カスミソウとスノードロップ

如月 小梅

カスミソウとスノードロップ


 序章

 やっと書き終えた。大きく背伸びをし、南向きの窓を見ると、外には雲一つない青空が広がっていた。ついに彼女の物語を終えたのだ。

 背の高い青年が「終わったよ」と小さく呟き、西篠美羽の部屋から静かに去っていった。パソコンを開いたまま。そこにはその小説の題名があった。

「カスミソウとスノードロップ」



 1トンネル

 もう消えかかっているオレンジ色のランプが、落書きだらけのトンネルの中で横たわっている人物を照らしていた。近くには大量の暗い液体が広がっていて、手には銃が握られていた。その手がピクリと動いたのを最後に彼女は息を引き取った。


 2目覚め

 a.m.6:00

「おはよ、今日は出張で大阪行ってくるから帰ってこないよ。三重の友達にもちょっと顔出してくるから、お土産赤福でいいよね。じゃ遅刻しないようにね」そう言って母は家を飛び出していった。わざわざ布団をはがす必要はないのに。ぶるっと震えてもう一回布団をかけなおして寝る。僕が暮らすこの家は学校から徒歩5分の距離にある。だからまだ寝られるのだ。

 つぶらな瞳の青年が次に目覚めた時には九時だった。何時間寝たのだろう。昨日いつ寝たのかさっぱり記憶がない。やってしまった……遅刻だ。今頃学校では数学をやっているのか。じゃあ二限に間に合うようにいけばいっか。こんなかんじで言っているが、僕は遅刻をしたことがない。ついでに言うと、小学校から今まで皆勤賞だった。後でお母さんに怒られるんだろうなと思いつつ、パンを取り出し、トースターにのせる。僕は焦げるのがきらいでこんがり茶色くなるのが好きなので、だいたい四分で焼く。そして、朝お母さんがいれたと思われるコーヒーをコップに注ぐ。この豆、もうそろそろ買いに行かなきゃ。我が家のコーヒー豆はキリマンジャロと決まっている。でもちょっと冒険してもいいよな、あとでほかの豆を買いに行こう。一人でぶつぶつ言いながら、トースターからパンを取り出しバターを塗る。テレビをつけて、パンにかじりついたその時、あるニュースが飛び込んできた。

「東京都文京区のトンネル内で遺体が発見されました。えー、警察は事件の可能性とみて、捜査を……」

 いまでもニュースにあった文字が頭から離れない。

「西篠美羽(17)死亡」と。



 雨の中、白い手が小さく見えたが一瞬でブルーシートで隠されてしまった。あの白い手は本当に彼女なのだろうか。彼女が死んだという実感が湧かなくて確かめようとしたのだが、トンネルには立ち入り禁止のテープが張られ、まったく近づくことができなかった。ブルーシートから出てきた警察官二組が真っ白な手袋を外しながら、こう話しているのが聞こえた。「頭と胸を撃つなんてどうかしている。頭で死んでいるのに胸も撃つ理由はなんだ」と四十代の頭のキレそうな警察官が喋る。そして、いかにも新米警察官が言う。「でも、後藤先輩、あともう一発ありましたよね? えーとどこだっけ」僕が耳をそばだてて聞いていると、一つの物影が通り過ぎた。傘を差した背が僕よりちょっと高い青年だった。近所のおばさんたちが少しの興味で見に来た中、僕と同じくらいの人がいるのは驚きだった。本来なら学校の時間だ。「なんで死んだんだよ」と震える声で呟いていた。僕が話しかけに行こうと思ったその時、おばさんたちの波に飲み込まれて姿が見えなくなってしまった。せめて顔だけでも 、とおもったのだが波から抜け出した時にはもういなかった。その日は寒雨だった。


 彼女の葬儀が終わった帰り道、僕はぼんやりと彼女のことを思い出していた。彼女と初めて会ったのは確か去年の三月。彼女は駅のホームで小さな雀を観察していた。雀は線ギリギリで下をつついていた。彼女は電車が来るとき雀が飛び出さないように見ていたのだろう。やがて電車が来ると雀は小さな羽を広げて彼女の目の横を飛んで行った。なぜ僕が彼女を見ていたかというと、僕も雀を見ていたからだ。断じて彼女に興味があったからとかそういうことではない。

 その日は一瞬目が合っただけで、何も話さなかった。次に会ったのは二週間後だった。神保町の三省堂で僕が本を読み漁っていた時、「落ちましたよ」とスリップを拾ってくれたのは、あの雀を見ていた彼女だった。

「ありがとうございます」

「私もその本読みました。日高を殺した理由を悪意としたところが不完全燃焼で、でもなぜか面白くて、だまされて……。あっ、ごめんなさい。まだその本読み終えていないのに……。本当にごめんなさい」

 僕は思わず吹き出してしまった。一回しか会ったことのない人間にここまでネタ晴らしをするとは。僕じゃない別の人だったらキレられていたかもしれない。

「え? なんで笑ってるの? 」

 彼女は困惑した顔で僕を見つめていた。その顔が面白くて僕はまた笑ってしまった。

 それから彼女と会ったらお互いのおすすめの本を話すようになった。彼女はこれといった好きな作家はいないらしく、いろいろな作家の本を読み、その中で気にいった本だけを紹介してくれた。

「主人公は田舎に住む男の子で母二人に育てられたの。なんで二人かっていうとね……」

 彼女はストーリーを事細かに説明するから大事な部分もすべて言ってしまう。だから結局本で読むことはなく彼女の読んだ話を聞いて楽しむ時間となっていたのだ。でもそれ以上、彼女と仲良くなることはできなかった。だって彼女はいつも一定の距離をとっていたから。

 気づいたら見慣れた家が目の前にあった。僕はポストから紙袋を出し、鍵を取り出す。東京の文京区に住む人間として、鍵をポストにいれたまま外に出ていくのは危険行為だが、自分の鍵をなくしてしまったので親の鍵を借りたのだ。確か数日前までは僕の制服のポケットにあったのだが。紙袋とともに、たまった新聞やちらしを出した時、一通の手紙が足におちてきた。

「來山 愁様」

 僕に手紙を送ってくるやつは思いつく限り誰もいない。離れたともだちもいないし、まあそもそも友達自体が少ない。唯一心から話すことができるのは、幼馴染の大地くらいだ。誰だろう、わざわざ手紙を送ってくるような奴は。封筒をひっくり返す。

「西篠 美羽」

 は? 美羽? なわけないだろ。何度目をこすってじっと封筒を見つめても、そこには西篠美羽と書かれたきれいな字が並んでいた。もしや誰か知らない人のいたずらか、と疑うが、僕と美羽の関係を知っているのはサッカー少年の大地ぐらいだ。大地は自他ともに認めるほど字が汚い。あいにく僕は彼女が字を書くところはみたことがない。字を書く場面はなかった。彼女と会う時はいつも図書館や公園だった。

 とりあえず、家に入ろう。議員の汚職が書かれた新聞のうえに手紙を置いて抱えながら鍵を開ける。抱えきれなかった事実たちが足元にばさりと落ちた。ああもう。どうしてこんなにあるんだよ。読まないなら頼まなきゃいいのに。


 家に入ってから僕はテーブルに置いた封筒と向き合っていた。読むか読まないか。封筒をびりびりと破いていた時、家のチャイムが二回なった。二回押すのはあいつしかいないな。さわやかサッカー少年、大地である。もちろんイケメンである。

「何の用だよ。忙しいんだけど」

「ごめーん、家の鍵忘れちゃってさ。親帰ってくるまで入れてくれない? 」

「わかった、今行くわ」

 うまく破れなかったびりびりの封筒をソファーの下にスライドさせる。

「おっ。久しぶりに見る顔はムンクの叫びみたいだな」と大地は、にかっとさわやかな笑顔で憎たらしいことを言う。

「今から家に入れてやるっていうのに。だいたい高校生なんだからゲーセン行くとか寄り道すればいいのになんで俺ん家なんだよ」

「じゃあ今から行っちゃう! ? 」

「それはやだ」

「だと思ったわ。一人でゲーセンいってもつまんないっしょ。じゃ、おじゃましまーす。はいこれ、今日のプリント。おさぼりの君、この前、何の連絡もなかったから、高橋ぷんぷんだったよ」

「ああ。忘れてた。先生そんな怒ってた? 」

「いーや。ぷんぷんというほどでもなかったかも。ま、多少大げさに言うのがいいじゃん? 」

 大地とは幼稚園からの仲だ。僕と大地は違うところが多すぎる。例えば僕はピーマンが嫌いだが、大地はピーマンの肉詰めが大好きで、大地は納豆が苦手だが、僕は納豆ご飯が大好物という風に。つまり、気は合うが好みは正反対ってことだ。運動や勉強だってそうだ。大地は運動が得意で、サッカーは小中高ずっとレギュラーだ。僕は運動がてんでできないっていうのに。

「ね! これ食べていい? ありがと! 」

 そう言って僕の夜ご飯のピーマンの肉詰めを食べだした。夜ご飯である。むろんピーマンからキレイに肉を取り出しほおばっている。

「大地さあ、ちょっとは遠慮しろよ。今度おごりな」僕は大地の自由さがうらやましかった。のんきにピーマンからとった肉を口いっぱいにほおばる大地が。


「愁」

「なに。まだ何か食べるの? 」

「明日学校来いよ」

 大地は自分のリュックからペットボトルを取り出しごくごくと音を立てて水を飲むと

「じゃ、俺帰るわ。明日再テストだし。嘘、再々テストだったわ。おじゃましましたー」

 といってあっという間に帰ってしまった。

 あいつ、やっぱり僕の様子を見に来るのが目的だったのか。ふっと一人で笑う。僕は美羽が亡くなってから約二週間学校を休んでいる。あいつは僕と美羽の関係を知っている。ただの知り合いでも恋人でもなかったことも。そう僕が美羽を好きだったことも。全部あいつにはお見通しなのだ。さすが大地。お前には一生勝てる気がしない。

 僕は残ったピーマンをできる限り口に詰め込んで、泣きそうな眼をこすった。



 3 最後のお願い

 次の日僕は学校に行かなかった。

 正確には一時間目だけ出た。そして帰った。つまらなかったから。大地は一度だけ引き留めたが後を追ってくることはなかった。

 あ、手紙。僕は破るのに失敗した封筒をソファーの下から取り出す。今度は丁寧に鋏をつかってきれいに切る。そこには一枚の紙と鍵が入っていた。なんでこんなところに鍵を? ひとまず手紙を読むとするか。

「來山愁様

 お元気ですか。突然の手紙でごめんなさい。この手紙は私が死んだころに届いてるはずだから、きっとあなたは怪しんでいるんでしょう、この手紙本当に美羽が書いたのかって。大丈夫、本人です。ますます混乱しているのが想像できます。でもちょっと冷静に読んでほしいの、これ、私の最初で最後のお願い、よろしくね。


 私を殺した犯人を捜して小説の続きを書いてほしいの。ごめん殺されることは知っていたの、それでも死んでもいいって思ったから。

 最後がこんな形でごめんね。鍵は私の部屋の書斎。家の人に言えば、話は通してるから入れてくれると思うよ。本当にありがとう。君のおすすめの本はしっかり全部読んだよ。感想も書いて、パソコンのファイルに入れてある。ちゃんと読んでよ、愁くん。これで自由だよ。   

 西篠美羽」

 ああ、これは彼女だ。彼女が僕の名前を呼ぶときにはいつも君付けで、それ以外は《キミ》だった。彼女はいつもちょっと意地悪で、ぼくを放してはくれない。どうしていつもこうなんだろう。君は僕の中から消えないだろうな。永遠に。

 彼女は殺されることを知っていた。自ら死を選んだ。

 誰が彼女を殺したのか、僕は確かめなければならない。解決したって、彼女が僕を解放してくれる訳では無い。彼女が言った自由が、彼女自身を指しているのか、僕を指しているのか、僕には分からない。でも、後者なら彼女はわかってない。僕に彼女がいなくなった自由などいらないなんて。

 彼女の最初で最後のお願いだ。

 書かなければ。書いたこともないけど。絶対、犯人みつけるから。お願いだから、自由とは言わないでくれ。

 僕は初めて美羽が死んだことを実感する。葬儀に出て彼女の写真を見ても、彼女はどこからかまた話を聞かせてくれるように思っていた。僕の眼は涙をこらえることができなくなっていた。


 嗚咽が響くリビングでただ時計だけがこの世界を生きていた。


 4 立花紫織

 僕は美羽の通う高校の正門の前で待ち伏せをしていた。ストーカーじゃなく、質問だ。というか、話を聞きに来た。こんなお昼時の目立つ時間に。立花紫織に。立花紫織は美羽の親友であり、クラスのリーダー的存在で、明るい陽キャだ。僕の一番苦手なタイプ。だが、話を聞かない訳には行かない。だって美羽の親友だし。

 「じゃあ、また明日! 」

 立花紫織は友人と話しながら校門を出てきて、お互いの帰路へと別れた。

 僕はすかさず声をかける。

 「あの! 」

 「私? 」

 「えーあのそうです、僕、美羽さんの友達で……」

 彼女の顔が一瞬で暗闇を帯びた。

 「美羽の? 何の用? 何しに来たの? 」

 彼女はガラスにヒビが入るような冷たい声で僕に聞いてきた。僕は思わずたじろいでしまった。こわい。友達が少ないから慣れてないとかそういうわけじゃない。この変わりよう。ただ単純にこの人怖い。そう思ってしまった。

 「ねぇ。何。まさかあんたが殺したんじゃないんでしょ? ねぇ、なんか言ってよ」

 「違う。僕は犯人探しをしに来た。その為にまず彼女の周辺の人に話を聞きに来たんだ」

 僕は言った瞬間後悔した。これじゃ、まるで立花紫織を疑っているみたいじゃないか。 「私が殺したとでも? なわけないじゃん。美羽は私の友達よ。帰って。今すぐ帰って。二度とこないで、もう美羽のことは思い出すだけで辛いの、頑張って学校に来たのに、なんで初めて見た美羽の友達であるあんたに会わなきゃ行けないわけ? いい加減にして」

 そう言ってそそくさと歩いていってしまった。彼女の目は校舎の赤色よりも赤く燃えていた。

「待っ……」よびとめることは出来なかった。

 なんでかなんて、後ろ姿からでもわかったからだ。立花紫織が泣いていることは。


 失敗だ。聞き方が悪かった。というより無神経だった。でもこのまま話を聞かずに終わる訳には行かないのだ。明日も来るしかない。女子は苦手だ、美羽を除いて。僕は陽キャか陰キャか言われたら、陰キャだ。大地は陽キャ、モテモテの陽キャ、女子には冷たいけど、そこが女子にはキュンと来るらしい、よく分からない。冷たさ以外は完璧なんだよな、ほんとむかつくやつだ。ピコン! ズボンのポッケからスマホが鳴いている。

「おーい。いい加減宿題届けるの嫌なんだけど、学校来てくれない? 俺、毎日高橋と話すの飽きた! 」

 ちょうど大地からLINEが来た。

 ごめん、大地。しばらく行けそうにないや。

 心の中でつぶやき、電源を切って僕は次の訪問者の家へと向かった。


 5 嵯峨崎佑

 見るからに豪邸だった。この家の周辺では。いや、まぁ東京にいる時点である程度お金持ちなのは確かだけど、僕のふるーい家のようなものじゃない。ピカピカの新築だ。車庫付きの。

 ピンポンを鳴らす。

「はい」

「來山愁です。西条美羽さんのことで話があって来ました。」

「美羽? わかりました。今出ます」

 ガチャ、ドアを開けて出てきたのは、寒雨の時の青年だった。分かったのは着ているのが同じ服だから。背が高くて、これまたモテそうな青年。嵯峨崎佑 、さがさきたすくという。

「あの、誰ですかあなた」

「美羽さんの友達で、ちょっとお願いをされていて美羽さんの親しい人達に話を聞けないかなぁと、思って参りました。」

 「俺、美羽と親しくないです。過去の話です。」

「でも付き合ってたんですよね? 」

「……」

 はぁ。と彼の口から白い雲がでてきた。

「元彼だけど何が言いたいの? 」

 と、鋭い切れ長の目で僕を睨む。

 「どうか、彼女の詳しい話を聞かせてください。どうしても彼女に頼まれたことがあるんです」

「俺に期待したところで得るものは何もないよ。どうせ、犯人探しだろう。美羽は殺されることを知っていた、とか」

 僕はぎょっとした。彼の目は僕を見ているのではなく、もっと遠い世界を見ていた。そして、寂しそうに笑った。

 「どうやらあたりのようだね。ちょっと話してあげる。無駄話かもしれないけどね。中に入って」


「はい、お茶」

 目の前に緑茶が差し出された。残念ながら緑茶は苦手なのだ。でも出されたものを飲まずに返すのもなんだかダメな気がする。彼の視線から目を逸らしたくてお茶をすする。

 「君、美羽のこと好きだったんだろ」

 思わず吹き出す。

「……なんでそれを」

「見ればわかるよ。 大丈夫。元彼だから別に気にしてないよ。まぁ俺も美羽のこと忘れられないけどねぇ」

 ゲホゲホゲホ。やっぱり緑茶なんて飲まなければよかった。この男のいれた緑茶だからこそだ。

「ところで、何が聞きたいの? 」

「えっと、彼女の性格、言っていたことなど、あと一応事件の日何していたかも」

「警察みたいだね。こんな怪しいことしていて、警察に怪しまれないの? 」

「さぁ。僕は彼女と同じ学校じゃないし」

「まぁいいけど」


 彼の話が始まる。無駄に詳しかった。


 彼女と初めて会ったのは塾の講義だった。彼女の存在は前から知っていたが、俺は彼女に興味がなかった。

 しかし、現代文の時間彼女はこんな質問をした。

「人間、生きることと死ぬことどちらが怖いですか」

 教室はざわついた。彼女は何を言っているんだろう。そんなの死ぬことに決まってるじゃないか。病んでいるのか。彼女は少し変だよな。などなど。

 面白い。俺だけがそう思った。俺はモテるけど、人を好きになったことはその時まで無かったんだ。


 はぁ。どうぞ続けて。


 俺は講義が終わって彼女に声をかけた。

「さっきの質問面白かった。」

「へ? あぁ。ありがとう。」

 彼女はそう言って立ち去ろうとするからびっくりしたよね。ほら俺かっこいいじゃん。だから、すぐ行こうとしてね、驚いたの。

「待って! 名前は? 」

 知ってるくせに聞いたんだ。

「西条美羽」

 彼女は長い髪をたなびかせて行ってしまった。

 そんな口をへの字にしないで聞いてよ。ここからが大事なんだからさ。


 さっさと言えよ。大事なとこだけ言えよ。僕は心の中で悪態をつく。


 次の日も彼女に会ってね、質問してみたんだ。

「生きることの方が怖いって言ったらその人はどんな人だと思う? 」って。

 彼女はね、こういったよ。

「失うものが何もない人。大事なものがない人」

「やっぱりそう言うと思った。それ君のことでしょ」

 彼女は下を向いて長い黒髪を耳にかけながら、小さな唇から本音をこぼした。

「本当はね気づいて欲しかっただけなの。ねぇ、ちょっとだけ私と付き合って」

 最初は、このあとどこか行くから、着いてきてって意味かと思ってたけど、交際の意味だった。

 まぁその告白は今も笑うけどね。だって、別に俺のこと好きじゃないのに、告白するんだよ。笑っちゃうよね。

 そこから彼女との交際が始まる。って言っても、彼女は俺のこと好きじゃなかったと思う。


「よし、今日はここで終わりかな」

「はい? 」

「ごめんねぇ、この後塾なんだわ。アリバイなら、その日は塾に行ってたよ。駅の西口から少し歩いたとこのね。塾に聞けばわかるよー。じゃ、はいさっさと出る! 」

 そう言って反論する間もないまま嵯峨崎家を追い出されたのだった。


 嵯峨崎佑は、カーテン越しにとぼとぼ帰る來山愁の姿を見ていた。


 俺が彼に教えていないことがある。

 一つ目は塾のあと、トンネルの下に行ったら美羽はすでに死んでいたこと。

 二つ目はトンネルにいた理由

 美羽に呼び出されていたのだ。十一時にこのトンネルを通れ。と。


 なぜ俺が全てを話さなかったのか。今は話すべきでない、彼がある程度解き明かしてから話すべきなのだろうという直感があったからだ。ちょっとヒントを与えたつもりだ。彼はもう一回僕を訪ねに来る。解けるか解けないかは彼次第だ。

 ポッケからスマホを取り出す。

「もしもし後藤さん、來山がうちに来ました。美羽が死んだ理由を探っているみたいです。ええ、はい。じゃあまた」


「來山、お前は美羽に騙されてるぞ」

 嵯峨崎はもう見えなくなった姿に向かって呟いた。


 6 思い出たち

「はぁ」心の中でついたはずのため息が僕の口からこぼれ出た。僕は進まない足をじっとみながら、嵯峨崎佑が話した彼女の質問を頭の中で繰り返してた。

「生きることと死ぬことどちらが怖いですか」

 たしか、僕と出会う一年前に嵯峨崎と会ったはずだから、彼女は一年も前から生死に深い関心があったのかもしれない。彼女は僕にも同じようなことを言っていた。江戸川公園を通って二人で歩いて帰っている時。桜はもうとっくのとうに散り、緑の葉が生い茂ってる季節。

「ねぇ。死ぬことって、案外単純だと思うの。殺されて痛みに苦しんでも、あとは死ぬだけで怪我みたいに苦しみ続けることは無いでしょ。でもさ、生きてたら死ぬくらいの苦しみも終わらないんだよね。一生苦しみ続ける」

「なにかあった? 」と言って顔を逸らす。彼女の目が潤んでいて、僕はそれを見てはいけないような気がした。

「ううん。なんにも」

 二人の間で風がふく。彼女の髪が風にたなびいて、顔が見えなくなった。

「じゃあ、私寄るとこあるからここで」

 彼女は歩いてきた道を戻って行った。寄り道は明らかな嘘だ。でも僕には彼女を追いかけることが出来ない。慰める手段がない、泣いている理由を無理に聞くのは逆効果だ。聞いて欲しくない、でも慰めて欲しい。その気持ちを解決することは誰にも出来ない。


 神様は時に僕らを見放す。自分の矛盾した感情は自分で整理しろ。人に甘えるな。頼るな。と。


「ねぇ。ちょっと! 」

 思い出から現実に戻ると後ろには立花紫織がいた。お昼に会ったときとは違って青のジーパンにパーカーの、私立のお上品な女子高校生とは思えない格好だ。

「聞いてる? 」ちょっと怒り気味である。

「ごめんなさい。ちょっと回想にふけってて……」

「そんなことはどうでもいいよ。美羽の事件について探ってるんでしょ。なるべく落ち着いて話すから早くして」

 自分勝手で気が強い。

 美羽の言っていた通りだ。ふっと笑いがこぼれる。

「え? 何で笑ってるの? 」

 少し怒り気味の彼女をみて、美羽と初めて出会った時を思い出したら、涙が出てきた。

「え? 大丈夫? もう、これハンカチ」そう言って彼女が取り出したのはクマの刺繍があるハンカチだった。

「このハンカチね美羽とおそろいなんだ。小学校六年の時から仲良かったからその時からずっと使ってるからぼろいの、ごめんね」

 二人ともお金を持っていなかったので仕方なく(僕はコーヒーが飲みたかったからカフェに行きたかったのだ)近くの公園を目指しながら話すことにした。

「んー、じゃあ、二人が出会ったのはいつ? 接点というか仲良くなったきっかけというのもお願い」

「そんなこと話すの? 」

「お願い」

「わかった。美羽は小学六年の時初めて同じクラスになって、最初はあんまり仲良くなかった。あんまりじゃない。むしろうちは好きじゃなかった。きれいな顔してて、全然自分から話しかけに行かないでずっと本読んでて、そのくせすごいモテたんだよね、そういうところが嫌いだった。リーダー的存在だった私からしたら、めちゃめちゃ嫌な存在だったの。好きになった人もみんなとられちゃうから。あ、もちろんいじめなんてしてないよ。少女漫画みたいな話だけど、本当にあったのよ。まあそこからなんで仲良くなったかというと、席替えで彼女が隣になったとき、私が嫌みのつもりで『なんでそんなにきれいな顔して何でもできるのに、友達いないの? 』って。そしたらなんていったと思う? 」

「うーん。私は人と話すのが苦手だから、とか? 」


 私は花だから。


「これが答え」


 「最初はさ、自分が綺麗っていう意味かと思ってびっくりしちゃった。まさか、それ自分で言う! ? って。でも違ったんだよね、花はいつの間にか咲き、いつの間にか消える。誰とも話さぬまま、花弁を天に向かって広げて光を欲する存在だって言ったの。正直今でもよく分からない。でも、なんかこのまま彼女に話しかけずに過ごしていたら、死んでしまいそうで、美しい花を逃してしまいそうで、その花を摘んだの。

 ちなみに、美羽の好きな花知ってる? 」

「知らない」

「カスミソウ。花言葉は"永遠の愛"」

 公園につき、立花紫織はブランコを漕ぎ始めた。

「そこからだんだん話すようになった、って感じかな」

「同じ中高一貫校なのはたまたま? 」

「もともと中学受験するつもりだったんだけど、今のところに行こうとは思ってなくて、美羽の志望校聞いて私も受けようかなぁって。ほかの友達と気まずくなって仲良いのが美羽しかいなかったから」

 彼女は立ち漕ぎをはじめて、大きな弧を空に描き始めた。しばらく喋りそうになかったので僕は缶コーヒーを買いに行った。自動販売機で微糖の缶コーヒーを手にする。僕はいつもコーヒーに砂糖も牛乳も入れず、ブラックで飲む。缶コーヒーは基本飲まないようにしているのだが、今日はなんだか甘くて普段と違うのを飲みたくなったのだ。

「あま」

 これ本当に微糖か……? 一口で買ったことを後悔する。だから缶コーヒーは合わないのだ。

「來山ー」

 遠くから立花紫織の凛とした声が聞こえてくる。突然いなくなったから探しているのだろう。

「いまいく! 」

 僕はこの甘い甘いコーヒーを飲み干し、握りしめて立花紫織のところへと向かった。


 7 警察

 後藤は缶コーヒーをカチッと開けて、捜査資料とにらめっこしていた。

「後藤先輩、眉間のシワ消えなくなりますよ」

「うるせぇ、三上、女子高生がトンネルで殺害された件まだ解決出来てないのかって上から圧かかってんだ。早くお前も手伝え」

「わかってます。現場には防犯カメラはなく、目撃証言もありません。銃音を聞いた住人もいないですし、銃にサプレッサーが付いていたようですね。」

「ハンドガンか? 」

「えぇ」

「ハンドガンなら反動で撃つ度に照準がズレてしまう、犯人は銃の練習をしたのか。」

「鑑識によると頭に撃たれた弾は深く、銃口をつけて撃たれたものだって言ってました」

「銃口をつけたままか」

 額と胸と右の二の腕に銃弾がかすったあと。

 現場には被害者の学生証があった。だからすぐ身元が判明したのだが、被害者は制服を着ていなかった。西篠家の使用人によると、被害者がきていたのは黒の部屋着のワンピースだったらしい。普通、部屋着姿の人間が生徒手帳をもっていくだろうか。そもそも家から離れたところに行くのに部屋着姿で来るだろうか。犯人に急ぎの用事と言われて、部屋着で出ないといけないほど急いでいたのだろうか。だとしたら、スマホ、財布など必要不可欠なのは持っていくだろう。犯人が持っていったのか? と思ったが、被害者の家に、スマホも財布もあった。

 よれよれのスーツから煙草をとりだし、ライターをカチッとならし火をつける。

「先輩、一週間も泊まり込みで臭いのにタバコも吸ったらさすがにあれですよ。もう、これミンティアです、たばこやめたほうが奥さん喜ぶんじゃないですか」

「わーかってるよ。よし、そろそろ聞き込みいくぞ」

 さっきまで口をへの字にしていた三上が真剣な顔つきになる。

「來山愁ですね」

 煙草を灰皿の上でもみ消し、ぐちゃぐちゃにつぶした缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れ、來山の家へと向かった。



 立花紫織はとっくのとうにブランコを降り、滑り台の高台にのぼって、まだつぼみもみえない桜の木の枝に触っていた。

「來山はさ、なんで犯人捜しをしてるの? ? 警察に任せればいいじゃん」

 立花紫織は桜の枝をみながら聞いた。

「それは教えなきゃダメ? 」

「だって私の話したし、それくらい教えてくれてもいいよね? 」

 僕は迷っていた。彼女が殺されることを知っていたとわかったら、立花紫織は傷つくだろう。じゃあなぜ犯人探しをしていることを伝えるのか。

 下を向いたら自分の爪が長いことに気がついた。

 どうしよう。すぐに決められない自分が嫌になる。

「あっ、まゆみだ」

 僕がくじくじしている間に立花紫織はすべり台を軽やかに走りおりて、友達のところへ走っていってしまった。

 いっそ全部話してしまおうか。


「あの、ゆっくり聞いて欲しいんだけどね…………

 美羽に、彼女の生き様について本を書いて欲しいって頼まれていたんだ。別に死ぬ事がわかってたわけじゃないんだけどね」

 僕は嘘をついた。戻ってきた笑顔の立花紫織に。

「そう」

 小さな顔から笑みが消えた。彼女はそれ以上聞かなかった。そのかわりに

「私も犯人探し手伝えないかな。役たたずしれないけど」

 と言った。


 会社帰りの人間やヘッドホンをつけた高校生など、様々な人間が赤信号が青に変わるのを待っていた。立花紫織と別れて、僕は三省堂に行こうと人通りの多いところに出てきた。久々に人ごみの多いところに来たせいか、頭痛がした。人の多いところは嫌いだ。何よりも音が嫌いなのだ。人々の仲睦まじい会話、車の走る音、デジタルサイネージから流れ出す声。

「東京は音が溢れすぎている。調和した音が聞きたくなるから、帰ったらピアノをひくんだ」

 亡くなった父の言葉だ。父は病気で亡くなった。すい臓がんだった。見つけたころにはステージ4だった。

「こればっかりはしょうがないね」

 父は小学三年生だった僕の頭を優しくなでてそういった。

 僕は結局、立花紫織のお願いを断った。真実を知って苦しむのは彼女だろう。世の中には知らなくていいことがある。どんなに知りたいと願っても、知って後悔し、ああ、あの時聞かなきゃ、頼まなきゃよかったと思う。でも聞かなかったら聞かなかったことを後悔する。父は助かるすべがないと聞いて後悔しただろうか。


 頭痛がひどくなったので、三省堂に行くのをやめた。人通りの少ないところを早歩きで歩き、家へと向かう。何度も歩きなれた道だ。

 家に近づくと、どこかで見たことのあるスーツを着た男二人組が門の前で立っていた。何やら話しているようだ。一人が僕に気づく。2人は僕に早歩きで近づいてきた。

「來山愁君だね。西篠美羽さんの件でちょっと話を聞かせてもらえるかな。」

 さっきまでの頭痛はもう消え去っていた。僕の頭には父がよく弾いていたショパンの曲が流れていた。あの曲名はなんだっただろうか。

 灰色の雲から雨が降り始める。庭の葉っぱから雨が滴り落ちる。あぁ。曲名はたしか「雨だれ」だった。天を見上げ、僕は東京の湿った空気を吸った。

「わかりました。でも家以外の場所でお願いします。母が帰ってきてしまうので」


 8 もう一度

 嵯峨崎佑は生徒会室で一人で仕事をしていた。仕事の一段落がつき、窓の外をのぞいたら、パラパラとした雨が降っていた。グラウンドのサッカー部はこんな雨じゃ練習を中止しないらしい。そりゃそうか。土砂降りでも降らなきゃな。朝のラジオではこの後天気が次第に崩れて、雨は次第に強くなるだろうと言っていた。その前に帰ろう。嵯峨崎はノートパソコンの電源を素早く切り、生徒会室の鍵をしめる。生徒会室って案外人が来ないんだなと思いつつ、キーホルダーつきの鍵をぶんぶんと振り回して下駄箱へ向かう。下駄箱を開けたら、手紙と小さなかわいい袋がたくさん落ちてきた。そっか、今日バレンタインだったんだ。

「嵯峨崎君いつもいつもかっこよくて優しくて、もう本当に大好きです! ! !   ほのかより」

 ほのかって誰だよ。多分話したこともない人だな。嵯峨崎は一つ一つ丁寧に拾い上げては、送り主のメッセージを読んでいった。

「嵯峨崎ー! まだ帰ってなかったのか、おっ、そのチョコの量、相変わらずモテモテだな」

 とニヤニヤしているのは、担任のぶんちゃんである。ぶんちゃんはもちろんあだ名である。

「やめてくださいよ。これ、食べるの大変なんですよ」

「嫌みか。じゃあ気をつけて帰ってな。」

「はーい。またね、ぶんちゃん」

 文ちゃんの本名は、鉢川文之助。今どき、文之助と名付ける親がいるのか、と思うが、ぶんちゃんというあだ名は正直可愛いからぶんちゃんが文之助で良かったなぁと思う。

 下駄箱を出たら、うすいうすい、三日月とは言えない三日月のような月が浮かんでいた。嵯峨崎はぶんちゃんがくれた傘を差し、帰り道と逆方向に進んでいく。信号を三回渡れば、人気の少ない所へ行く。あのトンネルの近くである。

 嵯峨崎はポケットに手をつっこみ、しばらくトンネルを見て立っていた。

「嵯峨崎さんですか? 」

 振り返ると、ビニール傘を差した來山愁がいた。嵯峨崎とほとんど身長はかわらず、つぶらな瞳の下に大きなくまを抱えた青年。ほとんど寝ていないのだろう。

「來山くんはどうしてここに来たの? 」嵯峨崎は來山に背を向けたまま、聞いてみた。

「お花を手向けようと思って」

「ふーん。ほんとは俺の後をつけてきただけじゃないの? 」

 來山は黙っている。沈黙はイエスの合図でもある。彼は僕の後をつけてきたのだ。わざわざ花まで買って。

「警察の聞き込み受けた? 」

「はい。僕のことを言ったのはあなただったんですね」

「そうだよ。俺は君が白だと思ってないからね」

 嵯峨崎は振り返った。來山は何も言わない。しばらく沈黙が続いた。最初に口を開いたのは、來山だった。

「この前の話の続きを教えてください」

「わかった。じゃあ駅に向かいながらでもいいかな」

「はい。花を手向けてきます」

 來山は黄色の立ち入り禁止のテープの前で立ち止まり、カスミソウを置き、合掌をしていた。長かった。


「ごめんなさい、行きましょう」來山は早歩きで白い息を吐きながらいう。

「こっち、ってつけてきたから元の道に戻るくらいわかるか」嵯峨崎は苦笑しながら言う。

「美羽が西篠財閥のお嬢様ってことは知っているよね。美羽のうえには五歳年上の兄がいてね、親の期待を背負って生きている人だ。美羽の親はその兄にしか興味がなくて、美羽はそれほど大事にされていなかった。美羽が学校でいい成績をとろうと、別にほめなかったし、風邪をひいても一回も看病しに来なかったような親だ。執事の爺さんがいっつも面倒見て9てね、その人くらいだよ、美羽を大事に育ててくれたのは」

 嵯峨崎はそういってから、角を右に曲がって、人通りの少ない道を選んだ。行きとはまた別の道だ。

「美羽を笑わすのは大変だったよ。めったに笑わないし。ほんと心開いてくれてたのかどうかも怪しい。その暗い顔を見るといじめるのはやめといたほうがいいね、思い出話はいらないか」

 

「なんで別れたんですか」

 僕はずっと彼女に聞きたくて聞けなかったこの言葉を嵯峨崎に聞いてみた。

「わからない。来るべき時が来たって感じかな。結局、素数にはなれなかったんだよ。」

 嵯峨崎は寂しそうな笑顔で笑った。初めて会った時と同じ笑顔で。

 駅に近づくと、そこは光で溢れていて、ぞろぞろと重い足取りで帰っている人間もいれば、家族に電話をしている人間もいて、騒がしかった。

 君に話していないことがあるんだ。嵯峨崎が突然立ち止まって、言う。

 「事件の日、トンネルを通ったんだ」

「え? 」

「美羽に一一時にここにきてって連絡が来ててね。でも行ってみたら彼女が死んでいた」

「それ、本当ですか」

「あぁ。本当だよ」

「なんですぐに連絡しなかったんですか」

「救急車を呼んでももう遅かったし、なにより警察に連絡したら、疑われるのは俺でしょ。」

「じゃあ警察にその話してないんですね」

「してないねぇ、まずいかなぁ」

 嵯峨崎は遠い目をして、その目は光を帯びていなかった。ただの暗闇がうつっているのか、嵯峨崎の眼そのものなのか來山には分からなかった。

「どうして、僕に教えたんですか。僕が警察に言ったらどうするんですか。」

「君は絶対に言わないし、言えない」

「どうして」

 頭がずきずきと痛み始めた。美羽が殺された日、僕が何をしていたのか鮮明によみがえってくる。僕は今にも泣きそうだった。

「君が殺したからだよ」



 9 西条美羽

 雀を見ていたあの日、一人の青年と目があった。ほんの一瞬でそらされてしまったけれど。わかったのだ、來山先生の息子だと。つぶらな瞳がそっくりだった。少し茶の入った黒髪に百七十五センチメートルくらいの背、立ち姿が私に幼いころ見ていた先生の背中を思い出させる。なんども話しかけようと迷ったのに結局その時はできなかった。

 神保町の三省堂。まさかあんな広い場所で会うと思わなかった。惹かれる本ないかなって本棚を歩き回ってたら、君がいた。本に夢中で、何人もが通ってるのにも気づきやしなかった。声かけようかなと思ったけど、最初になんて言っていいかわからなくて困ってたらさ、君の本からスリップが落ちたんだ。これだ! と思って話しかけたら、思わず本の結末まで言っちゃって、あの時はほんとうにごめんなさい。笑ってくれてよかった。

 それから君と仲良くなって、日に日に先生のことを思い出すようになった。

 たしか小学一年生の入学式の前日だった。

 だれにもかまってもらえず、カーテンのしまった部屋で一人で本を読んでいた時、カーテンが突如としてはためいた。私が本から顔を上げると

「初めまして。來山深月です。よろしくね、美羽ちゃん」

 そこに現れたのは穏やかで私を包んでくれる優しい風だった。

 執事の爺ちゃんが先生に頼んだのだと後から聞いた。先生は呑み込みの遅い私にも、粘り強くピアノを教えてくれた。ショパンが好きで、ノクターンや仔犬のワルツを弾いては、

「ピアノっていいだろう。どんな嫌なことがあっても、音楽に入り込むことで忘れさせる。旋律が僕らを導いてくれる」

 とよく言っていた。

 先生はショパンの中でもよく弾く曲があった。はじめてあった時も最初に演奏してくれたのはこの曲だった。先生が丸まった背中をピンと伸ばし、少し太い白い手でピアノの鍵盤に触れる。手の動きを見るにはまだ身長が小さかったので、私はいつも椅子を持ってきてそのうえに立って聴いていた。雨だれ。ノクターンや仔犬のワルツを弾く時とは違った表情を見せるその顔は哀愁に満ちていた。曲が終わり、私が下手くそな拍手を精一杯の気持ちを込めて贈ると、先生はにっこりと笑って、頭をなでてくれた。

「ショパンってね、わずか七才で作曲して、その天才気質から神童と呼ばれたんだ。そう、美羽ちゃんの一個下だね。でも、彼は小さいころから病弱で、わずか三十九歳で亡くなった」

 先生は爺ちゃんが持ってきてくれたコーヒーをすする。

「美羽ちゃん。どんなことがあっても、ピアノを弾くことを忘れないで。鍵盤を躍らせるんだ。そして、いつか僕の息子にも聴かせてやってよ。愁っていうんだ。まだ六才。残念だけど、あいつは微塵もピアノに興味がなくってね。読書しかしてないんだよ」

 あの時の先生は愛する息子を持つ父親の顔をしていた。

 愁くんと出会って二か月くらいたったある日、私はほこりのかぶったグランドピアノを開けて、椅子に座り、ピアノにそっと触れた。

 ショパン 雨だれ。

 最初の音は少し強く、そしてしなやかに、中盤は強く。美しく華麗なメロディーのようで怒りや苦しみも感じられる。ピアノの詩人とも呼ばれたショパンは何を思ってこの曲をかいたのだろうか。

 そして、先生はいつも何を思ってこの曲を弾いたのだろう。

 突然指がとまった。止まったんじゃない、止めたのだ。私の手から奏でたピアノはもうただの不協和音だった。私には先生の雨だれは弾けない。三年習ってあれ以来弾いていないのだ。ピアノを弾くことを忘れないでと言ってくれていたの私の頭をなでてくれたのに。私は弾かなかった。

 あれ。先生が亡くなった日。私は見ず知らずの男の子と一緒にピアノの部屋にいた。目の前には先生が倒れていた。先生、先生。何度呼んでも「どうしたの、美羽ちゃん」と優しく声をかけてくれることはなかった。私は先生にこの薬を渡すよう少年に頼まれて薬を渡しただけなのに。先生は薬を飲んだ瞬間に倒れてしまった。

「先生、どうして、どうして答えてくれないの」私は泣きじゃくっていた。

「君が殺したからだよ」

 そう、男の子は言って、部屋から消え去った。


 おーい。美羽。話の続きをしてくれるんじゃないの。

 ふと現実に戻ると目の前に先生とそっくりの顔があった。ごめんごめん、と愁君に話しながら、頭では、いつか愁君に先生の話をしなければならない。でも、大好きな父親が殺されていたと知ったら? 私が薬を渡したせいで死んだと知ったら? 愁君は信じてくれるだろうか、私は殺していないということを。と考えていた。いつの間にか話は終わっていた。私は愁君に問いかけてみる。

「ねぇ。死ぬことって案外単純だと思うの。殺されて痛みに苦しんでも、あとは死ぬだけで怪我みたいに苦しみ続けることはないでしょ。でもさ、生きていたら死ぬくらいの苦しみも終わらないんだよね。一生苦しみ続ける」

 先生。ごめんなさい。私はもうピアノを弾くことを忘れてしまった。

「なにかあった? 」

 愁君が心配そうに聞き、顔はなぜかそっぽをむいていた。その姿がなぜか揺らいで見えて、あ、私泣いているのかと思う。

「ううん。なんにも」

 穏やかな風が二人の間を通り過ぎていく。緑色の葉っぱがこすれあって音を立てる。きれいな音だな。私は静かに目を閉じる。

「じゃあ……私寄るところあるからここで」

 愁君の隣にいると、すべてを話してしまいそうで怖かった。愁君は追いかけては来なかった。あの優しい性格だから気を使ってくれたのだろう。来た道を戻り、次の角を左に曲がったその時、

「死ぬことって案外単純ねえ、美羽が言うと説得力があるねえ」

 あの日の男の子だった。その姿が揺らいで見えた。今度は涙じゃなかった。


 10 隠していたもの

 家に帰ると、母さんの作るカレーのにおいが僕の嗅覚に鋭くはいりこむ。

「あら、遅かったじゃない。もうカレーできたから一緒に食べようか」台所にいる母さんが僕に話しかける。

「母さん、その前にね聞きたいことがあるんだ。母さんが出張に行く日の前日の夜のことで」

「あっ、福神漬け買うの忘れちゃった。愁帰ってきたのに悪いんだけど、買ってきてくれない? あれ好きなんだよね。コンビニとかで売ってると思うからさ」

「母さん」

「テレビ何みるー? アニメでもい……」

「母さん! 」

「わかった。座って話そうか」

 僕らは丸いテーブルに沿っておかれた三脚の椅子のうち二脚に座った。

「僕が着てたパーカーどこにしまったの? たしか血がついてたと思うんだけど」

「二階の奥の部屋のクローゼットの中」

 母さんは僕の顔を見ることなく言う。続けて質問をする。

「父さんは病気で亡くなったんじゃないんだよね? 」

 母さんは黙ったままだ。肯定も否定もしない。

「やっぱりそうなんだね」

 と確かめると、

「お父さんは、優秀なピアニストだった。でも、すい臓にがんが見つかって、ピアニストを続けられなくなった。そんな時に友達に頼まれて、西篠美羽さんにピアノを教えることになった。お父さんね、あなたと同じくらい美羽さんをかわいがってたわ。僕のピアノを聞いて、笑ったり、手をたたいたり、それが幸せだって言ってた。お父さんが死んだ日、お父さん、病気の薬を家に置いてってね。私は、お父さんがピアノを教えに行く時間にはもう仕事に行っていたから気づかなかった。美羽ちゃんが男の子がくれたって言ってお父さんに薬を渡したんだって。お父さん、てっきり愁だろうと思ったのかな。飲んじゃったんだ。そしたら」

 母さんは泣き崩れた。僕にはその背中をさすることしかできなかった。

「話してくれて、ありがとう。あと一つだけ。男の子はだれだったの? 」

「わ、わからない。美羽ちゃん以外に見た人間はいな、かったらしいの」

 母さんはしゃっくりを上げながら答えてくれた。

「警察、行ってくるね」

 僕は最後に母さんを抱きしめた。昔、父さんと母さんが僕を包んでくれていたように。


 家を出ると外は土砂降りの雨だった。雲は月を隠し、月の光は分厚い雲を通り抜けて地上に届くことはなかった。空を見上げると絶えまなく雲が続いていた。美羽の小説を完成させなければいけない。でも、最後に書くのは僕じゃない。嵯峨崎に美羽に小説を書くよう頼まれていたこと、小説を完成させてほしいことを話したら、快く引き受けてくれた。彼はきっと素晴らしいものを書いてくれることだろう。傘をさし、門から出ると、黒い車が止まっていた。中から出てきたのは男二人で、一人はよれよれのスーツを着て、もう一人は新品のようなきれいなスーツを着ていた。どうやら、僕が警察に行く必要はなかったみたいだ。


 11 ビデオ

「先輩! これ見てください! ! 」

 後藤はガムをくちゃくちゃと噛みながら、三上のパソコンをのぞきこむ。事件が起きたトンネルで男女が話しているようだ。

「ほんとに言ってるの…………? なんで、美羽が父さんを殺すんだよ」

「私はあなたがうらやましかった。存在しているだけで愛されているあなたが。だから來山家なんて壊れてしまえばいいって。だから殺したの。恨むなら私を殺して」

 青年がどうして、と言いながら銃を撃つ。そこで動画は終わった。

「おい、三上、この動画どうした」

「匿名で送られてきました。

「はあ。匿名で」

「それより、この動画の声、來山ですよね? 今すぐ行かないと。」

「おい、まて! 」

 言った時には三上は椅子にかけてたスーツをとり、駐車場に向かっていた。

 まったく。これだから新人教育は嫌なんだと思いながら三上の後を追う。追いながら、動画について考える。いったい誰が、なんでこのタイミングで、動画を出したのか。見た感じ偽装もねられていなかったし、撮った動画そのままを送ったようだった。味のなくなったガムが後藤の喉でつっかえていた。


 12 取り調べ

 來山愁の取り調べは淡々と進んだ。

 西篠美羽さんを殺したのは僕です。あの日、美羽に呼ばれて行ったら、父親を殺した話をされて、理不尽な理由に腹が立って撃ちました。何発撃ったかは覚えていません。ほかに美羽に何を言われたのかも何も覚えていません。気づいたら玄関の前に倒れていて、血の付いたパーカーを着ていたのはかすかに覚えています。

 來山はそれ以上しゃべることはなかった。沈黙を押し通すようだ。後藤は行儀よく座っているつぶらな瞳を持った少年がなにを考えているのか、まったくわからなかった。人を殺して覚えてないなんてことがあるのか、いや、ありえない。どんな人間でも人を殺した感触というのは覚えているはずだ。

 後藤は突然暗闇に放り込まれた。一筋の光も差し込まない暗闇に。その暗闇が開けることはなかった。來山の有罪が確定したのだ。來山の家から大量の血の付いたパーカーが見つかったことが決め手だった。鑑定の結果、西篠美羽の血液と一致。後藤が何度上司に掛け合っても無駄だった。「もう事件は終わった。來山は自供しているじゃないか。ほかに事件は山ほどあるんだよ」と上司は舌打ちをした。後藤は鑑定書を空中に向かって投げる。空気抵抗を受けた鑑定書は遠くに飛ぶことなく、ひらひらと舞って、後藤の足元に落ちた。

 來山が少年院に送致される日、來山の背中に後藤は聞いてみた。

「西篠美羽さんのこと好きじゃなかったの? 」

 青年は伸びた黒髪と手錠のかけられた手首とともに後藤のほうに振り返った。

 青年は言った。ええ、好きでしたよ。殺すのは一瞬。でも殺した後に後悔するんだ、と。彼は寂しそうに微笑んだ。

 後藤は立ちすくんだ。次に言葉を発した時には、來山は車に乗り込み、すでにドアは閉じられていた。


 13 書斎にて

 桜が舞う季節。嵯峨崎佑は西篠美羽の書斎にいた。小説を書き終えた。南向きの窓を開けて、外を眺めると立花紫織が友達と笑いながら歩いているのが見えた。何も知らない笑顔だった。嵯峨崎はショパンの革命をながし、美羽との江戸川公園でのやり取りを反芻していた。

「どうして、ここに」久しぶりに会った彼女は恐怖と憎悪に満ちた顔をしていた。

「久しぶり。美羽は別れを告げて、いきなり俺の前から姿を消した。なんでか、すぐにわかったよ。俺があの時の子だって気づいたから。ちがう? 」

 美羽は黙っている。なぜなら、図星だから。

「まあ、いい。俺にいい提案があるんだ。美羽が來山愁に父親を殺したことを明かし、恨むなら殺してという。やらなければ、來山愁を殺す」

「ちっともいい提案じゃない。自分が何を言っているかわかってるの? 」

「俺は死にたい君の手助けをやっているだけだよ。生きていたら、死ぬくらいの苦しみも終わらないんだろ」

 美羽は鋭く俺をにらむ。いう言葉がないようだ。

「交渉成立だな」


 美羽は俺の手に落ちた。予想通り美羽はうまくやっていた。なのに、來山愁が一発しかうたなくて、しかも腕をかすめただけなのは予想外だった。來山は意気地なしだ。そのうえ、一発撃ってから、気を失うようなやつだ。しょうがないから俺が代わりに撃った。

「最後に一つだけ」

 銃を向けられた美羽が言う。

「先生を殺したのはなんで」

「君を殺す理由と同じさ。スノードロップだ」

 最初は胸、それから頭に銃口をつけてもう一発。スノードロップ。花言葉は「希望」「慰め」。そして裏の花言葉に「あなたの死を望みます」。

 來山愁を盾にして返り血をつけるようにした。彼を家まで運ぶのは大変だった。彼は真実を突き止めることはできなかった。彼もまた俺の手に落ちていった。


 いつの間にか革命は終わっていた。

 《私は自分のための新しい世界を創造する》

 ショパンの名言だ。

 窓から桜の花びらたちが舞い降りてきた。

 彼女の最後は美しかった。嵯峨崎はカスミソウとスノードロップを花瓶にさして書斎を去っていった。

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カスミソウとスノードロップ 如月 小梅 @sekibaika

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