はい、そうです。私が鬼かわ最強のブラックな聖女です。

@-yoshimura-

第1話 「お前は首だぁ」その①

私の名は三華月みかづき

18歳になったその日、処女神アルテミス様に仕える大聖女となった。

『美』と『弓』の神であるアルテミス様から加護を受けた私は、美少女であり、そして狩人でもある。

私の使命とは、神託に従い、世界を正すこと――それ以外に迷いなどあるだろうか。

覚悟しなさい、異教徒のクソ共。

皆殺しにして、世界を浄化してあげます。



ここは、大陸一の規模を誇る帝都。

ただ広いだけではない。秩序と機能、そのすべてが異常なほど高次元で噛み合った、完成された都市だった。


別世界へ旅立ったと語り継がれる古代人が創り上げたという機械人形達が、この街の衛生管理から都市整備、破損箇所の復旧に至るまでを担っている。金属の肢体を軋ませることなく、静かに、正確に、淡々と。それは作業というより、まるで都市そのものの呼吸を制御しているかのようだった。カチ……カチ……と、規則正しい微かな作動音が、街の隅々にまで染み渡っている。


そして帝国には、武神と呼ばれる一族が存在する。

世界最強戦力と謳われる三条家――その名があるだけで、侵略という言葉そのものが現実味を失うほどの抑止力を持つ家系だ。そのため帝都は、世界で最も安全な街として人々を引き寄せ、結果として世界で最も繁栄した都市となっていた。


通常、都市というものは他国からの侵攻を想定し、わざと迷路のように道を入り組ませるのが定石である。逃げ道を確保し、防衛を容易にするためだ。

とはいうものの、帝都に限っては話が違う。侵攻の心配が皆無であるがゆえに、住民の暮らしやすさを最優先した都市設計が施されていた。東西南北へと何本もの主要道路が真っ直ぐに伸び、視界を遮るものは少ない。都市の中心には大きな川が流れ、その水面は街灯の光を反射しながら、ゆったりと夜を運んでいく。その規則正しい流れは、まるで帝都そのものの鼓動なのではないか――そんな錯覚さえ覚えてしまうほど整然としていた。


帝都筆頭貴族、武神の家系。その純血種として生まれた私は、8歳の時にアルテミス神から直々にスカウトされ、神官となった。そして今では、歴史上もっとも神格が高いとされる聖女にまで上り詰めている。


やるべきことは一つ。

神に従い、『信仰心』を積み重ねること。それだけだ。


アルテミス神から授かった『運命の弓』を携え、神託に従いながら、世界各地に点在していた邪神の信者達を一掃した。その長い旅路を終え、私は今、生まれ故郷である帝都へと戻ってきていた。


夜空には、星々が大河のように広がっている。

帝都の古い建物が整然と並ぶ通りを、機械人形達が整備した街灯が、やわらかな光で照らしていた。白い光は冷たすぎず、暖かすぎず、都市の品格そのものを表しているかのようだ。


石板が隙間なく敷き詰められた歓楽街の大通りには、酒に酔った冒険者達が溢れかえっていた。笑い声、怒鳴り声、ジョッキがぶつかる乾いた音。ざわめきはまるで生き物のように蠢き、街全体を低くうならせている。


未知の物質ダークマターを『信仰心』に刻み込み、創り上げた派手な十字架意匠の聖衣を纏った私は、清らかで可憐――聖女の中の聖女と称されるにふさわしい容姿のまま、繁華街の中央に位置する大規模酒場に腰を下ろしていた。

400人以上を収容可能なその酒場。その一角にある5人掛けの丸テーブルが、今夜の私の居場所である。


店内は満席だった。

陽気な声がホールいっぱいに反響し、店員達が皿や酒樽を抱えながら、ドタドタと忙しなく走り回っている。活気という言葉では生ぬるい、熱を帯びた空気が充満していた。


私が座るテーブルには、現在B級冒険者でありながら、すでに超S級の実力を持つと噂される、帝国でも名高い勇者パーティーが集っていた。

そして今まさに――そのテーブルで、よくある追放劇場が幕を開けたところだった。


勇者ガリアンが、手にしていたジョッキを机に叩きつけてきた。

ガンッ!という鈍い音が響き、酒が波打つ。勢いよく立ち上がった彼は、向かいに座る男を睨みつけ、腹の底から怒鳴り声を張り上げた。その剥き出しの感情に、周囲が思わず息を呑むほどだった。


「ゾロア、お前は首だぁ!」


B級冒険者である勇者が叫んだ相手は、D級冒険者の魔術士ゾロア

だが当の本人は驚く様子も見せず、むしろ冷静な視線を勇者に向けたまま、椅子に深く身を沈めていた。対照的に、勇者の額には青筋が浮かび、顔は真っ赤だ。とはいうものの、酒に酔っているわけではないらしい。


その怒鳴り声を境に、先ほどまで今日一番の盛り上がりを見せていた酒場から、陽気な声が一斉に消え失せていく。

まるで潮が引くように――いえ、本当に波が引いたのかと思うほど、店内は一瞬で静まり返る。


ホールスタッフを含めれば400名以上。その視線が、一斉にこちらのテーブルへと突き刺さっている。

誰もが興味津々で、今か今かと続きを待つ目をしていた。追放劇という名の娯楽は、どの時代でも人気なのだろう。もっとも、当の勇者本人は怒りに囚われ、周囲の視線など眼中にない様子であった。


一方、首を宣告された魔術士はというと、やはり微塵も動じていない。半笑いのまま飲んでいた酒をコトリとテーブルに置き、ふぅ……と深く息を吐く。その仕草ひとつひとつが、余裕を示していた。

そして、見下ろすような口調で勇者に問いかけてくる。


勇者ガリアン……今のは本気か? 本当に俺を首にすると言ったのか?」


同じテーブルには、勇者ガリアンと魔術士ゾロアのほかに、私を含め3人の冒険者――美人賢者アメリア強斥候ふぶきつきが座っている。

勇者はイケメンというほどではないが背が高く、いかにも前線を張るアタッカーらしい体格だ。魔術士は線が細く、どこか王宮で内勤をしていそうな、整った顔立ちをしている。

美人賢者と強斥候の2人は、ブチ切れてしまった勇者にどう対応すべきか分からず、視線を泳がせていた。


勇者は、余裕綽々な魔術士の態度が決定打となったのだろう。

怒りはさらに加速し、理性を押し潰していく。


「その上から目線な態度が気に入らないんだよ!」


怒声が酒場に叩きつけられ、木製のテーブルがびり、と小さく震えた。

拳が叩きつけられたわけではない。ただ、それだけの圧を孕んだ声だった。


「そう熱くなるな。ただ確認しているだけだ。本当に俺を切って後悔しないのかってな?」


対する魔術士は、椅子に腰掛けたまま肩をすくめる。余裕。あまりにも露骨な余裕。

声色は穏やかで、視線も淡々としている。とはいうものの、その態度そのものが、勇者の神経を逆撫でしていた。


「しつこいぞ!」


ぴり、と空気が張り詰める。

自分より格下と見下している相手に、こうも余裕をかまされ、しかも上から目線で対応されれば――切れずにいられる者の方が少ないのだろう。

テーブルを中心に、見えない火花が散っているのがはっきりと分かる。


勇者という生き物については、正直なところ、少し……いや、だいぶ馬鹿っぽい。

挑発には驚くほど簡単に乗るし、感情の起伏も分かりやすい。

そんな彼を中心に、追放劇という名の娯楽が、いい具合に熱を帯び始めていた、その瞬間だった。


すっと、一人の影が割り込む。

勇者の視線の先へ、美人賢者が一歩、前に出たのだ。


柔らかな金髪が揺れ、豊かな肢体が周囲の視線を一斉に集める。

しかし彼女の瞳は、ただ真っ直ぐに勇者を射抜いていた。


勇者ガリアン、落ち着いて。魔術士ゾロアはパーティーに必要な人材よ。追放なんて、考え直して!」


その声は凛としていながらも必死で、場の空気をわずかに揺らした。

魔術士を庇うような立ち位置。庇護。擁護。

……なるほど。


これはどう考えても、パーティー内でよくある、あの三角関係というやつなのだろうか。

ふふ。何だか、胸の奥がくすぐったくなってきたぞ。


私よりは可愛くないかもしれない。

だが一般的な基準で言えば、間違いなく美人の部類。しかもダイナマイトバディという、実に庇われがいのある外見を備えている。

そんな美人賢者からの必死な言葉に、勇者は露骨に顔を歪め、不満を隠そうともしなかった。


美人賢者アメリア……なんでいつも魔術士ゾロアを庇うんだ?」


……おいおいおい。

そんなことも分からないのかよ。


勇者おまえ、馬鹿だろ。


美人賢者が魔術士を庇う理由なんて、決まっているではないか。

勇者が、男として負けている。それだけの話である。


現状、パーティーリーダーである勇者が人事権を握っている。

このまま感情のまま突っ走れば、クソ生意気な魔術士は首になるだろう。

とはいうものの――その後だ。


美人賢者がどう動くのか。

パーティーに残るのか、それとも離脱するのか。

ああ、これは実に、見逃せない展開となる。


突然始まった追放劇を見守る酒場の冒険者達も、きっと同じ気持ちなのだろう。

誰もが酒杯を止め、耳を澄ませ、視線を一点に集中させている。


やがて、美人賢者が反旗を翻す形となり、劣勢に追い込まれた勇者は――

何の前触れもなく、こちらへ振り向いた。


その視線が、私を捉える。


そして「とりあえず聞いておくか」とでも言いたげな、実に軽いノリで意見を求めてきた。


「三華月。お前はどう思う? 魔術士ゾロアはパーティーに必要だと思うか?」


……知るか、ぼけ!


邪神に仕える者どもを処刑して戻ってきたばかりの私に。

今しがた、美人賢者からスカウトされたばかりの私に。

この空気で、その質問を投げてくるか、普通。


とはいうものの。


……はい、聞いてくれてありがとうございます。


内輪揉めは大歓迎でして、『信仰心』の次に好物のひとつなのだ。

うむ。私は空気が読める、聖女である。


成り行きを見守る冒険者達が、私の口からどんな言葉が飛び出すのか、固唾を呑んで待っている。

その期待と好奇の混じった視線が、ひしひしと伝わってくる。


心配するでない。

そち達の考えていることなど、ちゃんと分かっておる。


ここは――観客達の期待に応える以外の選択肢は、ないのだろう。

内輪揉めが、より深く、より激しく、より泥沼化するような言葉を慎重に選びつつ。

私は、あくまで冷静な声色で、勇者へと返事をした。


「客観的に見れば、D級冒険者である魔術士ゾロアは、戦力外と判断して差し支えないでしょう」


その瞬間。


勇者の表情が、ぱあっと音を立てたかのように変わる。

一瞬で、ドヤ顔だ。


……本当に、分かりやすい奴である。


成り行きを見守っていた冒険者達から、どよめきが広がり、ホール中にざわりと反響する。

ざわ……ざわ……と、期待と興奮が混じった音が、波のように押し寄せてくる。


ふっ。

この面白い内輪揉めに、決定打を叩き込んでしまったか。


さすが世界最高位に君臨する聖女、と言うべきか。

帝都へ戻って早々、実に見事な仕事をしてしまったものだ。


異様な空気に包まれる中、それでも美人賢者は諦めていないようで、必死な表情のまま、なおも勇者へと食い下がってきた。


「三華月様は、魔術士ゾロアのことを、まだご存知ないだけよ!」


はい。

もちろん、分かっていません。


私はただ、自身の欲求――より楽しい混沌を眺めたいという欲求を満たすために、行動しているだけなのだ。


もっとドロドロのドラマを見せて下さい。

なぜなら、他人の揉め事ほど、面白いものはないのだから。


やがて、魔術士が深く、長いため息をついた。

はぁ……と、空気がわずかに揺れる。


そして、美人賢者へ静かに視線を向け、感謝を込めた声音で告げてきた。


美人賢者アメリア……俺をかばってくれて、ありがとうよ」


そう言ってから、椅子が、ぎい……と低く鳴ると、魔術士は席を押し、ゆっくりと立ち上がった。


「俺は……ここで、パーティーを抜けることにする」


魔術士のその態度からは、どうにも拭いきれない余裕が感じられた。

開き直っている、というよりも、最初からこの結末を想定していたかのような――潔さすら漂っている。

いや、もしかすると。

元々、このパーティーを抜けるつもりだったのではないか。

そう考えてしまうほどに、彼の立ち振る舞いには一片の迷いもない。


対照的だったのは、勇者の方である。

馬鹿みたいに口を開け、腹の底から響かせるような高笑いを始めるその姿は、見るに堪えない。

美人賢者はと言えば、その様子へ氷のように冷たい視線を送りつつ、終始一言も発しない。

そして、強斥候。

彼は彼で、まるで時間が止まってしまったかのように、硬直したまま動けずにいた。


ギィ、と椅子が床を擦る音が響く。

テーブル席から、余裕綽々とした雰囲気を崩さぬまま立ち上がった魔術士へ向けて、勇者が嗤いながら言葉を叩きつけた。


「消えて無くなれ、負け犬がぁ!」


その叫びに、美人賢者の整った顔が、ほんの一瞬だけ歪む。

この勇者からは、いつか必ず“やらかす”匂いが濃厚に漂っている。

もしかすると、私の討伐対象となる『神託』が下る可能性すら、決して低くはないのかもしれない。


そう考えると、このパーティーに参加した判断は、案外正解だったのではないか。

そんな思いさえ、胸の奥に芽生えてくる。


一方、魔術士は微塵も動じない。

細く、薄く、どこか含みのある笑みを浮かべながら、勇者へ最後の言葉を投げかけた。


勇者ガリアン……一言だけいいか?」


「なんだ、負け犬!」


「今後、どれほど困ろうと……俺は二度とお前を助けないからな」


「OKだ。俺もお前を助けないぜ!」


吐き捨てるような即答。


――魔術士がパーティーから抜けると、その日のうちに、美人賢者もまた、まるで後を追うかのように姿を消したのであった。


—————


翌日。

私を含めた3名で、『B級迷宮』の攻略を開始することになった。


美人賢者が抜けた影響は、想像以上だったのだろう。

勇者と強斥候は、どこか落ち着きを欠いた様子で、終始ぎこちない。

とはいうものの、すでに受注してしまった討伐クエストを今さら取り下げれば、冒険者ランクに影響が出る。

そのため、2人は内心の不安を押し殺し、渋々ながらも予定通り攻略へ踏み出していた。


私は冒険者登録をしていない。

ゆえにランクというものは存在しないが、実力だけで言えばS級相当以上。

B級迷宮程度なら、単独であっても楽に踏破できる身だ。


だからこそ。

この2人の“状態の悪さ”が、余計に目についてしまう。


現在地は迷宮の地下3層。

岩地帯が広がり、視界の悪い空間が、だだっ広く続いている。

天井に張り付いた岩石が、ぼんやりと淡い光を放ってはいるものの、その照度は心許ない。

地上で言えば、夕暮れ時の薄暗さに近い。


荒野の岩地を、そのまま迷宮の内部へ移植してきたのではないか。

そう錯覚するほど、無機質で殺風景な光景が広がっている。

ひゅう、と微かな風が吹き抜け、湿気も多少はあるが、不快とまではいかない。


この階層に出現する魔物は、ほとんどがC級相当だ。

それにもかかわらず――勇者の調子が、明らかにおかしい。


おかしい、というより。

そもそも、まともに戦えていない。

そう言った方が正確ではないだろうか。


美人賢者が抜けたことで、精神的に不安定になっているのだと解釈することはできる。

とはいうものの、それを差し引いても酷すぎる。

街ではすでに、超S級の実力を持つなどと噂されていたB級冒険者の勇者は、ここまでの戦闘を見る限り、B級どころかC級ですら怪しい有様だった。


事実、今もすでに戦闘不能一歩手前。

息は荒く、動きは鈍く、足取りも覚束ない。

負傷した勇者を抱えたまま、クエストを続行するのは無理がある。

万が一、この迷宮内で勇者や強斥候に何かあれば、それは“見殺し”と判断される可能性が高いからだ。


そう――『同族殺し』は重罪となり、それは私の『信仰心』を大きく損なう。

信仰心は、私の命よりも遥かに尊い。

それを傷つけるわけにはいかない。


やむをえない。

そう自分に言い聞かせながら、私は2人へクエスト断念を提案することにした。


「皆さん。今回のクエストは、ここで一度中断することにしましょう」


「クエスト中断だとぉ!? そんなもの、却下だ!!」


私の提案に、強斥候は露骨にホッとした表情を浮かべたものの、勇者だけは顔を真っ赤にして怒鳴り散らしてきた。

クエスト中断の原因が、勇者あなたが使い物にならなくなっているせいだと、本気で分かっていないのかしら。


ある程度の馬鹿であることは、理解していたつもりだった。

ものの、それでも。

この態度は、さすがに腹が立つ。


信仰心に影響しないのであれば、勇者が途中で勝手に死のうが知ったことではない。

私の関与しないところで、野垂れ死にでもしてくれればいいのに。


そんなことを考えながら、冷え切った目で勇者を見つめていると、彼は苛立ちを隠さない声で、私を責め立て始めてきた。


「聖女なら俺を回復しろ!! 何故だ、聖女のくせにそれが出来ないんだ!?」


「アルテミス神の聖女である私は、他人の回復は出来ないと、パーティー加入時に、確かにお伝えしたはずです」


「それでも聖女かよ!! 何が最高神だ、何が処女神の聖女だ!! お前、処女なんだろ!? だからガキは使えないんだよ!!」


……ほう。

私に喧嘩を売ってくるとは、なかなか良い度胸をしているじゃないか。


慈愛に満ちた聖女であるはずの私だが、人よりも遥かに低く設定されている沸点は、怒りの棒グラフが一瞬で天を突き破るほど、容易く跳ね上がっていく。


ここで、勇者を半殺しにしてやろうか。

そんな考えが、脳裏をよぎる。


だが、勇者は“世界に希望を与えるJOB”らしい。

ここで手を出せば、この世界に何らかの影響が出るだろうし、何より『信仰心』が削れる可能性がある。


今回は、見逃してやるとしよう。


これ以上、問答を続けるのも面倒だ。

クエストは――このまま続行する。


「承知しました。クエスト攻略は続行します。その代わり、私が前衛に出ます。勇者と強斥候は後方へ下がっていてください」


「俺が後衛だと!? ……まあいい、そうしよう。だが聖女に、俺の代わりが本当に務まるのかな?」


「そうっすねぇ。じゃあ、聖女様の実力ってやつを、じっくり拝見させてもらうっすよ」


数年間――世界各地に点在していたS級相当の異教徒たちを、圧倒的な戦力差でもって淡々と処刑し続けてきた私にとって、B級迷宮の攻略など正直なところ散歩と大差ない。

とはいうものの、ここまでの道中、私は二人の後ろを適当に歩いていただけ。私の実力を知らないのも、無理はないだろう。


だからこそ、だ。

私は一歩前に出て、勇者たちを軽く手で制した。


「ここからは、私が前に出ます」


言外に含ませた意思を察したのか、二人は素直に後方へと下がる。

こうして、B級迷宮の攻略を――私主導で再開することとした。


――――――運命の弓を、スナイパーモードで召喚。


空気が、ぴり、と震えた。

次の瞬間、全長3メートルはあろうかという巨大な弓が、私の両手の間へ滑り込むように顕現する。

光の残滓を引きずりながら姿を現したそれは、神話級――私が大聖女へと昇格した際、神より授かった神器。


満月の下であれば、出力は無限大。

制限という概念を持たない、まさしく神の武器である。


背後から、間の抜けた声が重なった。


「おいおい……そんな馬鹿でかい弓、隠し持ってたのかよ。お前、もしかしてマジシャン聖女だったのか?」


「見た目だけなら、メイド喫茶にいそうなゴスロリ聖女っすよね」


……何を言っているのかしら。

ちなみに、私の見た目は街にいる普通の女の子と大差ない。

とはいうものの、全身にはこれまで積み重ねてきた信仰心が、目に見えぬ刻印として深く刻まれている。その恩恵により、身体能力は帝都に数人しか存在しないS級冒険者すら、遥かに凌駕しているのだが。


さて――無駄話はここまで。


この層に蔓延る雑魚どもは、さっさと殲滅させてもらおう。

月の加護が届かぬ迷宮内とはいえ、A級相当までの魔物なら問題にならない。


――――私は運命の矢をリロードし、スキル《ロックオン》を発動。


空いた手に、一撃必殺用の矢がすっと現れる。

腰をわずかに沈め、呼吸を整えながら、ゆっくりと弓を引き絞る。

ぎり……ぎり……と、弦が悲鳴を上げる中、私は前方1000メートル先にいる魔物へ照準を合わせた。


視界の向こう、魔物の心臓部に――《ロックオン》効果による魔法陣が浮かび上がてくる。

もっとも、魔物が自分が千メートル離れた場所から狙われているなど、気づくはずもない。


ここから、狙撃させてもらいます。


ぎり、ぎり……。

弓が限界を迎えた、その刹那。


私は、溜め込んだエネルギーを一気に解放した。


――――――――SHOOT。


放たれた矢は、ズドン、と空気を割り裂き、音速を超えて一直線に飛翔する。

次の瞬間には、千メートル先。

魔物の心臓に刻まれた魔法陣を、寸分違わず貫いていた。


勇者は、何が起こったのか理解できていないらしく、ぽかんと口を開けたままだ。

一方、強斥候は遅れて状況を飲み込み、息を呑む。


「可愛い聖女さんよ……そんな適当な撃ち方じゃ、普通は魔物に矢なんて当たらないぜ?」


「いや……仮に偶然だとしても、1000m先の魔物にHITしてるんすよ? メイド喫茶にいそうな女の子なのに、この聖女さん……正直、相当やばいくらい出来るのかもしれないっすよ!」


強斥候は、《ロックオン》が発動していた事実を知らない。

だから、偶然だと思っているのだろう。

うんこ勇者の上から目線な物言いには多少ムカつくものの、信仰心が減るほどではない。気にする価値もないか。


その後は、私を先頭に隊列を組み、B級ダンジョンの攻略を滞りなく終わらせた。

何気に強斥候は戦闘力こそ皆無だが、遊撃などの戦術理解はできており、戦闘でもそれなりに役立っていた。

一方、超S級冒険者に匹敵すると噂されていた勇者の実力は――やはりB級相当、もしくは少し届かない程度なのだろうか。


迷宮の出口で、勇者は「畜生、畜生……」と小さく呟きながら迷走していた。


―――――


まだ太陽の残光が、地平線にしがみつくように滲んでいる夕刻。

昨日、魔術士の追放劇という茶番を堂々とやらかした、400席もある大酒場は、この時間帯にもかかわらず、すでに8割近くが冒険者で埋まっている。

まったく、よくもまあ懲りずに飲みに来るものだ。


夜にはまだ早いというのに、店内には酒精の濃い匂いがむん、と立ちこめ、空気そのものが酔っているかのようだ。


テーブルの向かいでは、強斥候と、つい先ほど教会で傷を治してきたばかりの勇者が、運ばれてきた杯をがぶがぶと空けている。

喉の穴が2つあるんじゃないかと思うほどの勢いだ。


ちなみに私は、スキル《自己再生》の影響で酒に酔えない体質である。

食事すら不要で、脳が糖分を少し齧れればそれで十分という、ある意味エコな身体だ。

フォークをそっとデザートに入れながら、胸の奥でくすぶっていた小さな疑念を、つい口にしてしまった。


「勇者ガリアン……どうにも調子が上がりませんね。実に、不穏です」


私の言葉が空気に溶けきる前に、強斥候が恐る恐る口を開いてきた。


「その件なんすけど……勇者の不調っていうより、魔物のほうが底上げされた感じがするんすよ」


全身黒装束、小柄で童顔。成長期と別れた少年、といった印象の男だ。

腰に差した短剣2本は、護身用兼なんでも屋の道具だろう。

彼の表情に、噓はない。


だが、その言葉は私の感覚とは微妙に食い違っていた。

ダンジョンの魔物は、弱っちい雑魚ばかり。強化されたという印象は、正直皆無。


とはいうものの、勇者の沈黙した表情も、どこか引っかかる。

腑に落ちない空気の中、強斥候は緊張で喉を鳴らしながら、話を続けてきた。


「三華月様……魔術士ゾロアさんは、“デバフ”の使い手だったんです。僕……あのデバフ、魔物に相当効いてたんじゃないかって、思うんすよ」


常識的に考えれば、D級冒険者が放つデバフひとつで戦況が劇的にひっくり返るなど、まずありえない。机上の空論、与太話、その類だろう。

――だが。

もし彼の“違和感”が正しく、もし勇者(B級マイナス)が超S級の無双をできてしまっていた理由が、たった一人のデバフにあったのだとしたら。


話は、途端に一本の線で繋がってしまう。


仮にその仮説が正しいとする。

C級相当の魔物を、勇者が草を刈るように薙ぎ払っていた理由を説明するには、どれほどのデバフが必要なのか。

答えは、ステータス80%ダウン級。常識を踏み越えた、悪夢のような弱体化だ。


該当するスキルはひとつしかない。

S級スキル――『アビスカーズ』。

私ですら実物を見たことがない、レア中のレア。書物の中でしか語られない、都市伝説じみた代物だ。


そんなことを、ぼんやりと推論していた、その時だった。

ふと顔を上げると、向かいに座る2人が、揃ってこちらに熱を帯びた視線を向けていることに気づいた。


……ああ、なるほど。

そう来たか。美少女の宿命、というやつかしら。

ほんと、罪な聖女である。


いや、待て。

お前ら、まさか私を口説く気じゃないだろうな?


美人賢者がいなくなった途端、すぐ近くの美少女に乗り換えようとするその浅ましい下心、丸見えなんだが。

男という生き物は、どうしてこう、どこまで行っても残念な屑なのだろう。まったく。


告白されたら、全力で叩き潰す心構えで身構えた、その刹那。

黒装束の強斥候が、斜め45度という微妙に逃げ道を残した角度から、言葉をねじ込んできた。


「三華月様……魔術士ゾロアさんについて、何かお気づきの点があるなら……教えていただけませんか?」


……ああ、そう。

美少女だから見てたわけじゃないのね。

危うく盛大に勘違いして、告白を断るところだったじゃないか。


結局のところ、お前ら――

おっぱいの大きい美人賢者の方が良かった、ってわけかよ?


世の中がおっぱい星人で埋め尽くされている、という都市伝説。

……案外、ガチなのかもしれないな。


まあいい。

それはそれとして、話を進めよう。


「D級冒険者の魔術士が、ステータス80%ダウンのS級スキル『アビスカーズ』の使い手だったとすれば……辻褄が、綺麗に合いませんか?」


言葉を落とした瞬間、勇者が弾かれたように声を荒らげた。


「ステータス80%ダウンだと!? ありえん……ありえん!魔術士ゾロアが、S級スキル持ちのはずがないだろ!」


「いや……三華月様の推測、意外と現実的かもしれないっすよ」


強斥候が、顎に手を当てながら続ける。


「S級相当の魔物を倒したとき、器と適正があれば……稀に、その魔物のスキルを得るって噂、ありますよね?」


スキル獲得において、最も重要なのは資質だ。

望んだスキルを、狙って手に入れられるわけではない――それは、冒険者であれば誰もが知っている常識である。

ましてS級スキルともなれば、資質だけでは足りない。特定条件を満たすか、S級魔物を討伐するか、そのどちらかが必須となる。


私が数多くのS級スキルを持っているのは、特定条件――つまり信仰心の上昇と、月の加護によるものだ。

一般人が取得するには、S級魔物を狩る以外、ほぼ道はない。


黒装束の強斥候も、その点に思い当たる節があるのだろう。

勇者もまた、苦い表情のまま黙り込み、どこか心の奥で“察している”様子があった。


私は、押し黙った2人を見据え、探るように言葉を投げる。


強斥候ふぶきつきの言う通りです。S級相当のダンジョンマスターを討てば、適正と器さえあれば……D級冒険者でも、S級スキルを獲得できます。

魔術士ゾロアは、S級魔物を倒した経験があるのでしょうか?」


「詳しくは知りませんが……魔術士ゾロアさん、1年前まで帝国最強ギルド“麒麟”に所属していたって聞きました。その時、S級魔物討伐のパーティーに入っていた可能性は、あります!」


魔術士ゾロアがS級スキル持ちだなんて……そんな話、断じてありえん!」


勇者の必死の否定は、あまりにも分かりやすい動揺の証だった。

一方、強斥候の目には、半ば確信に近い光が宿っている。


――とはいうものの。

2人とも、まだ真実の核心には辿り着けていない。


話していて、はっきり分かったことだが、この2人、魔術士のことを、驚くほど何も知らない。


酒場の喧騒が、どん、と空気を揺らし続ける中。

私たちのテーブルだけが、まるで結界に包まれたかのように、奇妙な静寂に沈んでいた。


「話を聞く限り……勇者ガリアン強斥候ふぶきつきも、魔術士ゾロアのことを、ほとんど把握していないようですね」


「そうです……魔術士ゾロアさんは、3ヶ月前に加入しましたけど、自分の過去を語りたがらなくて……だから、三華月様の言う通り、僕たち……彼のことを、ほとんど知らないんです」


「となると……」


私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「魔術士は、帝国最強ギルド“麒麟”にいた頃、S級魔物討伐で、幸運にも『アビスカーズ』を得た。

そう考えるのが……最も自然、だということですか」


「でも……それだと、引っかかる点もあるんすよ」


強斥候が、首を傾げた。


魔術士ゾロアさんが加入した直後は、そこまで強烈なデバフがあるとは、感じなかったんです」


「とはいえ……」


私は視線を向ける。


「この3ヶ月で、大きな戦果を挙げているのでしょう?」


問いかけに、強斥候は素直に頷いた。

勇者は相変わらず、曖昧な沈黙を守ったままだ。


おそらく――

魔術士は、この3ヶ月で、少しずつデバフ効果を強めていったのだろう。

でなければ、整合性が取れない。


その瞬間。

現実を拒絶する子どものように、勇者が目を見開き、喉の奥で小さく唸った。


「違う……俺が……俺が、強くなったんだ……!」


魔術士ゾロアが首を言い渡された時、随分と尊大でしたね……あれは、勇者を見下していたからでしょう」


「俺は……俺は認めないぞ!!」


『ボコ』


「いってぇ! 俺を殴るんじゃない!」


『ボコボコ』


……勇者が、気絶した。


しかも一瞬ではない。

見事なまでに、完全沈黙だ。


やっぱりこの勇者、相当に弱いのではないか。

そう確信せざるを得ない光景が、賑わいの絶えない酒場のど真ん中に堂々と展開されていた。


磨ききれていない木の床板の上。

勇者は大の字になって転がり、頬を板に押しつけ、両腕も両脚もだらしなく投げ出している。その姿は、まるで「本日の敗北」をテーマにした展示用彫刻作品か何かのようで、無駄に完成度が高かった。


周囲のテーブルでは、湯気を立てる酒杯を片手にした客たちが、ただ愉快そうに視線を投げてくる。

指差す者、笑う者、賭けが成立していそうな者までいる始末だ。


……ああ。

勇者という存在の扱いが、日々軽くなっていく気がするのは、私だけなのかしら。


そんな喧噪の渦の中、酒場の奥に据え付けられた掲示板に、新たに貼り出された一枚の紙があった。それに気づいた酔っ払い達が、まるで合図でもあったかのように、ざわりと空気を揺らし始める。


酒臭い息を飛ばしながら、「本当か?」「冗談だろう?」と声が飛び交い、視線が一斉に掲示板へと吸い寄せられていった。


――魔術士が、あのB級迷宮を、軽々と攻略した。


その報せだった。


普通ならD級冒険者程度の実力しかない魔術士と、美人賢者。

たった2名で、B級迷宮に挑む?

正気の沙汰ではない。いや、正気であろうとなかろうと、無理なものは無理だ。


にもかかわらず、情報通として名を馳せる強斥候が、すでに内容を読み終えていたらしく、周囲の注目を一身に集めながら、得意げに語り始めた。


魔術士ゾロアさんと美人賢者アメリアさんに加えて、2名の奴隷を含む、計4名でB級ダンジョンを攻略したそうです」


ふむ。

その奴隷2名というのは、猫耳族の剣士と、人狼族の少女らしい。どちらも腕前は未知数だが、B級以上の冒険者だとは到底思えない。

そんな寄せ集めで、B級迷宮を?

まともに考えれば、「無理」の二文字で片付く話だろう。


……とはいうものの。


もし、あの魔術士がS級スキルの保持者だったなら。

話は、まったく別物になる。


魔術士ゾロアは、S級スキル『アビスカーズ』の使い手で確定と見ていいでしょう」


その言葉に、強斥候が眉をひそめる。


「ちょっと待って下さい。どうにも腑に落ちない点があります。魔術士ゾロアさんは、自分が『アビスカーズ』の使い手だということを、なぜ僕達に黙っていたのでしょうか?」


……ああ。

この男は、まだ分かっていないのか。


魔術士が、この勇者パーティーに加わった理由?

そんなもの、決まっている。


美人賢者がお目当てだった。それ以外に、何があるというのか。

真っ黒だ。ど黒だ。墨汁を飲んで吐き出したみたいに黒い。


私自身、あの魔術士に綺麗に踏み台にされたような気分で、内心ムカムカしているものの、それは胸の奥に押し込み、現実を見るしかない。


――結局。

パーティーの要は、勇者ではなく、魔術士だった。

そういうことになる。


と、その時だ。


足元の床から、乾いた石ころみたいな小さな声が聞こえてきた。


「俺は……認めない……!」


あら。

もう復活したのか。


かなり強めに殴ったはずなのに、なかなかの生命力である。

さすが勇者……と言いたいところだが、こういう時だけタフでも、まったく意味がない。


勇者の無駄遣い。

ここに極まれり、だろうか。


そう思った瞬間、ふと、妙案が閃いた。


――使えない勇者でも、唯一できることがあるではないか。


勇者ガリアンには、魔術士ゾロアにパーティーへ戻ってきてもらうよう、直接お願いしてもらいましょう!」


「俺は認めない!」


「勇者は魔術士に土下座をして下さい!」


「断る!」


『ボコボコボコボコ』


鈍い衝撃音が連続し、勇者は再び、豪快に床へ沈んだ。


……まったく。

役立たずのくせに、口だけは達者なのだから。


そして私は、決めてしまった。

追放した魔術士に、勇者が土下座する姿――それを、どうしても見てみたい。


きっと、あの魔術士も、私と同じことを考えているはずだ。

そうに違いない。


——————


翌日の夕方。


私は役立たずの勇者を引き連れて、魔術士が暮らしているという家へ向かっていた。目的はもちろん、ただひとつ。

勇者の土下座を、この目で堪能するためである。


勇者はというと、美人賢者への未練という名の鎖を、ズルズルと引きずりながら、私の提案に渋々同意をした。

……実に、扱いやすい男だ。


強斥候が調べ上げた住所へ辿り着くと、そこには帝都の外れとは思えないほど立派な屋敷が建っていた。


二階建て。

広い間口。

門から玄関までの距離はやたらと長く、庭木は丁寧に手入れされている。


どう見ても、D級冒険者が住む家ではない。

金持ち貴族の隠し財産か……とも思ったが、あの魔術士に限って、そこまで品のあるオチでもなさそうだ。


隣を見ると、勇者は目を丸くしたまま固まっていた。

驚きすぎて言葉を失っているのか、脳が完全に空回りしているのか。そのどちらでも、今さら大差はない。


空では西日が屋敷の影を長く引き延ばし、東の空は藍色に溶け始めている。

人影はまばらで、隣家との距離は100メートル以上。木々と草は好き勝手に育ち、夏の虫の声が風に混じる。


――帝都でありながら、田舎の風情すら感じさせる、妙な地区だった。


屋敷の扉をノックすると、やがて中から、美人賢者が姿を現してきた。


その瞬間。

勇者の挨拶は「よう、久しぶりだな……」と、情けないほど震え、顔は引きつり、視線は泳ぎ、見ているこちらが笑うしかないほど緊張している。


……なんだ、その態度は。


私に向ける、いつもの雑で偉そうで無神経な態度は、いったいどこへ消えたのか。

確かに、美人賢者はナイスバディだ。認めたくはないが、それは事実だ。


……とはいうものの。

可愛さなら、私の方が上ではないか。

どうしてそこは、見えないふりをするわけ?


「性格が良い女がモテる」なんて。

そんなファンタジーみたいな綺麗話、この世界に存在していたかしら。


美人賢者の話では、魔術士は不在で、現在は猫族の剣士と共に、B級ダンジョン攻略の真っ最中らしい。帰宅時間は不明。


つまり――勇者の土下座ショーは、またお預けということだ。

残念……ではあるものの、むしろ焦らされる分、妙な期待感が膨らんでいく。


それにしても。

美人賢者は、やけにやつれて見えた。

目元の陰り。

微妙に乱れた髪。

疲労が抜けきっていない肌。

悩みでも抱えているのだろうか。


――――――――その瞬間だった。

空気が、わずかに軋んだ気がした。

予兆はない。前触れも、警告もない。ただ唐突に、私の内側で何かが弾けるようにして、スキル『真眼』が起動したのだ。


ぞわり、と視界の奥が震える。

意識が一段、深い層へ沈み込む感覚。世界の裏側に触れてしまった時特有の、あの嫌な冷たさが背筋を撫でていく。


『真眼』。

世界の記憶――すなわち『アーカイブ』を所有する者だけが授かる特別中の特別なスキルであり、極限まで鍛え上げれば『神眼』へと進化するとまで言われている、超が付く代物である。


とはいうものの、この私をもってしても自由自在に扱えるわけではない。

満月の夜、月の加護を受けてようやく実用レベル。普段は、命の危機が迫った時にだけ、半ば勝手に起動する――はず、だった。


だが今はどうだろうか。

私は別に追い詰められていない。魔物に囲まれているわけでも、罠に落ちたわけでもない。せいぜい、勇者のどうしようもない醜態を思い出して、内心で頭を抱えていた程度である。


危険?

ない。断じて、ない。


それなのに、なぜ今――?


疑問が形になるよりも早く、『真眼』は容赦なく答えを叩きつけてきた。


『美人賢者が、めちゃくちゃエッチをしている』


…………。


……はい?


思考が一瞬、完全に停止した。

次いで、こめかみにじわじわと鈍痛が走る。


この超S級スキル、本当にゴミなのではないだろうか。

世界の記憶だの、神眼だの、いかにも壮大で神秘的な名前を冠しておきながら、よりにもよって暴いてくるのが他人の性生活とは、どういう冗談なのかしら。


そもそもだ。

若い男女が同じ家で暮らしていれば、まあ……そうなるのは自然の流れだろう。わざわざ知る必要もないし、正直、興味もゼロだ。どうでもいい。


……どうでもいい、はずなのだが。


美人賢者が最近やつれている理由がそれだと分かってしまい、胸の奥でほっと息をついた自分がいたのも事実だった。

過労でも病気でもなかった。それだけで安心してしまうあたり、我ながら複雑なのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。


――――――――そして、まさにそのタイミングで。


間が悪い、という言葉では生ぬるい。

運命が悪意を持って狙い澄ましたとしか思えない瞬間に、勇者が何の躊躇もなく、私の胸に突き刺さる一言を放ってきた。


「アメリア。やつれているように見えるけど、大丈夫なのか?」


……あ。


おい。

おいおいおい。

うんこのくせに勇者、ここでクリティカルヒットを叩き出してくるのか?


精神的ダメージがでかすぎる。

しかも、タイミングが完璧すぎるだろう。今聞いた情報が脳内でリフレインしているこの状況で、その台詞は反則だ。


安心しろ、勇者。

美人賢者がやつれている理由は“エッチのし過ぎ”だからだ。


お前には一生縁のない世界!


そんな毒にも似た感想を胸の奥に押し込めながら、ふと視線をやると、勇者は顔を真っ赤にしてオロオロしていた。

どうやら本気で心配しているらしい。その必死さが、また何とも言えず滑稽で。


ぷる、と肩が震える。

笑いがこみ上げてきて、喉の奥がひくりと鳴った。


……まずい。

これは、堪えるのが相当難しい。

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