴女はもう逃げられない」

雅麗姫は震える声で尋ねた。「あたしに何をさせるつもり?」

「ご想像の通りです」

雅麗姫は頭を振って、弱々しく抗議した。「嫌よ。絶対に嫌!」

「貴女の意思など関係ありません。貴女は特調に協力する義務があります」

「冗談じゃない。あたしは医者であって、学者じゃないの!」

「もちろん、わかっています。貴女は単なる助手。それ以上でも以下でもない」

「なら、放っておいて!」

「残念ながらそういうわけにはいきません。特調は貴女たちを必要としている」

「あたしたちが?」

「はい、貴女が目覚めてから、すでに二百年が経過しました。その間、貴女はただ眠っていたわけではない。人類の進歩を加速させるために働いていたのです」

「あたしが?」

「ええ、その証拠がこれ」

美玲はポケットから小さな装置を取り出すと、雅麗姫に手渡した。

雅麗姫はしげしげと眺めたが、何の変哲もない腕時計にしか見えない。

「何これ?」

「通信機です。時計のベルト部分にマイクを内蔵しています」

「それで?」

「手首に巻いた状態で話しかけると、相手側のスピーカーから声が流れます」

「それで?」

「それだけです」

雅麗姫は首を傾げた。「えっと、それで?」

「だから、それで終わりです」

「それだけ?」

「ええ、それだけ」

「何に使うの?」

「それを話すと面白くないので黙秘権を行使します」

雅麗姫はがっくりと肩を落とした。「わかったわよ。付き合えばいいんでしょ、付き合えば」

「話が早くて助かります」

雅麗姫は深いため息をついた。「で、具体的に何をすればいいの?」

「まずは情報収集です」

「情報って言われても、何を?」

「何でも構いません。噂話でも都市伝説でも。とにかく、ありとあらゆる情報を収集する必要があります」

「具体的には?」

「とりあえずはSNSで呟いてください。『#天宮』というタグをつけて」

「天宮? 天宮って何?」

「天宮というのは天宮五号の略です。液体窒素タンク、冷却塔、宇宙船本体で構成された構造物の総称です」

「つまり、月の裏にある巨大構造物を探せって事ね?」

「ええ、天宮に関する情報を集めれば集めるほど有利になります」

「でも、どうやって? 月の裏側なんて肉眼で見えるものじゃないでしょう?」

「そうですね。普通に考えれば無理でしょうね」

「じゃあ、どうやって?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る