第66話 同じ場所で

 並んで朝のお茶を飲んだ後、それぞれの自室で身支度を済ませた二人は、王宮を出てウルツの街に向かった。


 クレアは馬車を手配しようとしたが、『今日は御者を付けずに馬で行きたい』とヴィークが譲らない。


 第一王子の馬にのせてもらうなんてありえない、と恐縮するクレアだったが、ヴィークに押し切られる形で仕方なく出発することになった。


 改めてクレアを迎えに来たヴィークの服装は、短剣を携えてはいるものの完全な街着だった。上着のフードを被っているため、第一王子の特徴であるエメラルドグリーンの瞳とブロンドの髪ははっきり見えない。


「キースたちは来ないの?」

「……クレアが一緒なら安心だといって、まだ寝ているんじゃないか」


 照れくさそうにするヴィークに手を引かれ、馬にのせてもらう。背中の温もりに、クレアは自分の鼓動が速まっていくのを感じた。


 二人をのせた馬は駆けて、ウルツの街を走り抜ける。


 ソフィーがクレアの部屋にやってきたのが朝5時過ぎだったので、そろそろ街の一日が始まる時間だ。


 途中、脇道に入って緩やかな坂を上っていく。ヴィークが馬を止めたのは、あの場所だった。


「ここ……私、来たことがあるわ。……来年の、夏よ」

「……それはややこしいな」


 馬から下りようとするクレアを遠慮がちに支えながら、ヴィークが柔らかく笑う。


 彼がつけているピアスの色と同じ、透き通った瞳が朝日を吸い込んできらめくのに、クレアは見とれてしまう。それがあまりに美しくて、自分の頬が染まっていることを知られるのすら気にならなかった。


 眼下には、いま上ってきたばかりの緩やかな石坂が見える。石畳の通りには、まだ人けのない民家や店が立ち並んでいる。


 朝独特の空気はこれから始まる一日への期待を内包している感じがして、クレアはとても気持ちがよかった。


「俺は……小さい頃から優秀だったんだよな」


 街の景色を見渡しながら、石壁に頬杖をついたヴィークは言う。


「ふふっ。でしょうね」

 冗談にもとれるヴィークの口調だが、贔屓目なしに本当なのだろうな、とクレアは思う。


「キースとは4歳違いだが、あいつは小さい頃から俺の側近になることが決まっていた。リュイに出会う前は、王宮を抜け出してはよく二人でここに来ていたんだ」

「そうだったのね」


 それは、クレアが初めて聞く話だった。


「子供のころの俺は、どこかずれていたのだろうな。キースは、学問と剣術ばかりじゃだめだ、って言ってさ。あの真面目なキースが王宮を抜け出すのを主導するなんて、今じゃありえないだろう?」


「うーん……キースが。確かに、想像できないわ。でも、今のヴィークはキースの狙い通りになったということね」


 頬に手をあてて首を振るクレアに穏やかな視線を送りつつ、ヴィークは言葉を紡ぐ。


「前に、クレアはここの景色のことを『パフィート国の幸せが凝縮されている』と言ったことを覚えているか?……俺もそう思う。ここに来ると、いつも気が引き締まる」


 クレアと二人でいるときのヴィークは、いつもどこか力が抜けた、リラックスした表情でいることが多い。


 しかし、今街を見つめている彼の横顔には厳しさが垣間見え、この場所からの景色が特別なものであることをクレアに感じさせた。


「そうね。でも、それは夕方の話ね。今は……希望に満ち溢れている気がするわ。一日頑張ろうって思える……では陳腐すぎるかしら。でも、ここに立っていると、不思議と活力が湧いてくる気がする」


 ヴィークは静止し目を一瞬大きく見開く。その後、優しい微笑みに変わった。


「……そうだな」


 しんとした朝の匂いの中に、遠くで、カラカラと馬車が行き交う音がする。

 二人は、朝の清らかな空気を少しの間味わった。


「……リュイに聞いたんだが、将来、女官としてキースたちの補佐をしたいと言っているというのは本当か」

「……ええ……でも……」


 クレアは、少しだけ返答に困る。確かに、王宮での仕事に魅力を感じているのは事実だった。しかし、脳裏にアスベルトの言葉が浮かぶ。


『私たちには公的な立場というものがある。時が過ぎてから後悔しても遅い』


(もしかして、私の夢が女官になることだと信じて、ヴィークは既に動いてくれているのかもしれないわ……)


「女官よりも、クレアの能力が生かせる場所があるぞ」


 想いを伝えるタイミングを既に逃してしまったかもしれない、と気落ちするクレアにヴィークは続ける。


「その場所に身を置くためには、人間性に加えて聡明さや家柄、血筋……人を引き付ける魅力のすべてが必要だ。……誰でもなれるわけではない。クレアが資質のすべてを余すことなく持っていることを、俺は本当に感謝している」


(……?)


 最初、クレアはヴィークが何のことを話しているのかよく分からなかった。どうしても都合の良い方に考えてしまいそうになるのを、なんとか軌道修正しようと試みるところに、ヴィークがさらに重ねる。


「一応言うが……俺は……クレアが資質を備えているからそう望むのではないぞ。適任、と言っていいか分からないが。そのことに気が付いたのは、自分の気持ちを認めてからずっと後のことだ」


 クレアは顔をあげて、ヴィークを見つめる。さっきまでの穏やかな表情はそこにはなかった。張りつめた彼の瞳の中には、ぽかんとした自分の顔が映っている。


「これ以上言うと、父上……国王陛下との約束違反になる」


 それでも、ヴィークは目を逸らさずに聞く。


「クレアから見て、『一回目の俺』はどんな人間だったか」


「あなたは、本当にずっと変わらないわ」

「クレアは……一年先から来たのだろう? 今の俺に足りないと思うところはないのか」


 彼の言葉の意味をやっと理解したクレアは、震える手で懐中時計を取り出すと、ヴィークに見せた。


「これはね、一度目の人生でもあなたにもらったの。……結婚の約束を言葉にしてくれたときに」


『結婚』という言葉に、ヴィークが一歩踏み出した。

 クレアはそれを分かりつつも、緊張に耐えながらなんとか言葉を絞り出す。


「もし、国王陛下との約束があっても、好きだ、ぐらいは言ってくれてもいいと思うの。だって、ずっとこの日を待っていたのだも……」


 みなまで言う前に、クレアの唇はヴィークに塞がれた。目を閉じる余裕もない、一瞬のことだった。


 わずかな間だけ重なった二人の唇が離れた後、驚いて一歩下がるクレアの瞳にヴィークが強引に映り込む。


 いつの間にか腕と頬を支えていた彼の手には力がこもっていて、クレアは抜け出せない。恥ずかしさと、彼の腕の中にいるといううれしさが同時に込み上げて、言いようのない焦燥に駆られた。


「待たせて、すまなかった。……好きだ」


 息づかいが分かるほどの至近距離で真っ直ぐに告げられる言葉に、クレアの涙は溢れた。一度目の人生で自分のことを救い出してくれたヴィークの姿、余裕たっぷりに守ろうとしてくれる姿が思い浮かぶ。


「……私が選んだのは、前のヴィークじゃないわ。過去に戻ったばかりの頃、寂しかったのは本当だけど……でも、すぐに会えて同じなんだって分かった。……いろいろなことを知った分、前よりもあなたを愛しく感じるの」


 ヴィークの腕の力が少し弱まり、彼の指がクレアの涙を拭う。さっきまでの力強さとは対照的に、その触れ方はぎこちなく柔らかい。


 そしてもう一度、今度はゆっくりと深く口づけた。


(もう、絶対に……彼の側を離れない)


 クレアは途方もない緊張感と幸福感に包まれながら、そう誓った。




 どれぐらい時間が経ったのか、辺りには朝食の支度をする匂いが漂い始めている。


 眼下に広がるウルツの街が動き始めたのを二人は感じていた。


「……どこかで朝食をとりながら時間を潰して、街を見てから帰るか」

「いいえ。すぐに戻るわ。だって、今日は午後から教会で聖女様に癒しの魔法を教われる日だもの。ヴィークも書類仕事が溜まっているんでしょう?」


「クレアは本当に……。正妃になったら……キースとリュイが喜ぶな……」


 ヴィークは、甘い時間に口にするのを堪えきったと思えた言葉を、うっかり呟いた。



 ―――――


 カフェで朝食をとった後、王宮に戻った二人は真っ直ぐにヴィークの執務室へと向かう。いつもと違うのは、馬を下りてからずっと、二人の手はつながれたままということだ。


「おかえり」

「……早かったね」


 執務室に入るなり、リュイとドニが声をかける。ドニはなんだか悔しそうだ。


「……帰宅時間を賭けていたな」

「賭けたのはドニだけだよ」


 赤面しつつ苦々しい視線を向けるヴィークに、リュイがさらっと答える。


 キースがクレアの前に来て、片膝をつく。


(……!?)


「クレアが、ヴィークを選んでくれたことを本当に感謝します。主君だけではなく、貴女への忠誠をここに誓います」


 背後では、ヴィークが余裕たっぷりに笑みを噛みしめつつも、少しだけ複雑そうな表情を浮かべている。


「キース……それは俺もまだしていないのだが」

「え」


 一瞬で青ざめたキースの横を素通りして、リュイがクレアを抱きしめる。


「おかえり、クレア。これからは私たちがクレアを守る。今以上に。だから、ヴィークのことをよろしくね」


(リュイ……)


 また涙が出そうになったクレアは言葉を発せずに、こくこくと頷いた。


 二人を横目で見ながら、ヴィークが言う。


「近いうちに国王陛下への面会を設定するぞ」


「……それは遠慮するわ。私の地位で、お忙しい国王陛下からお声がかかる前に謁見をお願いするなんて、非常識だわ」


「確かにそうだが……しかし、俺は」


「私は、ヴィークの隣に立ちたいの。……私の評価は、ヴィークの評価にもなるでしょう? だったら……お声がかかるまでは自分ができることをするわ。とりあえず今は、教会の聖女様のところへ」


「そ、そうか」


 あまりにも強いクレアの決意表明に、婚約への気持ちが高ぶっていたヴィークは肩透かしを食らった格好だ。


 クレアがディオンとともに教会へ向かうのを見届けた後で、顔色を取り戻したキースが微笑みながらヴィークに問う。


「国王陛下には経緯と合わせて、今の言葉も報告しとくか」


「……頼む」


 ヴィークはかなわない、と言った様子で呟いた。

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