第3話 襲来

 クレアは部屋の中を振り返る。部屋の中央には大きなトランクケースが開かれている。ベッドの上には衣服が置かれたままだ。


(……今から私がしようとしていることを悟られたくない)


「ごめんなさい。いまシャワーを浴びたばかりで準備ができないの。このまま伺ってもいいかしら?」


 クレアは、咄嗟に嘘をついた。そこに、聞き覚えのあるシャーロットではない声が口を挟む。


「クレア様、私たち、お部屋の間取りが確認したくて」

「あなたは……キャロライン様?」

「そうです、クレア様」


 キャロラインは、クレアと同学年の伯爵令嬢だ。入学当初はクレアと親しかったが、シャーロットが学院に入学した後はいつの間にか疎遠になっていた。


 クレアの洗礼式後、シャーロットの洗礼式後、と、クレアの周辺からは次第に人が少なくなっていった。寂しかったが、より強力な繋がりを求めて立ち回るのは貴族子弟として当然のことだ。


「明日以降、こちらのお部屋はシャーロット様が使うようにとアスベルト様が仰せです。時間を置いてまた参りますので、お部屋の中を見せてはいただけませんか」


 自信たっぷりなキャロラインに、シャーロットが遠慮がちながらも口を挟む。


「そういうことなんです、お姉さま。お姉さまに悪いし、私は必要ないって言ったのだけれど、アスベルト様がどうしてもって……」

「……!?」


 突然のことに事情が分からず、言葉に詰まる。この部屋は王立貴族学院の中でも特別なもの。次期王位継承者の婚約者として、クレアはこの部屋を使うだけの重責を担い果たしてきたはずだ。


 扉の向こうで、キャロラインがクレアに投げかける厳しい声が聞こえる。


「シャーロット様、まだそんなことおっしゃっているのですか。私たちがお守りするので大丈夫ですわ。……クレア様! お気持ちは分かりますが、シャーロット様のこともお考えになってはいかがですか! いくらお母様が違うといっても、この仕打ちはあんまりです!」

「キャ、キャロライン様! いまここでその話は……」


 キャロラインの暴言を打ち消すように、シャーロットの狼狽えた声が聞こえた。どうしても話が見えないので、クレアはキャロラインに聞き返す。


「……どういうことでしょうか、キャロライン様」


「ご自分がよくご存じなのではないですか。入学当初よりシャーロット様によく聞いています。小さなころからクレア様に虐げられてきたと。私だって、お優しいクレア様はそのような方ではないと信じていました。しかし、最近のマルティーノ家でクレア様のお立場はよく存じております。シャーロット様への悪事が明るみになったからではありませんか!」

「……!?」


 あまりにも衝撃的な内容に、呆然とする。


 クレアにはシャーロットを守ってきたという自覚はあったが、虐げてきた事実などない。母親が違うという複雑な関係を思わせないほど、仲の良い姉妹だと自負してきた。


 当然、キャロラインが言っていることは全く身に覚えのないことだ。声が震えるのを堪えようとするものの、あまりの事態にうまくいかない。


「ごめんなさい、おっしゃっている意味がよくわからなくて」

「もう隠しても無駄なのですよ、クレア様。私だけではなく、アスベルト様も生徒会のメンバーもみんな知っています。これまではアスベルト様が学院にいらしたのでシャーロット様をお守りできましたが、アスベルト様は明日で卒業されます。その前に、シャーロット様の後ろ盾になりたいというお考えなのでしょう」


(……どういうことなの?)


 俄かには信じがたい話だった。クレアは恐る恐るシャーロットに問う。


「シャーロット、今の話は本当にあなたが話したことなの?」

「ご…ごめんなさい、お姉さま。みんなに言うつもりはなかったの。でも私…どうしても辛くて…ッツ」


 扉越しに聞こえてくるシャーロットの泣き声に、クレアはやっと全てを悟った。


(そういうことだったの。アスベルト第一王子の冷たい目。そのように理解しているのであれば、全て納得が行くわ。……もう誤解を解くには、今からでは遅すぎることも)


 口の中から鉄の味がする。いつの間にか、唇をかんで切ってしまっていたようだった。


(かわいいシャーロット……仲が良い姉妹と思っていたのは私だけ。あなたにとって、私は踏み台でしかなかったのね)


「承知いたしました、シャーロット、キャロライン様」


 最後のプライドを保つように、クレアは努めて令嬢らしい声色で続ける。動揺していることを悟られるのはどうしても嫌だった。


「お部屋の中をご案内しますので、またいらしていただけますか。……夕食後の時間に」




 シャーロットとキャロラインが立ち去ったのを気配で感じ取ると、クレアは足早に部屋の中央に広げられたトランクケースに向かう。


「時間がないわ」


 クレアの部屋は女子用の寄宿舎の中で南側の最も高い位置にある。リビングにベッドルーム、広いバルコニーと簡単なキッチンが備わったスイートルームだ。


 この部屋は、公爵令嬢であり、第一王子の婚約者のクレアだからこそ与えられた部屋だった。


(明日はアスベルト王子の卒業式。その後に行われる全生徒が参加する卒業パーティーでは、アスベルトとシャーロットの婚約が発表されるのでしょう)


 慌ただしく、トランクケースに荷物を詰めながら考える。


(生徒会室で確認した来賓のリストには国王や大臣たちの名前もあった。婚約解消は、既にお父様の許可を得たものなのだわ。そして、私はシャーロットに危害を加える人物だと思われている。……シャーロットの背後には王家があると公的に認識させて、私から守らざるを得ないほどに!)


 チクチクした胸の痛みとともに、怒りとも違う、言葉では言い表せない熱い感情が込み上げる。


(……生徒会室でアスベルト様がおっしゃっていた『針の筵』とはこのことだったのね)


「ノストン国とマルティーノ家に、私はもう必要ない」


 ほころび始めていた人生の礎。努力次第でなんとかできると思っていたのは自分だけで、実はもうとっくに崩壊していたのだと思い知らされる。


 弱いところは人に見せてはいけない。


 いつでも、賢く優しい淑女でなければいけない。


 笑顔を絶やさず、国を明るくする存在でなければいけない。


 ――物心ついたころからずっとクレアを守ってきた矜持は、虚構であり幻想だったのだ。


 鏡台の前に座ると、見慣れた顔が映る。


 かつて王立貴族学院に入学する前、ミルク入りの紅茶のような綺麗な色だとアスベルトに褒められた髪を無造作に掴んだ。


 シャーロットにも、サラサラのストレートヘアをよくうらやましがられたものだ。


 ザクッ。


 ザクッ、ザクッ。


 ジョキジョキジョキ…。


 鋏で、ロングヘアをセミロングに切っていく。


 令嬢の証である手入れの行き届いた長い髪は、もう必要ない。


 クレアは、持っている服の中で一番動きやすそうな、シンプルなデザインのワンピースとブーツに着替えた。


 床に落ちた髪の毛を綺麗に掃除し、ベッドを整える。持ち切れなかったたくさんの荷物は、箱にまとめておいた。


「この荷物を残していったら、シャーロットは屋敷に送ってくれるかしら」


(落ちこぼれの私が大切なシャーロットを虐げてきたと信じているであろうお父様が受け入れてくれるかは別としてね)


 ふっ、と自嘲の笑みがこぼれた。


 トランクケースを持って、広いバルコニーに備え付けられた非常階段に向かう。

 2年間を過ごした部屋は振り返らない。


(いい思い出なんて、そんなになかったわ)


 さっきまで心の中がドロドロだったはずなのに、心地よい夜風に頬をなでられて、クレアのこれまで抑えてきた生来の性格が顔を出す。


 春はもう、すぐそこだ。そう思うだけで重いトランクが軽くなった気がした。

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