第43話 憧憬

 残されたルーファスらは、チェイスとティアを連れて行かれた以上、事実上手詰まりとなった。だがこの事態に陥ってもなお、ルーファスにはどうしてもチェイスがエアに賛同したとは思えないのだった。それは兄弟ゆえの情なのか、ただの願望なのか、ルーファス自身にもはっきりとはわからないままだった。


 子供部屋に着くなり、エアは二重の施錠ドアを次々と開けて奥へ進み、最も厳重に管理された研究室の中の冷蔵ケースから慎重にプラスチックの容器を取り出し、中の試験管を確認する。数本の試験管の状態を注意深く確認するエアは、すっかりそちらに夢中で、チェイスやティアの事はまるで眼中にないようにも見えた。


 先程まで握りしめていた銃は、机の上に無造作に置かれ、エアは背を向けている。ようやく容器の蓋を閉め、こちらを振り向いたエアに、チェイスが諭すように言う。


「エア、傷の手当をしよう」


 エアは興奮で痛みを忘れていたのか、自分の右肩に目をやると小さく舌打ちをした。


「こんなかすり傷、どうってことないさ」


「いや、化膿すると命取りだ。止血と消毒だけでもしておこう。それくらいの道具はここにもあるだろう。すぐに済む」


 そう言ってチェイスは渋々椅子に腰を下ろしたエアの肩を消毒して包帯を巻いてやる。おとなしく処置をされたエアは、包帯を巻かれた自分の肩から視線をチェイスに戻した。薬や包帯を片付けたチェイスが振り向くと、その右手には小さな注射器があった。


 エアはチェイスを見て凍りついたように動きを止めた。その表情からは怯えとも怒りとも取れる強い不快感が見て取れる。チェイスはまっすぐにエアをその視線で射抜いたまま、無言でたった今包帯を巻いたばかりのエアの肩に注射器を突き立てた。


「お……まえ……な、にを」


「大丈夫だよ、君も僕に散々使ったろう。少し眠るだけだ」


 エアはそのまま言葉を繋ぐ間もなく、倒れ込むようにチェイスの胸に崩れて気を失った。チェイスはそのままエアを床に寝かせるとティアに向き直り、静かな口調で言った。


「ティア、よく聞いて。この銃を持って部屋を出るんだ。そしてすぐに兄さんたちの所へ行け。途中で誰かに会ったら、躊躇わずに撃つんだ、いいね」


 チェイスは銃の一つをティアに差し出す。ティアは思わず手を引っ込め、受け取るのを拒もうとしたがチェイスはそのティアの手を強く掴んで、その冷たい悪意の塊をティアの手のひらに押し付けた。ティアは二人を残して行くことなどできない。呆然と銃を手にしたまま立ち竦む。


「ティア、行くんだ。このままみんなを死なせるわけにはいかない」


「い……いやだ。チェイス、一緒に行こう」


 ティアはチェイスの穏やかな笑顔に、どうしようもなく嫌な予感を駆り立てられた。チェイスの腕を掴んで引っ張るが、チェイスの体は揺らぎもしない。その手を離したら、もう会えないような気がして、ティアは涙を浮かべて叫ぶ。


「お願いだチェイス! 私と一緒に行こう!」


 子供のように泣きながらそう懇願するティアを、チェイスは抱きしめた。子供の頃から繰り返しそうしてきたように。不安がるティアを抱きしめて、何度囁いてきただろう。大丈夫だよ、と。


 今度もきっと、チェイスはしょうがないなと言ってティアを抱きしめ、笑ってくれる。ティアはほっとしてチェイスの背中に腕を回す。子供の頃から繰り返しそうしてきたように。


 だがティアに回された腕は、息もできないほど強くティアを抱きしめた。驚いて思わず小さくこぼれたティアの声を、チェイスの唇が奪い取る。おやすみのキスでもおかえりのキスでもない、それはティアの知っているものではなかった。


 身動きができないほどきつく抱きしめられ、漏れる吐息は残らずチェイスの唇が奪った。熱い舌がティアの唇をこじ開けて入ってくる。驚いたティアはチェイスの舌を噛まないようにとっさに唇を開く。それに合わせてチェイスの熱い舌がティアの舌を弄る。小さな頭をチェイスの左手が包むように捉えて逃れられない。


 苦しさに、瞼の奥が光るような錯覚を覚えた瞬間、ティアの体は強く突き飛ばされて、よろけたティアは、部屋の外に尻もちをついた。


 ティアの目の前で、子供部屋のドアが音を立てて閉ざされた。呆然と座り込むティアに冷水を浴びせたのは、けたたましく響き渡るアラートの音だった。



 *****



 ティアを部屋の外に突き飛ばし、チェイスはドアを閉めた。部屋の隅に、ネイサンが作った発火装置らしきものがある。ネイサンはどこかで拾ってきた壊れた時計と、古いバッテリーで似たようなものをいくつも作っていた。やがてそれが動き出し、この部屋から火が上がるだろう。チェイスは机の上の書類を破いて、発火装置の上にばらまいた。


 そして奥の部屋で気を失っているエアのそばに腰を下ろす。このまま眠っているうちにすべてが終わる——それが一番いいだろう。だが薬の量が少なかったせいか、エアが鎮静剤を常用していたせいか、時折エアは身じろいだ。チェイスはエアの頭をそっと膝に乗せ、その柔らかな黒髪を撫でた。


 やがて部屋の隅から音もなく炎が上がる。チェイスはその炎を静かに眺めた。小さなろうそくの明かりのような炎は、チェイスがばらまいた紙切れに燃え移り、焚き火の炎に、そして葬送の炎にとあっという間にその姿を変えた。そして部屋中に響き渡る警告音とともに、繰り返し部屋からの退去を促す合成音声が響く。


 その音に、チェイスの腕の中でエアが薄く目を開く。朦朧とする意識のままで、エアは大きく身を捩って逃れようともがく。


「大丈夫、大丈夫だエア。僕はここにいるよ」


「ここは……?」


「安全な場所だよ。心配しなくていい」


「僕の、僕の国をつくるんだ。僕が一番偉くて、みんなが僕を愛する国を……」


「そうだな、作ろう。お前の国を。もう誰もお前を傷つけないよ」


「母さんは……なんであの時ティアを選んだのかな……」


「違う。お前の母さんは、お前を選んだんだ。最後までそばにいようとした」


「君は……きみは……僕の……」


「ああ、ずっとそばにいるよ」


 安心した子供のように微笑んだエアは、そのまま再び眠りに落ちた。チェイスはエアを抱きしめて額にそっと口づけた。遠ざかっていくアラートを聞きながら、チェイスも目を閉じる。懐かしい風景に幼い笑い声を響かせて、手をつないだ幼い子どもが丘を駆け上っていく。

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