二〇一九年・死神の鎌
さっき別れたばかりの三嶋が、ニヤニヤ笑いながら中寉を見ている。
全身が総毛立つ思いで、承は三嶋を捉えた。
自分の友人がこうした場で狼藉を働いていたことを知って衝撃を受けたのではない。そうではなくて……。
「お前だったのか!」
身体の隅々まで行き渡る冷たい恐怖を振り払うためには、声を出す以外に方法はなかった。
あの日、あの夜、……修学旅行三日目の夜、下着の中に侵入して来た手。
承に目をやって、「あれは俺じゃない。北川っていたの覚えてるか? あいつだよ。あいつが焦りやがってさあ」と肩を竦める。
班の人間たちの顔を思い出す。三嶋、いま名前の挙がった北川、そして……、
「沢崎と、山部な。知ってる? 山部このあいだ結婚したってよ、相手誰だと思うよ、渡邉。図書委員の」
中寉は流石に驚いたようだ。シドと承が顔見知りであったことに、そして、承に不快な思いをさせた人間、……複数いたことは今初めて判明したわけだが、そのうちの一人であったなんて、と。
「誰がって訳じゃねえよ。あの部屋にいたお前以外全員で、そうしようぜって決めたんだ。今はやたらにデカくなったけど、あのころのお前はさあ、可愛かったじゃん、そこの『坊や』が高校生だったころよりも」
「失敬なことを仰らないで頂きたいですね。マスターは今だってこんなに可愛いのです」
お前は何を馬鹿なことを言っているんだ、と言い掛けたことで、僅かながら理性を取り戻すことが出来た。代わって浮かんで来るのは怒りである。三嶋が、他の連中が、同性愛者であったことに怒っているのではない。
それならばそうと言えばよかった。懇々と、申し訳ないけど俺はそういう対象としてお前らを見ることは出来ないと、きちんと対話することも出来ただろう。
「あなたがなぜあのような横紙破りをして平気でいられるのか、ずっと疑問でした。かつてマスターにした卑劣な行為に味を占めて、大人になってもこどもみたいな真似をし続けていただけとは。驚きを通り越して呆れましたね」
軽蔑しきった視線と言葉にも、三嶋は怯む素振りさえ見せない。
「上之原お前、この『坊や』のコレなの」
下品なハンドサインに、吐き気を催しそうになる。
「お前が同類だったってことも驚きだけど、でも、こういうのがいいのか。この『坊や』がすごいビッチだってこと、お前知ってんの?」
「マスター」
中寉の鋭い声がなかったら、飛び掛かっていたかも知れない。
「僕がどれほと穢れていようと、マスターの人間としての尊厳が毀損されることには繋がらないはずです」
中寉が小さな身体で承を三嶋からの軽んじるような視線から庇うように立ち塞がる。
「以前、僕は申し上げましたね。あなたのような人はこの場に相応しくないと。もっとも、人権を蹂躙して笑えるような人に相応しい場所なんて、この世界にそうそうあるはずもないのですが」
「随分なこと言うじゃねえか。人を犯罪者みたいに」
「あなたは犯罪者ですよ。当時十八歳になっていなかった僕の肌に同意なく触れようとした時点で、もう立派に犯罪者です」
細い背中に承の圧を感じたのだろう。中寉がぐっと両足を踏ん張る。
「証拠があるんならな」
三嶋は少しも動揺しなかった。
「もうずっと前のことだ。今更騒いで何になるって言うんだ?」
「証拠がないことを証明するために、あなたは金輪際ここに、他の駅のティールームに、近付かないことです。マスター」
不意に言葉が自分に向いた。
「ミツルさんから教えていただいたことがあります。この場所で、この人に乱暴された『子』がいたと」
承も、覚えていた。同じ話を中寉もされたことがあったらしい。彼の店で働いていたボーイが、ティールームの狼藉者に……、という話。
しかし、どこのティールームであったかミツルは話していない。そして被害者である当時少年を襲ったのが三嶋であるかどうかは。
「その『子』に聴いてみるのが一番早いでしょうね」
その「子」と、中寉は言った。中寉より歳下であるとは思い難いが、承は意図を汲むことが出来た。
その少年を襲ったのが本当に三嶋であるかどうかは、実のところそれほど大きな問題ではないのだ。
ただ、これは承にも確信出来る。中寉が見たという、そしてさっきのストライプネクタイのサラリーマンも見たと言っていた可哀想な大学生だけではない、そして危うく毒牙に掛かりかけた中寉だけでもない、三嶋が蹂躙した男は、……かつての承自身も含めて、多くいる。
心当たりが、三嶋にはあり過ぎる。
特定の誰かを引っ張り出すまでもなく、三嶋をこの場から遠ざける抑止力となるのだ。
しばし、中寉と三嶋の視線が真っ向からぶつかっていた。大人とこどもは言い過ぎにせよの体格差はあるが、小柄な中寉は全く臆する素振りはなく、……やがて三嶋は不貞腐れたような一瞥を残して承の脇を擦り抜けてトイレを出て行った。ずっと残っていた高校生の少年は、額に滲んだ汗を手の甲で拭ってほうっと溜め息を吐き出す。
「びっくりした、びっくり、しました。あの……、え……、あの……」
「あなたには、まだ少し早い場所ですよ」
一転して穏やかな声で諌められて、縮こまる。言われてみると、仕草や表情の作りかたが未完成で、一度気付いてしまうともう高校生にしか見えない。
「仮にあなたがいつか、僕にとってのこの人のように、心の底から愛したいと思える人と出会っても、その相手があなたを愛することがリスクと隣り合わせになってしまうのは嫌でしょう? あとほんの少しだけ待ってからでも、全く遅くはありませんよ」
さらりと余計なことを言われた気がする。高校生はぺこりと頭を下げて出て行き、トイレには承と中寉だけが残された。もっとも、一時的なことであろう。きっと、待つほどもなく次から次へとまた、遊びに来る男たちがいるのだろう。一夜どころではなく、下手をしたらほんの十分足らずの短い悦びを交わすためだけに。
この場所の、倫理について論じる言葉は承にはない。しかし、三嶋を見て、こういう場所をあいつが、もっと早くに知っていたなら、発散する術を持っていたなら……、あそこまで迷惑な存在にはなりえなかったのではないかと、悲しい気持ちが湧いてくることを止められない。
「マスター、お付き合い頂きましてありがとうございます」
振り返った中寉は、承にしか見せないと決めているはずの、柔らかくて甘い笑みを浮かべて見せた。表情に伴って声の質も、和やかなものとなる。一方で先ほど三嶋に向けて放った冷たい声、高校生に向けられた厳しくも優しい声、いずれも承は初めて聴いた。
まだあとどれぐらい、お前は隠しているんだろう?
もっとも承だって、中寉が自分の何もかもを知り抜いているなどとは思ってはいないが。
「……あんま長くいると臭いが付きそうだ」
「そうですね。マスターはいつもいい匂いがします」
また馬鹿なことを言う。来年で三十になる男がいいにおいなものか。さっさと移動しよう。移動して、空調の効いた部屋に行こう。そして風呂に入るのだ。中寉はどうあれ、承は自分の汗の臭いははっきりと「くさい」と思う感性を有しているので。
と。
「おい」
中寉の左手が、彼自身の胸に当てられる。
俄かにその指へ強い力が走り、爪を立てる。童顔を、そもそもコンパクトな身体を引き立てる空色のTシャツにきつい皺が寄った。
「……おい!」
すぐさま、発作だ、と察した。
中寉の、もとより色白な顔から一滴残らず血が引いていく。ほとんど死体のように、冷たい色となる。咄嗟に抱き支えた承を頼りに額を胸から腹へと下ろして膝を曲げ、深く屈む。
「そのま、ま」
浅い呼吸に、声はか細く震えていた。「その、まま、いてください」
「その……、このままって、お前……」
「一緒に、いてください」
中寉の両手は承のジーンズのベルトを掴んでいた。自分で身体をきちんと支えて立っていることだって出来ないくせに、指には尋常ならざる力が籠っている。
「そばに、……いてください、僕の、そばに」
「中寉」
「いてください」
呼吸をしている。中寉は、呼吸をしている。
かけがえのない呼吸、血液中の酸素の交換、肺が横隔膜によって膨らみ、萎む、人間の生命維持のためのシステム。
中寉は間違いなく呼吸をしている。ゆっくりと、確実に、自身の身体に酸素を行き渡らせようと。
それは承にもはっきり聞き取れるほど異常な呼吸だった。
す、す、す、す、す、す、す、す。
は、は、は、は、は、は、は、は。
す、す、す、吸い込む音に、は、は、は、吐き出す音に、横隔膜の一往復、肺の膨張収縮の一サイクルに、す、す、す、は、は、は、異様なほど小刻みな余白が挟まる。
余白。
それがいまの中寉の心臓の拍動なのだと気付いたとき、承はほとんど恐怖に叫びたくなった。数えてどうする、数えてどうなる、しかし、無意識のうちに数え、……計算してしまう。一分間で二百を超える脈拍。
いまこの瞬間、中寉の心臓が狂っている。
「中寉」
承は自分の声の震えを止めることは出来なかった。
「中寉」
ああ、こいつは死ぬんだ。やっぱり俺よりずっとずっと早くに死んでしまうんだ。
ハムスターの腹に出来た黒く禍々しい腫瘍を見たときと同じ、厄介なものが承の心臓には巣食った。俺よりずっと可愛らしくて、価値のある命なのに、もう死んでしまうのだ。
どんなに願ったって、死神は止まらない。極めて事務的に、手にした鎌と時計を見比べて、はい、もうおしまいです、この者の命は尽きました。なので、連れていきますね。いいえ、お代とかは結構です。そういう決まりなのです。誰が何をしようと、この者の命はここまでと決まっていたので、連れて行くだけです。
なので、邪魔はなさらないでください。
「はぁ……」
中寉の呼吸に声が混じった。「はああぁ……」
呼吸から余白が消えていた。
すうぅ。
はぁあ……。
すう。
はあ。
確かめるように、何度かそう繰り返して、……中寉は承のベルトをしっかり掴んで、じりじりと腰を上げていく。頭のてっぺんを承の腹に当てたまま、ゆっくり、時間を掛けて膝を伸ばし、冷たい汗を吸って濡れた承のシャツにすがりながら立ち上がり、最後に、とても静かに、自身の頭蓋骨と脳を尊重するように、顔を上げる。
「ごめんなさい、マスター。大丈夫です」
大丈夫なものか。
心臓が悪い、という言葉の意味を知った。
ブルガダ症候群という病気について、もちろん承は調べようとしたが、中寉に「おやめになった方がよろしいです」と止められた。
どうすることも出来ないことを確かめることにしかなりません。運命を恨むよりは、限られた時間でどう幸せになるかを考えるべきだとおっしゃったのは、マスターではありませんか。
僕も出来るだけ考えないようにしています。心臓がまともに動いていてくれる時間、ご覧の通り、僕は案外普通の人間と変わりません。爆弾が破裂するその瞬間まで、能う限り普通の人間で生きていたいと思っています。いえ、マスターに出会えたのですから、僕はもう普通の人の何倍も幸せだと自負しているのです。
もし一つ、心配があるとしたら。
僕のいなくなったあとにも、マスターが、僕といた時間の何倍も何倍も幸せになってくださるかどうか。マスターはお優しい方なので、なんだか、悲しみのための時間を多く使ってしまうような気がして。
そうなのだろう、きっと、そうなのだろう。いま一先ず、奇跡のように生きている中寉を見て、承は喉に苦しさを催した。しかし、だからなんだ。命の掻き消えかける瞬間を見てしまった。あまりに呆気なく死んでしまう中寉を、明瞭に見てしまった。
こんなことで気付きたくはなかった。
単純に、承は中寉を愛していた。
目を逸らしていなければいけない。直視してはいけない。思いを募らせてはいけない。端的にこの男はとても厄介だから、愛してはいけない。判っていたのに、もうとっくのとうに。中寉を愛することで生まれる悲しみの何倍もの痛みを、何十倍もの苦しみを、ずっと味わい続けて来た中寉に、「死ぬな」と我が儘を言うことばかりは、どうにか避けられたけれど。
「……動けるなら、行くぞ」
「はい。でもその前に、マスター」
命を繋ぐために小さく屈んでいた中寉が背伸びをして、頬に唇を当ててきた。
「僕はマスターを愛しています。ですが、どうか、マスターは僕を愛さないでくださいね」
例えば高校生を愛するように、リスクを背負わせることになるから?
もう手遅れだ。
「おうち着いたら、セックスをしましょう」
中寉は、生きていたい、とは言わないのだ。ただ、生きている、という現実を、現在進行形で自分が存在している価値を、心の底から理解している。そして、時限的な生であることを理解し尽くしているからこそ、淫らに在る。新しい命を産むことの出来ない男同士のセックスを承とするとき、中寉はもとより美しいその肢体をいっそうまばゆく煌めかせる。そうしているときの中寉は承が呆れるぐらい元気で貪欲だ。セックスをし続けていれば、この男は死なないのではないかとさえ思うほどに。
そんな幻想を、妄想を、形にすることは出来ない。一回のセックスにどんなに時間をかけたところで、必ず途切れ、身体は解ける。陰毛を全部剃ったら承がもっと喜んでくれるのではないかという中寉の期待は残念ながらあまり効果的とは言えなかったけれど、承は彼が眠いと言うまで彼を抱くことは、……もう能動的な願いとして出来るのだ。
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