第38話 隔離
ティアはひどい頭痛の中で目を覚ました。昨夜どうやって自室にたどり着いたのかも思い出せない。だるい体を持ち上げて辺りを見回すと、いつものこじんまりした私室ではなかった。
目眩に思わず顔を伏せ、こめかみに手をやる。すると身につけている服が視界に入るが、これもいつもの服ではない。素肌の上に一枚羽織ったガウンは、先日体中を調べられたときに着ていたものと同じようだ。
ベッドから抜け出そうとティアが体を起こすと、左手の指に付けられていた機械が外れ、そのすぐそばの四角い箱がけたたましい音を立てた。鈍く痛む頭に不愉快なアラートが響く。目眩に大きく回る天井に吐き気を催しながら、その音を止めようと手を伸ばすと、慌ただしく駆け込んで来た数人の男女にティアは腕を掴まれ自由を奪われた。
「離せ、みんなは何処にいる、私に何をしたんだ」
ティアは声を振り絞ったが、その掠れた声は力なく萎れて、白ずくめの男女はティアに一瞥もくれずに淡々とティアをベッドに横たわらせた。左腕に冷たい痛みがチクリと響いたあと、ティアの視界はあっという間に闇に沈んだ。白ずくめの女が、力なくベッドの上に投げ出されたティアの左腕に点滴の針を固定していると、男が慌ただしく部屋に入ってきた。
「急いで採卵を済ませてくれ。すぐに隔離病室に移動させる」
「何をそんなに慌てているの」
「彼らが逃げ出した。ここにたどり着けはしないだろうが、念の為に移動しろということだ」
「彼らって、この子の連れの三人? 下に連れて行ったでしょう?」
「ああ、アルトマンもいない。あいつが協力したんだろう」
「……ドクターアルトマン、馬鹿な人ね。おとなしく指示に従っていればいいものを」
女はそう言ってマスクの下でため息をつき、ティアの様子を確認すると数人の部下に命じて準備を始めた。エアの求める『完璧な子供』を生み出すために。
*****
ティアが再び目を覚ますと、そこは静かな部屋だった。窓からは柔らかい日差しが差し込み、頬には微かな風を感じる。朦朧とした意識の中であたりを見回すと、ティアの横たわるベッドのそばに人の気配があった。ティアの目覚めに気付いたその人影は立ち上がり、ティアの顔を覗き込む。
「ティア、気がついた?」
懐かしい声にティアは何度か瞬き、目の前の霞のような視界のぼやけを振り払う。
「チェイス? 無事だったのか。——一体何があったんだ?」
ティアの当然とも言える問いかけに、チェイスは顔を伏せる。
「チェイス、怪我をしてるのか?」
ティアはチェイスに手を伸ばす。頬に触れようとするその手を、チェイスはそっと握ってベッドの上に置いた。
「僕は大丈夫、何ともないよ」
自身の体の違和感さえ顧みず自分を心配するティアに、チェイスはひどい罪悪感を拭いきれない。エアは、ティアとチェイスの二人の遺伝子をもとに一族の力を強固なものにしようと企んでいる。
その材料として二人は利用された。いずれ、生物学上ティアとチェイスを両親に持つ子供が生まれ、そしてその子供は馬鹿げた権力争いの中心に担ぎ出されることになるのだろう。そう思うとチェイスはティアに何も言えなかった。握ったティアの手に視線を落としたまま、チェイスは小さく微笑んでティアに声をかける。
「まだ起きないほうがいい。もう少し休んでて。後でまた来るよ」
ティアの手にそっと自分の手を重ね、そう言ってチェイスはティアに背を向けた。
「待ってチェイス、一体なにが……」
「……ごめんティア。後で話すよ。……今はとにかく休んで」
ティアの声にチェイスは足を止めたが、振り向くことなく部屋を出ていった。一人残されたティアの耳には、ベッドのそばの機械の音だけがやけに大きく響いた。
ティアの部屋を出たチェイスに人影が近づく。二人の男を従えたエアだった。
「ずいぶん短い面会だね。ちゃんと話してあげたの? 新しい家族が増えるんだよって」
エアがそう言い終わるのと同時にチェイスは大股でエアに近づき、その白ずくめの服の襟を強く掴んだ。エアの細い体は容易く重心を崩してよろける。護衛の男の一人が後ろからチェイスを羽交い締めにする。もう一人はチェイスの手首を掴んだ。チェイスはエアを睨みつけたが、やがて諦めたように手を離した。
「彼を離して。——君たちはもう下がっていい」
エアがそう言うと、二人の男は表情も変えずに一歩下がる。
「ここで騒いではティアに聞こえてしまうよ。僕の部屋へ行こうか」
エアはそう言って躊躇いもなくチェイスに背を向けると、軽い足取りで歩き出す。チェイスはその後ろ姿を見つめながら、黙ってエアについて行くしかなかった。ここで逆らえば、ティアにも害が及ぶかもしれない。それを避けるためにはエアに従うしかないのだ、そう自分に言い聞かせる。
……果たして本当にそれだけなのか? ティアを永遠に兄から奪い去ることに、本当は喜びを感じているのではないか?
チェイスは自分の胸の奥に暗く湧き上がる疑惑に、背中を一筋の汗が流れ落ちる不快感とともに身震いした。
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